恋人以上、プロポーズ未遂

二石臼杵

率直に言って?

 今日香きょうかさんの作る味噌汁は美味しい。手の中にあるお椀を傾けながら、僕はそんなことをぼんやり考えていた。

 煮干しを出汁にして、具は豆腐と揚げとわかめというシンプルな味噌汁。だけど、今日香さんが作ったものはどれも美味しく感じる。

 台所を見ると、タートルネックのワンピースの上からエプロンを着けた彼女のうしろ姿が見える。セミロングの茶髪はまとめてあって、そこから覗くうなじに不意にどきっとした。ときどき一オクターブずれる鼻歌を奏でながら、今日香さんは楽しげに包丁のリズムを刻む。

 彼女は、たまにこうやって料理を作りに来てくれる。一人アパートで暮らしている身にはありがたいことだし、何より今日香さんの台所での立ち姿を見ることが、僕はたまらなく好きだった。


「できたよー、淳一じゅんいちくん」


 たくあんの乗った小皿を手に振り返った彼女は、やっぱりきれいだと思った。


「ありがとう、今日香さん」


「また『さん』づけ?」


「ま、いっか」と笑いながら、今日香さんは小皿をテーブルに置く。

 指でぴんと弾いたら、ハープのように澄んだ音が鳴りそうなまつ毛に思わず目を取られる。つき合い始めて三年も経つが、いまだに彼女のしぐさはどれも新鮮に映る。

 今日香さんとは大学のときに知り合って、当時先輩だった彼女に、僕の方からつき合ってくださいと申し込んだ。それに対して、あっさり「いいよー」と返事してくれたときの彼女の笑顔は、今でも僕の脳内の宝物だ。

 けれど、あれから三年も経つのに、なかなか結婚の話へ進まない。

 僕も社会人になり、今日香さんも夢だった小学校の教師になっている。

 お互い、そろそろいい頃合いなんじゃないだろうか。


「今日香さん」


 僕はお椀と箸を置き、なるべく焦らないように努め、自分で思い浮かべる限りの真剣な表情を作る。


「ん? 何?」


 彼女も僕にならって箸を置き、まっすぐこちらを見つめ返した。


「……僕のために、毎朝味噌汁を作ってくれませんか?」


 決死の覚悟で、それだけ告げる。プロポーズの言葉としてはかなり古臭いけど、今日香さんが相手ならしっくりくる気がした。

 さっき味噌汁で潤したはずの喉が、もう乾いてきている。僕は飲み込みづらい唾を喉に押し込んで、返事を待つ。

 今日香さんは一回だけまばたきをしたあと、


「じゃあ、作り方教えようか?」


 にっかり笑ってそう言うのだった。

 からかっているわけでもない、ストレートな笑顔。

 そのあまりの清々しさに、緊張で固まった心がほぐされていく。


「さすがに毎朝は来られないからねー。淳一くんが自分でも作れるように、作り方を教えるよ」


 違う。そうじゃないんだ……。


「まず煮干しと昆布で出汁を取るんだけど、そのときに火にかけないのがコツでね? 水出しにした方が――」


 得意げに味噌汁のレシピを語りだす今日香さん。それは知ってます。いや、出汁に昆布も使ってるというのは知らなかったけど。

 この人はいつもそうだ。僕のプロポーズを、プロポーズだと受け止めてくれていない。

 去年の冬に「一緒になってください」と言ったら、何を勘違いしたのか、ペアルックを買うはめになった。そのときのセーターは、いまだにタンスの中に入っている。

 今年の夏に給料三ヶ月分の指輪を渡したら、「ありがとう、大事にするね」なんてほほ笑みながら、プレゼントとして受け取られた。その指輪は、今日香さんの右手の薬指で今も輝いている。できれば左手の方に着けてもらいたかった。

 ちなみに気になって調べてみたところ、右手の薬指に指輪をはめた場合は「魅力の発揮」「心の安定」という意味があるらしい。確かに今日香さんは魅力的だし、一緒にいると不思議と心が落ち着くけど、どうにもはぐらかされたような気分だ。でも、心のどこかで、悪い意味でなくてよかったと安心する自分も確かにいた。

 今日香さんの笑顔は、ずるい。何も言えなくなってしまう。

 天然なのか、狙ってやっているのか、とにかく今日香さんは笑顔で僕の決心を和らげる。

 結局今日もだめだったなと思いつつ、僕は味噌汁をすすった。秋の朝の味噌汁は、やっぱり美味しかった。



 当たり前だけど、今年も冬がやってきた。今日香さんとつき合い始めてから、四回目の冬。

 珍しく休日が重なって、今日香さんと久しぶりのデートになった。

 僕は約束の時間の三十分前には待ち合わせ場所で待機していた。と言っても、待ち合わせ場所は僕のアパート前の駅。そわそわしながら待っていると、約束の時間の十分前に今日香さんがやってきた。


「お待たせ」


 淡いブラウンのカーディガンを羽織って、黒いスキニーパンツとパンプスを履いている。ニット帽から覗く、細い飴細工のような茶髪がふわりとなびく。カーディガンの下には、いつぞや二人で買ったペアルックのセーターが見えた。

 せっかく早めに準備していたけど、少し恥ずかしさをこらえ、僕もいったん家に戻ってお揃いのセーターに着替える。気合いを入れたおしゃれコートはタンスの中へ帰っていった。出発したときには、ちょうど約束の時間になっていた。


「今日香さんは、何が観たい?」


「んー、どれでもいいかな」


 二人で映画館に来たあと、上映スケジュールを眺めながらの話し合い。


「なら、この映画なんてどう?」


 僕は事前に内容を調べておいた恋愛映画を勧めてみる。この映画はカップル受けがよく、ムードを盛り上げるにはうってつけらしい。


「あ、それ面白かったよ」


 へ?

 予想だにしない今日香さんの返事に、きょとんとする僕。


「この前、友だちと観たんだー」


 ほわほわと笑う今日香さんだったが、僕は自分の予定ががらがらと崩れていくのを感じた。


「これが観たいの?」


 ポスターを指差す今日香さんだったが、さすがに同じ映画を二度見せるのは気が引ける。僕は「ううん、なんでもいいです」とゆっくり首を振った。


「そう? じゃあ――ど・れ・に・し・よ・う・か・な……」


 そう言いながら、順繰りに色とりどりの映画のポスターを指で追っていく今日香さん。その中には、例の恋愛映画も含まれていた。あ、二回観ることになっても構わないんだ……。

 結果、僕たちはロマンスの欠片もなさそうなサスペンスアクションの洋画を観ることになった。

 チケットを買い、ややスクリーンに近い席に座ったところで映画が始まった。映画の内容が進んでからしばらくして、画面だけが明るいシアターの中、僕はさりげなく今日香さんの手を握ろうとする。が、硬くて冷たい指輪に指先が触れただけであっさりと手を引いてしまう。

 その手を、柔らかい温もりが包んだ。驚いて目をやると、僕の手の上に今日香さんの手が重なって、指輪が明かりを反射していた。指輪の中で映画の登場人物が動き回っている。

 暗くて見えないけど、彼女は今も笑っているのだろう。ほんと、かなわないな。苦笑して、僕も画面に視線を戻す。シアター内の空調が、左手と耳だけに効きすぎた。


 映画の終わったあとは、適当に見つけたふりをして、予約しておいたレストランで夕食にする。

 だが、そこで失敗に気づく。僕たちはペアルックのセーターを着ている。どう考えても高級な店にはそぐわない。久しぶりのデートで浮かれて、そんなことにすら気が回らなかったのか。


「すみません、あの、やっぱり予約はキャンセルで――」


 僕が受付のウェイターさんに小声でそう伝えていると、今日香さんはいつの間にか店内に入ってしまっていた。


「何してるの? 早くおいでよ」


 別のウェイターに案内されて席に座っている彼女を見たら、なんだかもう自分の恰好なんてどうでもよくなって、僕も席に着いた。


「美味しいねー、ここの料理」


 んー、と今日香さんは満足げに口を動かす。つられて僕も笑う。


「僕は、今日香さんの料理の方が好きだけどね」


「そう言ってくれるのは嬉しいけど、それじゃあ店の人たちがかわいそうじゃない?」


 困ったように笑って料理を口に運ぶ今日香さん。それもそうか。少し背伸びしたことを言おうと思ったが、そもそも高級フレンチ店の中でセーター姿な時点で、何を言っても決まらないだろう。


「でも、ありがとね」


 デザートのオペラを口に含んだ彼女は、心なしか幸せそうだった。



 ディナーを済ませた僕たちは、いつもの僕のアパートで、こたつを挟んで向かい合う。

 こたつの上には、みかん。

 僕と今日香さんは、二人して黙々とみかんの皮を剥いていた。

 この時間が、今日の中で一番自分たちに似合っている気がする。

 結局、今日のデートはいいとこなしだったな。というより、いいところは全部今日香さんに持っていかれたと思う。

 一つしか違わないのに、彼女は僕よりもずっと大人に見える。

 これからも振り回されていくんだろうなと、ふっと思った。

 それも、悪くないか。無理して自分のペースに引き込もうとしたのが間違いだったのかもしれない。今日香さんは、今日香さんのペースでいいんだ。僕は、そんな彼女に惹かれたのだから。


「今日香さん」


「ん? 何?」


 みかんを剥きつつ、僕はするりと口にする。


「結婚してください」


 彼女はみかんの白い筋を取りながら、


「いいよー」


 と、いつもの笑顔で言った。

 なんでもないことのように。これまでの僕の苦労が馬鹿らしく思えるほどに、あっさりと。


「ありがとう、今日香さん」


「こちらこそ」


 タイミング、雰囲気、言葉、シチュエーション……どれがよかったのかなんて分からない。分からないけど、きっと、これでよかったんだろう。

 今まで必死に背伸びをしてきた過去の自分が、テレビの中の芸能人のようにひどく遠くの存在みたいに思えて、僕は思わず笑ってしまった。そんなに肩に力を入れなくていいんだよ。

 みかんの剥きすぎで黄色くなった指で、ひょいと一房つまんで口に入れる。まだ熟れきってなかったらしく、少し酸っぱい味がした。

 今日香さんも、黄色い指でみかんをつまむ。あっちは熟していたようで、彼女は「しあわせー」と言って机に突っ伏した。

 ここでも美味しいとこどり、か。今日香さんらしいな。

 窓の外では、ちらりと初雪が通り過ぎるのが見えた。

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