02-002 Briefing Sundae

Inside / 告迫

「みーたん。よく来てくれましたね」

 それは恋愛成就のジンクスがある木の下とか、荘厳な雰囲気漂う寺院の前とか、そんなレトロスペクティヴな雰囲気があまり感じられない、強い風吹く夕方の校舎の屋上だった。

 床は整備されておらず、所々灰色のコンクリートが剥き出しで、歩くと靴がジャリジャリと音を立てた。外を囲む、飛び降り防止用の柵は自分の背丈の半分もない高さで、薄緑色の塗装がほとんど剥げ落ち、赤茶色の錆が剥き出しになっている。

 さて。

 今日は、あの衝撃的な事件の翌日である。

 昨日の目が回るような事態については、ほとんどが記憶から抜け落ちていた。辛うじて記憶にあるのは、この街にこんなに人が居たのだろうかという程多くの大人達がやってきて、倒れて動かない生石が救急車ではない黒い車に運ばれていく光景と、自分の所に教師が代わる代わるやってきて、メンタルチェックを施してくれた事。十人を超えた頃で、ようやく辟易とした感情が表に出たのか、十八時には学校から解放された。

 そして、栖漫玲さんからの告白はどうなったかというと――。

『私の――恋人になっていただけませんか?』

『えっ?』

 色々な感情が頭を駆け巡り、火山が噴火するような勢いで脳天に達しようとした直後、遠くからサイレンが聞こえてきた。救急車ではなく、警察車両のそれであることは音の性急さからすぐに分かった。

『ふふっ』彼女は、笑っていた。

 いや、嗤っていた――かもしれない。

『残念ですが――人が来ちゃうので、詳細はまた日を改めて、ということにしましょう』

『えっ?』

 混乱する自分をよそに、彼女は笑みを崩さずに『明日の放課後、屋上に来てくれますか?』とだけ言って、自分の背中にそっと触れた。

 あれほどまでに近づきたいと思っていたはずの栖漫玲さんが、今こうして自分の真後ろに立っている。嬉しい、はずなのに、だけどこの感情はどっちかというと――恐怖に近い。

 心臓が早鐘を打つ。どこに居ようと逃れられない、本能的な警鐘。

『で、でも――この後警察とか先生とか呼ばないと、大変なことに――』

 もう連絡は済んでますよ、と彼女は言いながら、所持禁止であるはずの携帯電話を取りだしてこちらの左肩に乗せてきた。

『本日、サイコパスな殺人鬼気取りの生石櫂君は、あなたを襲おうとしたが、その場の石に蹴躓いて顔面を強打し昏倒した――という筋書きになっていますから』

 何もかも理解が追いつかない。

 完全無欠で暴力などとは無縁そうなクラスの委員長が、突然機敏に動いて窮地の自分を助けるだけでなく、襲ってきた相手を一撃で返り討ちにしたというのが真実であるはずだ。そう、あるべきだ。

 すると、栖漫さんは携帯電話を自分の左肩から取り除いた。すぐに、そこに何かふわっとした重みがやって来る。

『お分かりですか? 今日、私はこの場に来なかった、ということです』

 吐息の籠もった一言一言に、背筋がゾクゾクとする。心臓が、弾けて無くなるんじゃないかというほどに脈打つ。

 さっきの肩の重みが、栖漫さんの顎のものだと理解するのは、警察が来てからのことになる。

『今お願いした事以外について、警察、先生方には包み隠さず真実を述べて下さいね』

『あの――!』

 そう言って、勇気を出して振り返ったとき。

 既に、栖漫さんはどこにも居なかったのである。





 ――そして、話は冒頭に戻ってくる。

 屋上の扉を開けてから、既に五分は経っていた。きっとこの間、屋上が静寂に包まれていたなら、今すぐにでも自分は屋上から身投げしていたに違いない。そんな自分を繋ぎ留めていたのは、衣服をバタバタとはためかす程の強風だったのだ。

 すると、栖漫さんは案の定自分から、

「みーたん」

 と言った。

 きっとそれは自分にとって世界一長い、愛称ラブコールだった。

 あの日と全く同じ笑顔、全く同じ髪留め、眼鏡で、転落防止用フェンスを背後にしながら。

「セトミン、じゃないんですか」

 受けに回るしか、ない。

 彼女は何も悪くないから。

 痛烈すぎる善は、悪とそれほど相違がない。善を善として為すためには、他人を傷つける覚悟が要る。それを悪と捉えるならば、そこには善も悪も無く、ただの認識を押し通すためのエゴが転がっているだけ。

 而して、彼女はきっと善を為す――。

「あれはセミみたいで嫌だから、撤回します。瀬堂海ナントカさん、あなたの愛称は今日から『みーたん』です」

 そう、か。

 あの時覚えた違和感の正体が、何となく分かった。

「栖漫さん」

「玲、でいいよ」

「……委員長」

 いいわけがない。

 そんなに距離感を詰められるほど交流をした覚えはない。

「どうして、そんなに自分に興味があるんですか……?」

「あなたが好きだからです」

「その興味や好意は偽物です……!」

 もうやめて欲しい。

 そう思って、産まれて初めて『拒絶』を口に出した。

 ――きっとこの人は、分かっていて近づいているから。

「そんな遊びをしたところで、誰も得しません」

 栖漫さんはくるっと翻って、こちらに背を向けた。

「誰も? ――本当に?」

 この、の――。

「――言葉が、あなたにどう聞こえているか、分からないんです」

 だから、は――。

「あなたと友達にはなれますが、それ以上の関係にはなり得ないんです」

「なるほど。からはわざと聞かないでおいたけれど――そういう事なんですね」

 ごおごお、と風が頬をはたく。そこまで言い終えてようやく、栖漫さんはこっちを振り向く動作に入った。

「じゃ、種明かし」

 急に声のトーンが落ちたと思ったら、彼女は眼鏡を外していた。そのまま、無駄のない動作でこちらへ歩み寄ってくる。

「な、何ですか」

 その勢いに、昨日の冷徹無比な『執行』の場面を思い出し、目を瞑りそうになる。

「ん」

「え……?」

 栖漫さんは、右手で何かを差し出していた。

「これ」

「それは……」

 眼鏡だった。震える手で、ゆっくりとそれを受け取る。

「これを……どうしろって――」

 眼鏡の度数が強いアピールだろうか。それとも――と思って手に取った瞬間、その違和感は眼鏡を掛けずとも分かった。

 レンズの内側には、自分が映っていた。自分の顔は常にモザイクがかかっているが――その気持ち悪い顔が、透過率ゼロで見えていた。

 違和感の正体を探るために、反対側からレンズを見る。すると――その先には、こちらをジトッとした目で見つめる栖漫玲さんが映っているのである。

「これは――」

 そう思った瞬間、メガネをパッと奪われた。

「つまり、そういう事なのです」

 彼女のトーンの高い声が帰ってきた事も忘れ、自分は途方に暮れた。

 先ほどの認識が正しいとすれば、栖漫玲さんの眼鏡は――、。ただし、外から見ると、その鏡面処理は全く感じられない。マジックミラーのようなものなのかもしれない。

「最初から、何となくそんな気がしていました」

 彼女は事も無げに、そう語る。

「フツーの男子や女子なら――あ、女性は微妙かもね――二つ返事でオッケーするところを、あなたは丁重に拒否した。もうそれだけで、あなたはに面白い。だから、本当は秘密にしなきゃいけないんだけど――話す事にしました」

 そう言って、彼女はメガネのに手を掛ける。

「スイッチ出来るんです、。眼鏡を掛けているときは私で――」

 くいっ、とメガネを額まで上げる。

「外せば、こう」

 栖漫玲さんの『オンオフ』についてざっくりと書くと、こうだ。

 眼鏡を掛けているときはテンションが高く、よく喋るし、言葉遣いも丁寧だ。

 逆に、メガネがない時は声のトーンがオン時より二段階ほど低く、話す内容も単刀直入、主語すら無くなる。こっちの側面はきっと――普通の人ならば見る事すら出来ない、禁断の領域なのだろう。

「実は、ずっと言っていなかったことがあって――私、あなたの顔、見えてないんです」

 そりゃあ、そのメガネでは見えてないはずだけど。

 ……というか、普段から見えてないなら、この人はどうやって生活しているんだろう?

「見えていますよ。心の……眼? みたいなのがありますので。表情から心の奥底に秘めてる感情、好きな人、昨日の夕食のメニュー、そういうのがコンピュータゲームみたいに、感覚的に捉えられるから、別に他人の顔なんて見なくてもいいんです」

 その説明で他人が理解出来るかどうかはもうちょっと考慮した方が良いですよ、とは突っ込まなかった。

「でも、みーたんみたいに、顔が見えない人はちょっと困るんです。その人が抱いている感情が、本当に言いたい事かどうかが分からないですからね」

 天才故の悩みみたいな愚痴だった。

「だから、私はあなたをもっと見てみたくなりました。――あなたという人間がどう爆発して、自分の才能を花開かせるのか、と。然れど残念なことに――あなたは他人と一定以上の距離を置いている。そしてそれを、仕方がないと諦めている」

 それは……。

 言葉に詰まる。

「だから、それを揺さぶることで――その手助けをしようと考えました」

 揺さぶ――る?

「俗っぽく言うと、ムカつきます。あなたは成長するから、その内死ぬ。それなのに、自分の運命や可能性をそんな年で閉じてる。そういうの、なんて言うか知ってますか? ――甘ったれ、って言うんです」

「あなたに――ワタクシの何が分かるっていうんですか」

「分かりませんよ? だって私も、ですから」

 言葉が出てこない。

 産まれて、五年?

 かぐや姫か何かなのですか?

 その言葉が嘘か本当かという感情は捨て去っていた。彼女の言葉に嘘偽りはない、という認知バイアスがかかっているのかもしれない。

「だから、あなたに対する他人の感情を探ってみたら――まぁ面白い。みんながあなたを『誰か』として見ているのに、その認識について、誰一人として同じ者がいない」

 ドクン。

 心臓の鼓動は、ゆっくりと元に戻っていく。

「つまりあなたは、永遠の生徒なんですね。誰とも親しくならず、酸いも甘いも噛み分けられず、安穏と何かを享受するだけ。そしてこのまま、あなたが筋を曲げないなら、きっとそのまま一生」

 この説教は――自分が自分に何度もやってきたものだ。

 だから、答えが出たことは一度も無かった。

「えぇ、きっとあなたはもう、それを深刻に思わないように、心が出来上がってしまっているんです。今日、あなたは平穏無事にこの時間まで過ごせたという事実そのものに疑問を持たないことが、その証左」

 確かに昨日の一件で、今日の授業は全て上の空だった。

 だけど――本当なら、そんな事で『昨日の事件の話を誰もしていない』という事実が見過ごされるはずがないのだ。そこまで至って、ようやく自分自身に怖気が走った。

「それは――それ、は……」

 奥歯を強く噛みしめる。言葉が出ない歯がゆさと、自分の中で理解している感覚を他人に押しつけられる悔しさに。

「自らに出来る範囲を悟って、互いに衝突しないようにそれに沿って、平穏無事に過ごす。――そんな人生、誰も映画化しようと思いませんよ」

 一瞬の間。

 風は既に止んでいた。

「――あなたの劇場フィルムは、本当にそれでいいんですか?」

 ……っ。

「嫌……ですよ」

 昔は、まだ興味を持たれていた。ただし、自分の中ではそれが恐怖心になり、最終的には心的外傷ストレスとなった。それはきっと、一生付き合っていく必要のある瑕疵だ。

「だけど、ずっと足踏みしてる。藻掻いている。それでもこの十六年、藁すら掴めずに沈んでいくアタシぼくを支えていくのは――あたいだけだったんだ」

 そこで、ようやく自分は彼女の顔ではなく、目を見た。

 常人とは違う、藍色の瞳。その丸い輝きが、こちらを真っ直ぐに見つめている。見えていないはずなのに、それはしっかりと自分の奥底を視ていた。

「やっぱり同じですね、私たち」

 そう言って彼女は続けざまに、自分が五年前に産まれたときの話をした。

「平行世界説って信じます? ――まぁ、信じるか信じないかは任せるから、私は事実だけお伝えします。この世界には、あなたと同じ異能者がごまんと居ることは、こちら側の人間なら周知の事実だと思います。――その大きな転換点が、五年前の渋谷。一杯人が集まりました、一人の人間を捕らえるために」

 それが――。

「それは私とは異なる、ひとりの少女。彼女はその両腕に危険な能力を備えた、それでいて手の付けられない、暴れん坊でした。普通に考えて、あり得ない規模の作戦です。当然、その作戦は表向きで、真実は――世界の脅威を排除するための『戦争』だった」

「戦、そう」

「だけど、誰もがその『脅威』の力を見誤っていました。私たちの中で一番強いとされていた人達が次々に倒され、凍らされ、死んでいく。絶望的な光景でした。私たちが視たのは――滅び行く世界という名の定められた運命のみ」

「それを救ったのが――」

 栖漫さんは、首を横に振った。

「世界は、救えなかった。だからこの世界は、ある時を起点に、その『脅威』が存在しない世界を再構築し、元あった歴史から派生したブランチの一つ。その事を知っているのは、あの時渋谷に居た数百人と、その中に居たとある少女――桐生芽衣きりゅうめいという少女の中で発露した、私という人格だけ」

 桐生芽衣。

 それが、あなたの本当の――。

「私には何も無かった。桐生明夜の記憶と見た目を間借りして、名前だけは別にして貰って、精一杯人間の振りをしている赤ん坊。この性格も、昔本で読んだ『螻蛄羽遼子けらばりょうこ』という少女のパーソナルをできる限り真似てるだけ。どこに行っても私は誰でもない。だからこの学校で、出会いを、刺激を求めた」

 そこでようやく、栖漫さんの表情が陰った。

「私を好きだと言ってくれる人が百人居ました。でもその百人は、私の上っ面だけを掬って、私という名の船に乗ろうとしている人ばかり。――そこに、あなたという一〇一人目が来ました」

 ぱっ、と彼女は相好を崩す。忙しい人だ。

「あなたは船どころか、自分の形すら保てていない、人間未満。見た目も男か女か判然としない。制服の下半身だって、男子はスラックスで女子がスカートなのに、どっちを着ているか分からない。聞けば、自分の夢はおろか、自分が男女どちらになりたいかすら分かっていない、夢のない高校生だというお話」

 対称的に自分の視線が段々と下がっていくのが、いたたまれない。

「だから私は、あなたを導く。だから、私はあなたが持っている一六年おもいでを貰って、糧にする。それを恋愛関係に置き換えるのは、ダメでしょうか?」

 その両手は、ぐっと固く握りしめられていた。

「……考え、させてください」

「ダメです。ノーは禁止」

 酷すぎる。

「ノーって言ったら、あなたは自分という名の水のない底なし沼で、熟成もしない干涸らびた梅干しのように過ごしていくだけになります。それは、見過ごせません」

 自分たちは空っぽ。空の器に降り注いだ水滴を分け合うだけの、悪食達。

 彼女はようやくそこでゆっくりと、自分へ向かって右手を差し出した。

「だからこちらへ来て――私と一緒に、人生を楽しみましょう?」

 産まれてからずっと藻掻き続けて、擦り切れていて無くなりそうだった手は、虚空を掴まなかった。

 実体のある、微かに暖かく小さな手と、確かに繋がっていた。

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