Night / 告白前にありがちな、恋人同士の些細な諍い その2
「緊急事態確認。征圧を優先する」
†
気になる事は山ほどあったが、自分には関係無い。
そう思っていた。
六月末日、朝の下駄箱でそれは突然やって来た。
【放課後、裏口のイチョウの木の近くで待っています】
無地の便せんではなく、A4サイズのルーズリーフを半分に切り取ったものだった。差出人の名前は無いかと、紙をひっくり返そうとした矢先――
「ねぇ、あなた」
左後方、昇降口の方から不意に呼び止められた。
「栖漫……玲、さん」
脊髄反射的に視線を下げる。呼吸が止まったような感覚。一度も話しかけて貰った事の無い自分が、こうして彼女から、名字を呼ばれているという事に、何故だか少しだけ優越感を得て、そして――それがすべて疑問へと翻っていく。
栖漫さんが何故自分の名前を知っているのか。……これは級長なんだから知っていて当然、という言葉で片付けてしまえば簡単であるが、とは言え授業中も滅多に発言しない自分にも光を当てようとするその拡大解釈された母性は、きっと天賦の才か何かなのかもしれない。
そしてもう一つが、こうして今も自分の脇を通り過ぎていくクラスメイトや他の生徒には目もくれず、敢えて自分だけに注目してきたという事。
「それ、何かしら? 宝の地図? 公開質問状? 出頭要請?」
段々と不穏な方向へ傾いているのは、決して悪意ではない――という事が判るのは、しばらく先のことになる。
彼女のその黄鉄鉱のような瞳は、決して風紀委員のような、『例外』を窘めるようなそれではなく、好奇心に満ち溢れた、キラキラとした光に満ちていているように見えた。
「さ、さぁ。間違えた、んじゃないですか」
そう言って、紙をくしゃりと潰して、制服のポケットに放り込んで踵を返す。栖漫さんの眼に触れて、担任に事情を聞かれようものなら、更に面倒な事になりそうだ。
……それに、どうせこの内容がニセモノなのは確定なんだから、またいつものように素っ気なく流してしまえばいいんだ。
「そう。それじゃ、また」
彼女が何か呟いていたような気がしたが、自分は既に下駄箱前の廊下を右折し始めていた。
†
他人からの視線を怖いと思ったのは、小学校以来の出来事だった。
その頃を思い出そうとすると、キュッと胸が締め付けられる。きっとこれは、自分にとって開いてはいけない、パンドラの箱なのだ。
自分が何か疚しいことをしているんじゃないかという謎の罪悪感によって、結局その日は放課になるまで、彼女の居る右前の席へ視線を送る事が出来なかった。
「……よし」
栖漫さんは自分の事を見張っているのではないかと思い、彼女が教室を後にするのを見届けるまで、昼間の授業の復習をしているフリをしていた。
一体どれほどの耐久勝負になるのかと思っていたが、彼女はすぐに教室から居なくなった。
実を言うと、栖漫さんは部活動に所属していない事は判っている。が、家に帰って何をしているのかは誰も知らない。というよりもそもそも、彼女の家がどこにあるのかを知っている人は、クラスの中に誰も居ないという。
誰も聞こうとしないのか、それとも彼女が秘密主義だからかどうかはさておき、そんな彼女がすぐに帰ってしまうのは明白だったから、特に心配はしていなかった。
通学鞄を手に取って席を立ち、教室の扉に手を掛ける。少しだけ警戒して、顔だけを廊下に出し、周囲の様子をうかがう。もう、彼女の背中は数メートル向こうの階段へ向かって段々と小さくなっていた。自分は彼女が向かった方向とは逆の、遠回りになる方の階段を使って、昇降口へと向かった。
手紙に書いてあった『裏口のイチョウの木』とされるものは三本ある。裏口はアスファルトで綺麗に舗装されており、運動部も外周ジョギングで使用している。樹木はそれを妨げぬよう、校舎の塀側に三列程度で等間隔に、様々な種類のものが植えられている。
「今日のかわいそうな人は、誰なのかな」
遠く向こうに聞こえる部活動のかけ声とは裏腹に、約束の場所は気持ち悪いほどに静まりかえっていた。夕日はまだ完全には沈んでいない、生い茂った木の葉に遮られ、奥に進むほど暗くなっていく。
自分が五メートルほど向こうにイチョウの木を視認したとき、更にそこから樹木五本分ほど先から、こちらへ歩いてくる影が見えた。他に人は居ない。恐らくは、あれがそうなんだろう。
その影がだいぶ大きくなってきた頃に、自分は確認代わりに、向こうへ右手を振ろうとした。
だが、振ろうとしたその手は、宙を泳いだ。
「……えっ?」
その影は、意外な人物だった。
†
「それではこれから面接として、幾つか質問をします。――あぁ、どうか緊張しないで。あなたは正直に答えて頂ければ、特に問題はありませんから。それでは最初の質問です。『あなたは何故この高校を志望したのですか?』」
「……地元の高校には、あまり入学したくなかったので」
「ふむ、一先ず続けましょう。『将来の夢はありますか?』」
「ありません」
「正直でよろしい。……ですが、ここは敢えて厳しく。受験生として、ここに来るまでの間に考えようとはしなかったのですか?」
「……自分の事すらよく分からないのに、分かりもしない将来の予想なんて出来ませんでした」
「自分の事が判っていない、ですか。あなたも義務教育を終えたのですから、流石にそこは責任を持ち始めていてもおかしくはない年頃だと思いませんか?」
「思います。……でも正直、小学校、中学校の頃は色々あって、そういう事を考える機会に恵まれませんでした」
「『黄金玉虫色』、ですか」
「……えっ?」
「あなたが持つ、他人には無い『
「何を言っているんですか。歴とした男性って、この受験票にも書いてあるじゃないですか。疑う余地すら無いです」
「と、まぁ。あなたの能力は、こうして私たちの認識すら簡単に歪ませてしまう、かなり強力かつ制御不可能なチカラのようですね。異物を許さない教育方針の小中学校では、さぞかし苦労されたでしょう」
「……小学校の話は、やめてください」
「勿論、掘り下げるつもりは毛頭ありませんのでご安心を。じゃあ、ここであなたに最後の質問です。『この高校に入学して、夢を持ちたいと思いますか?』」
「思います。持ちたい、です」
「……それでは、以上で試験は終了となります。あちら側のドアから、荷物を持って退出するようにお願いします」
†
「……生石?」
その影は、その呼びかけに対し、軽く手を上げて応じた。
「よう、瀬堂」
待て待て待て、意味が分からない。
手紙の主が、生石櫂?
「お前が出したのか、下駄箱の手紙って」
ゆっくりとその顔に光が当たる。普段と変わらない、柔和な笑みを貼り付けた顔が、今は少しだけ不気味に映った。
「そういう事だよ」
「冗談がきついよ。友達だろう?」
「だから、そういう関係から卒業しようって思ったんだ。俺たちが何時までも友達で居るのは、お互いのためにならないかなって」
卒業?
縁切り、って事か?
「そんなの別に、こんな所でしなくたって――」
そう言った時。生石は、こっちの肩を強く押してきた。体勢が崩れて、背中から背後の木にぶつかってしまう。
「ここでするから重要なんだろ? 俺たちが恋人同士になるためには、ここでやるのが一番なんだ」
*****
その言葉で、ボクは全てを察した。そして、初めて自分を恥じた。
生石櫂は、最初からボクを女性として見ていたのだ。
ボクの認識では生石は『仲の良い男友達』だったが、もうその時点で決定的にズレていたのだ。
ボクはこの通り、性別が見る人によって変化する特殊体質だ。ただ、ボクがどう振る舞おうと、その人にとって一番都合の良い形で伝わってしまうから、ボクはそこを意識することは無かった。
しかし、ボクがその人にどう見えているかは、その人から明言されない限り判らないのだ。
*****
裏庭のイチョウの木が告白の名所なのは知っていた。だから、てっきり女性がやって来るものだと思っていたから、尚のこと面食らっていた。
「ちょ、ちょっと待っていくれ生石――キミは誤解して――」
「だから、瀬堂。お前には俺の全てを知っていて欲しいんだ」
彼はそう言うと、制服のポケットから何かを出した。それが夕日の影に照らされて、白銀色のフォルムをなめらかに映し出す。
それは、刃渡り二五センチ程度の、サバイバルナイフだった。
「えっ――?」
そう言うが速いか、生石はナイフを逆手に持ち、それをこちらの首筋目がけて振り下ろしてきた。
「……おい、逃げないでくれよ。一撃で仕留められないと、運気が下がるんだ」
すんでの所で身体を横に倒し、そのまま転がる形で生石の真正面に立つのを避けた。
以前のホームルームで、担任が言っていた言葉を反芻する。
『――ニュースで知ってると思うが、隣町の学生が行方不明になっている事件が起きて――』
おいおい嘘だろ、冗談じゃない。
「そうはさせねぇよ。お前も俺の恋人の一人なんだから、大人しく捕まってくれや」
「(……あれ?)」
ひとまず悲鳴でも上げて、誰か呼ばないと! そう思った時、ようやくその違和感に気が付いた。
「(声が……声が出ない!?)」
彼に背を向けながら、必死に声帯を震わせようとしているのに、空気の漏れた風船のように、振動を持たぬ空気だけが口を吐いて出てくるだけだった。
「(うわっ――)」
その一種の動揺で、足下にあった大きめの石を避けることを忘れてしまった。
自分の身体がもんどり打って倒れていくのを、視界がぐるりと回転するのを見ながら理解していた。――そして同時に、自分の最期がこんなあっけないモノなんだという事も。
そしてその視界の向こうには、先ほどと変わらぬ笑みを浮かべ、夕日に微かに照らされた大きな獲物を握った、サイコパスの姿が映っていた。
「オッケー、ありがとう神様、そして瀬堂。俺たちの素晴らしき出会いに感謝だ」
獲物が振り下ろされるのを見ながら、自分は――一体何を考えていただろうか?
自分のこれまでの人生? どうすればこの状況を打破できるか?
それとも――、これからの人生を塑像出来なかった自分への、怒り?
†
「こっちだ!」
その声はかなり遠くから、だけど確実に聞こえた。
しかし、事態はもう既に自分の目の前で、動いていた。
一対の小さな足が、生石の横顔に突き刺さろうとしていた。そこからはまるでコマ回しのように、ゆっくりと彼の顔から、肩、腕、腰、脚が、その勢いに押されて吹き飛んでいく光景を、ただただ眺めることしか出来なかった。
その脚の主は、器用にスカートを翻しながら両足で地面に着地すると、生石の取り落としたサバイバルナイフを順手で掴み、数メートル先に転がっている彼に向けた。
「生石櫂――いや、
自分の死はついで扱いか、と少し悲しくなる。
その時、一瞬風が吹き、木々がその影の正体を照らし出す。
「……栖漫、さん?」
その横顔がこちらを向く事は無かったが、だが確実にそれは――今朝目にした――栖漫玲本人に違いなかった。ただしメガネは無く、結ばれていた髪はほどけてしまっていた。余程焦って駆けつけてくれたのだろうか。
そしてついでに、声が出せるようになっている事に気づく。
「へぇ……やっぱり裏生徒会が絡んでるとは思ってたけど。委員長が、そうだったんだね」
すると彼女は、誰かに呼びかけるように、普段の多弁な様子からは想像も付かぬほどに平坦な、感情の無い口調で何事かを呟いた。
「投降の意図、なし。征圧優先に変更なし」
「ほざけ! やっと
生石はそう叫ぶと、なんと懐から二本目のサバイバルナイフを取り出した。人間武器庫かこいつは。しかし、そんな様子を見ても、栖漫さんは全く動じず、こちらへ向かってくる生石に対し、奪ったナイフを――何と、投げてしまった。
「
そう叫んだ瞬間、金属が地面にぶつかって跳ねる音が、二つ響いた。
「征圧、完了」
栖漫さんが投げたナイフは円を描きながら生石の方へ飛んでいったのだ。当然、生石はそんなのを見て避ける余裕はあったが――避けた先に、彼女の鉄拳が待っていた。まるで、生石がそこへ移動することをあらかじめ知っていたかのように、彼の人中目がけ、そのか細い拳が叩き込まれていたのだ。
「(まさかの
……もっとこう、自分より一回り大きい相手に対して、テクニカルな手段を用いるのかと思いきや、普通の真っ向勝負だった。そんな威力では猫だましでもいいところだろう――そう思っていたが。生石櫂が、無様に転がったその身体を起こすことは出来なかった。
本当に、たった一瞬で決着が付いてしまった。
「ふぅ」
彼女はそう呟くと、ポケットから携帯電話を取りだし、どこかへ電話し始めた。何を話しているかまでは聞き取れなかったが、どうやら人を呼んでいるようだった。話し終えると、こちらへ歩み寄って、手を差し伸べてきてくれた。
「じきに『協会』が来る。立てる?」
はい、と答えて、その手は取らずに自分で立ち上がり、服に付いた土を払う。
彼女は眼鏡を外してもなお美人だったが、どこかその表情には、普段と比べて魂が抜けてしまったかのような印象を覚える。
「栖漫さん……あの、生石……死んだんですか」
すると、彼女は首を少しだけ傾げた。事態に納得がいかないという様子ではなく、こちらの事を見て何か得心したかのようだった。
「捕縛対象。殺してない」
遠くに見えるその身体は、時々痛そうに呻き声を上げている。おそらく、顔面を殴られたついでにどこかの骨をやられたに違いない。
「それなら安心した」
それを聞いて、彼女はため息を吐いた。
「……どうしたの?」
「別に」
そう言うと、彼女は制服のポケットをあさり、何かを取り出した。
彼女が普段から着けている、フレームレスの眼鏡だった。彼女はそれをしげしげと眺めている。
「こんなのの、どこがいいんだか」
そう呟くと、彼女は明後日の方向を向いて、眼鏡を掛ける。そしてこちらを見ずに、感情がこもった、少しだけ楽しそうな声を上げた。
「ねぇ――瀬堂海和さん」
「は、はい」
「私、こうなることが分かっていたから、今朝はああやって引き留めたんですよ」
はい、と応えるしかない。
結果論と言ってしまえば詮方ないが、彼女が居なければ確実に今頃、天国で名も知らぬ老人達にご挨拶している頃だろう。
「ありがとうございます。だけど、瀬堂さんってミステリアスな人だから――何というかこう、少しでも秘密を知られると、永遠に強請ってきそうな気がして」
「それは無きにしも非ずね」
一瞬にして総毛立った。俎上の鯉というのはこういう気分なのか。
「――あぁ、卑怯、私ったらとても卑怯。こうでもしないと切欠が掴めないなんて、実に悲しい運命――。それで瀬堂海和さん、一つ、いえ二つ、聞いて欲しいの」
「……聞きます。あなたは命の恩人ですから」
まずその一は、と続ける。
「あなたのことを、セトミン、ってお呼びしてもよろしいかしら?」
……は?
「それは、あだ名ですか」
「はい、あだ名です。よろしいですか?」
生まれてこの方、あだ名というものをつけられたことがない自分にとって、初めての体験だった。
「別に構いませんが、今、何故?」
「はい、それをお聞き入れ頂いた上で、二番目のお願いです」
一瞬、木々の合間をビュウと風が吹き抜ける。
「それでは、セトミン。私の――恋人になっていただけませんか?」
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