したい

二石臼杵

食死体

 母さんの死体を見つけたのは、学校から帰ってきたときのことだった。


 いつも通りの放課後。いつも通りに友達とだべって、適当に時間を潰して、そこそこに寄り道をして、いつも通りに帰路につく。

 まだ空気の生温い、空がすみれ色に侵された夏の午後六時半。

 いつもと違うものが、家の前の道路に転がっていた。

 俺は最初、何が落ちているのか分からずに近づいて。しだいにその正体が母さんだと分かると、原付を降りて駆け寄った。スタンドを立てるのも忘れて、背後で原付の倒れる音がした。


「母さん!?」


 その頭の横あたりでしゃがみ込む。肩を触ると、ぐにゃりといやに柔らかい感触が伝わってきて、思わず手を離してしまった。今の空気と同じ、生温い体だった。

 見た目にはっきりと確認できる傷もなく、ただ鼻と右耳から一筋ずつ、赤黒い線をこぼしているだけだ。

 目は起きているときと同じくらい開いているのに、ここにあるものを何も見ていなくて、別の世界を虚ろに眺めているみたいだった。母さんの瞳は真っ黒ではなくて、くすんだ茶色なのだとこのとき初めて知った。大きく暗い瞳孔が、感情の色を映さない深い穴になっている。

 薄いピンクに縁取られた口は「さ」と発音するときの形に似ていた。よだれが乾いたあとなのか、口の端には白いふけのようなものがこびりついている。

 寝返りを打った直後みたいに体は少しだけ傾いていて、ひどくなだらかなくの字を描いている。服装はいつも仕事に着て行くときの私服で、握力をなくした手の横にはハンドバッグが佇んでいた。


 ふと我に返って、自分が「観察」をしていたことに気づく。体は興奮で熱いのに、頭は驚くほど冷えていた。母さんの死体に見入っている自分がいる。それほどまでに、今の母さんは、どこか芸術品に近い引力を放っていた。

 この雰囲気に飲み込まれちゃいけない。そんな見えない声に突き動かされて、思わず母さんから目を逸らす。

 そもそも、まだ死んでいると決めつけるのは早い。とにかく救急車を呼ぼう。

 ポケットから携帯電話を取り出して、もう一度母さんの方に目をやる。

 不意に、そのピンクの唇がにたりと舌なめずりをした。

 母さんの顔の中心に、一本の黒い線が縦に走る。


「え」


 それだけ漏らすのが精いっぱいだった。

 母さんの全身がその線を境に左右に開き、てらてらとぬめるピンク色の中身をさらけ出す。

 どろりとあふれる肉の粘液が俺の足元に広がったとき、ようやく手遅れなのだと分かった。

 自分の体が、肉色の沼に沈んでいく。沼の表面でいくつもの気泡が浮かんでは弾け、弾けては消える。


 ああ、そうか。

 これは母さんじゃないんだな。



 意識が戻って目を開けると、周りは真っ黒だった。自分が目を開けている感覚さえおぼろげな、耳が痛いほど静かな闇の中。

 どこまでも黒で塗り潰されただだっ広い空間で、俺は目が覚めた。

 ここはどこだ。自分の体すら見えない。ここは母さんの中なのか。

 もやがかかった頭で考えていると、目の前に母さんがいた。

 いや、果たしてそれが母さんなのかどうかは分からない。ただ、俺がよく親戚の人にそっくりだと言われる目と、ピンクのルージュを塗った口だけが、福笑いのパーツのように暗闇に浮かんでいた。

 唇が開く。


「ああ、やっぱり来てしまったの。ありがとう」


 まぎれもなく母さんの声だった。


「かわいそうな子。美味しそうな子。愚かな子。優しい子」


 二つの目は悲しそうにぼろぼろと涙を流し、口は歯ぐきを見せておかしげに笑う。


「母さん、なのか?」


「ええ、ええ。そうよ。そうなのよ」


 目尻を下げ、唇を歪ませてそれは答える。


「ここは、どこなんだ?」


「母さんの中よ。母さんの中でもあるし、今はもう正孝まさたかの中と言っていいかもね」


 何を言っているのかまるでつかめない。


「正孝。母さんの死体を見たでしょ」


 不十分な顔のかけらが俺の名前を呼ぶ。


「そうだ、母さんはどうなったんだ? 俺はどうなっているんだ?」


「これを見なさい。これは母さんの目だけど、もう正孝の目だから」


 そう言って、母さんの目は俺を覗きこむ。その瞳に映っていたのは、倒れている原付。そして原付のミラーの中には、鼻と耳から血を流して倒れている俺の姿があった。

 俺が、死体になっている。

 母さんの死体があったはずの場所に、代わりに俺の体が転がっている。母さんの死体だったものが、俺の死体に変わっている。

 一つまばたきをすると、母さんの瞳は俺を映すのをやめた。


「分かったでしょ? 母さんの体はもう正孝のものになってる。ここはもう母さんの中じゃなくて、正孝の中なの」


「俺を、引きずり込んだのか? どうして?」


「食べたかったからよ。この中に入るとね、無性に命を食べたくなる。お腹がすいてすいてたまらなくなる。どうしても誰かを食べずにはいられなくなるの」


 この人は何を言っているんだ。頭がどうにかしてしまったんじゃないのか。いや、おかしくなったのは俺の方なのかもしれない。


「最初、母さんは父さんの死体を見たの。もちろんすぐに駆け寄って、救急車を呼ぼうとした。さっきまでの正孝のように。そして、そのあともまったくおんなじで、父さんの中に引き込まれたの」


「親父が?」


 親父もああなっていたのか? ますます訳が分からなくなる。


「父さんは猫の死体に呑まれたみたいよ。そして、死体になって私を食べた」


 死体が、人を食べる? それも、姿かたちをとっかえひっかえしながら?

 まるで、死体の入れ子人形だ。食らったものの姿をかぶって、次々と人を食っている。この中に、いったいいくつの命が入っているんだろうか。


「親父は、ここにはいないの?」


 黒の中を見回しながら尋ねる。それでも見えるのはやっぱり、母さんの目と口だけ。


「父さんなら、母さんを食べて、こうやって話したあとに消えていったよ。いずれ母さんも消えると思う」


 真っ暗闇にくっきりと浮かぶ母さんは、涙を流しながらほくそ笑む。


「……そろそろ時間みたい。正孝を食べられてよかった。さすが母さんの子ね、とても美味しかった」


 母さんの顔がどろりと溶け始めた。淡く光って下に流れ落ちるそれは、水銀に似ていた。崩れ落ちる母さんは、俺の足元にたどり着く前に水銀状からさららさらの細かい粒になって散っていく。

 けど、俺はまだ聞きたいことがいくらでもあった。


「待って! これは、この死体はなんなんだ!? これは本当に死体なのか!? 死体に擬態した、化け物じゃないのか!」


 もはや数本の歯だけになった母さんは、かちかちと音を打ち鳴らしながら優しくささやく。


「ううん、違う。きっとこれは、誰かのくれた平和への道。本当の平和を買うために、命を貯めていく貯金箱。この中に全部の命が入ったとき、みんなが幸せになれる世界が生まれるのよ。……じゃあ、もう行くね。正孝も、ちゃんと食べなさい?」


 そうして、母さんの何もかもがこぼれ落ちた。母さんは、その「幸せな世界」とやらに先に行ったんだろうか。

 とたん、いきなり視界がすみれ色に染まった。空だ。俺は今、死体となって周りを見ている。


佐東さとうくん、大丈夫!?」


 視界に、女性の顔が入り込む。

 クラスの高崎たかさきか。家が同じ方向だから、俺を見つけたんだろう。俺に、見つかってしまったんだろう。


「えっと、そうだ、応急処置だけでも――」


 ハンカチを取り出し、俺の血を拭おうとする高崎。本当にいいやつだな。中学の卒業式のあと、俺はきみに告白できなかったことを気にしていたんだ。


 ああ、それにしてもやけに腹が減った。

 そうだ、今なら言える。俺はきみのことがずっと、ずっと――


 食べたくて、しかたなかったんだ。


 額から臍のあたりにかけて、一筋の線が走るのを感じた。

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