02-001 白でも黒でもない
Dawn / 告白前にありがちな、恋人同士の些細な諍い その1
ご苦労だった、諸君。
さてさて、君もそろそろ飽き飽きしてきただろう? 何を驚いている、その顔を見れば一目瞭然ではないか。
そう、お察しの通り、楽しい楽しい学芸会はもうオヒラキ。
距離を取って言うならば、
言っている意味は分かるだろう?
†
その日は、初夏にもかかわらず、前日の暑さが嘘のような気温の低さに見舞われた。この、冬服と夏服どちらの着用も許されている過渡期に、学生達の体調を崩してやろうという地球規模の悪意を冷や冷やと肌に感じていた。
その時ふと、右隣を過ぎ去った群青色の軽自動車を見やる。長髪の――色まで分からないが、黒では無さそう――、スーツを着こなしたOLの様な見た目の女性が、柔和な笑みを浮かべながらハンドルを握っていた。――普段なら、ここまで
車のリアバンパーにうっすらと付いた傷跡を目で追いながら、歩みを進める。
通学路に使用しているこの往復二車線の道路の、朝の交通量は相変わらず少ない。更に二分ほど道なりに歩けば、Y字路にぶつかる。ここから、車が通ることをあまり想定できていない幅員の左の道へ向かうと、やがて駅と駅前商店街に飲み屋街に差し掛かる。右手へ進めばあと五分ほどで自分の通う高校へ着き、そして更に先へ進めば、この交通量減少の直接原因である幹線道路へと繋がっていく。
ここを徒歩で通う生徒は少ないようで、こうして歩いていても、見える制服の背中は十人も居ない。時折、自転車で追い越されることもあるが、それも片手で数えられる程度。
それが、二ヶ月ほどこの道を使い続けて得ることが出来た、ギリギリまで宿題を片付けられないタイプの小学生が仕上げた自由研究のような、結論であった。
「おーっす、
自転車の
「やぁ」
そのママチャリのカゴからは、群青色の通学鞄が飛び出している。ハンドルを握っているのは、メガネにすかした前髪の
「二限の数学のテスト、全然勉強出来てねーよ……
その言葉に、少しだけ違和感を覚えるけど、あえてこう返すのだ。
「してない、なぁ」
その場に鏡は無かったが、きっと、気持ち悪い笑みが張り付いていたに違いない。
「そうかぁ……追試候補生が二人なら、怖くないな」
きっと、生石は勘違いしている。
数学のテストは水曜、明日のはずだ。……でも。
「そうだね」
畳み掛けるように同意する。自分の記憶に自信があるわけではない。ひょっとしたら自分が勘違いしていて、生石が正しいことを言っている可能性だってある。今すぐに鞄を開けて日程を確認するのも面倒だ。そして何より、面白くない。
死ぬのが自分か、生石か、それだけの話なのだから。
しかし生石も生石で、そんな危機感がありながら、こんな所で油を売っているのはどうかと思う。その事を思い切って尋ねてみると、彼は遠くを見やりながら、
「少年負い易く、学成り難し」
とだけ呟き、サドルに尻を預けた。
そんな、馬鹿の一つ覚えが校門をくぐったのは、遅刻十分前のことだった。
「おい、瀬堂に生石、ギリギリだぞ!」
校門で、生徒指導の
「ちぇー。
「法律のかわし方が巧いよね」
半分ぐらいグレーだとは思ったけど。部活動中は生徒を叩いているという噂を聞いたことがあるし、生石が悲嘆するまでもなく、その内問題になるだろう。
教室に入るところで、斜向かいの窓の先から、担任教師が出てくるのが見えたため、ドアを慌てて開ける生石に続いて、自分も荷物を肩から外しながら着席した。
自分の席は、窓際最後尾。
「瀬堂ちゃんってさ、生石と仲良いんだっけ?」
椅子を引き、荷物を投げ出し、鞄から筆箱を取り出した辺りで、隣の席の
「登校するルートが重なってるだけ」
「アイツ、同じ中学だったから分かるけど……すんごいスケコマシだから。ひょっとしたらもう、目つけられてるかも」
「もしそうだったら……先生に相談するね」
そう返した所で丁度教室の扉が開き、色黒に短髪で背の高い、ボディビルダーみたいな見た目の男が、ドアの上枠をほんの少しだけかわして入ってきた。
担任である
*****
と、まぁ。
ここまでの流れでおや、と思った人はかなり察しが良いと思う。
生石がボクに話しかけている間は、どうも『男友達』の体だったけど、隣の席の灰島さんから話しかけられているときは、『女友達』の雰囲気だった。
これは別に、生石も灰島も、どちらも間違っていない。
ボクの生まれつき持ち合わせている『異常』が原因だ。ただし、一般的なそういうシリアスな話に比べれば、見た目の異質さや、心と体の乖離によるストレスなんてものも存在しない。
むしろ異常に巻き込まれているのは彼ら彼女らの方で、ボクの一言に対し、受けるニュアンスが変化しているのだ。
ここでボクがあなたに対し、「自分の名前は瀬堂海和」と一言呟くとする。
すると受け手側は、二通りの解釈をすることになる。
「私の名前は
「俺の名前は
どちらに聞こえるのかは、その人次第。ボクも、どちらに聞こえているのかは把握できない。
この異常の名前は――「黄金玉虫色」と、誰かが言っていた気がする。
ボクの見た目の性別は、「自分を見ているその人にとって最適な距離感の性別」となる。とある人はボクを男として見ていて、また別の人はボクを女として見ているという事になるのだ。
人数の比率についてはこの数年程度の経験則に基づく事しか出来ないが、どっちかと言えば同性のパターンが多い気がするが、時折異性の体で話しかけられる事もあるので、希少でこそあれ、ノーケースという事はない。
しかしながら、こういうジェンダーの話題となると、絶対に避けられないものが一つある。排泄だ。
しかし残念ながら、これはボクでさえも明確に答えることが出来ないんだ。
何故かって? ……うん、あまり心地よいものではないが、見て貰った方が早いと思う。
今こうやって教室を出て、トイレの前に立っているボクが居るとして、ここから一歩前に出ると――。
†
ほら、この通り。
キミのその表情からして、きっと意図的な空白のようなものでも見えたんだろうね。
ボクは今、トイレに背を向けて立っている。
時間も、五分ほど経過している。
尿意も便意も無い。
つまり、『性差を意識せざるを得ない環境に身を置いている間』は、時間が飛んでしまうのだ。トイレに行った、更衣室で着替えた、お風呂に入った、などの行為は、ボクの中では『きっと行ったはずだけど、その間の記憶は一切無い』状態になっている。
神様の見えざる手を感じるね……だなんてポジティブに考えられるようになったのは、ここ二、三年の話だけど。
というワケで、ここから先も時々こんな感じで色々差し挟むだろうけど、そういう時は一人称を『ボク』にしておくことにするよ。
ボクの言葉が外でどう聞こえているかは、その人にしか分からないからね。
*****
話はその日の夕刻、ホームルームの時間まで飛ぶ。
細かい話をしておけば、賭けは生石の負けで終わった。
「あー、ニュースで知ってると思うが、隣町の学生が行方不明になっている事件が起きている。ということでしばらくの間は、放課後や休日に、理由無く一人で出歩かない事。学習塾に通っている生徒もいると思うので、その場合は保護者の付き添いや、二人以上での帰宅を――」
櫛灘先生が、手元のノートを面倒くさそうに読み上げているのを余所に、クラスメイトの顔と名前を一致させようとしていた。
*****
クラスメイトは、ボク含めて二十二人。
出席番号は名字をあいうえお順で、それを男子と女子で交互に並べる形式になっている。さて、そうなると一つ疑問がわいてくると思う。
ボクの出席番号は一体何番目なんだろう?
男子でも女子でも無い。しかしながら、瀬堂という名字は変えようが無い。
先に述べておくが、その答えは、とても見るに堪えないものだった。
まず、ボクの出席番号は二十二番、最後尾だ。当然ながら、ここに疑問を差し挟む生徒はボク以外に存在しない。しかしながらこれだと、出席番号二十一番の生徒が男子か女子かでボクの性別が決まってしまう。
その結果、ボクの前の席には誰も座っていない。
つまり、出席番号二十一番の生徒は、ボクが入学した四月の時点で、既に他校へと転入してしまっていたのだ。尚且つ、ボクは転入生扱いとして四月に入学していたから、番号が最後尾でも特に問題ない、ということにしたいようだった。
あぁ、なんたってこんな横暴なマネを。
*****
「はい、じゃあ俺からは以上だが……委員長、今日は生徒会だったと思うが、連絡は無いか?」
「ありません」
凛とした声が、間髪入れずに静かな教室に響き渡る。自分から見て右から二列目、前から三番目の席に座っている女生徒の、後ろで纏められた髪が少しだけ揺れる。
我らが学級委員、
「よし、じゃあ今日はここまで。……あ、明日からは放課後の部活動時間が一時間早まるので、くれぐれも――」
お察しの通り、櫛灘先生は話の順序が適当なのが悪癖だ。
「じゃあ、これで本日は終了。また明日な」
クラスメイトが次々に席を立ち、教室を後にしていく。殆どは部活動だ。陸上部、野球部、バスケットボール部、卓球部、エトセトラ。文化系だと吹奏楽部、科学部……あとは知らない。
†
「で? キミも部活、決めなかったんだ」
帰り道。生石が本屋に行きたいというので、途中まで付き合うことにした。
「考えはしたぜ? でも、ボールを打ち込んだり、一生懸命走ったりする自分の姿が、イマイチぴんと来なかったってだけだ」
生石は、校舎が完全に見えなくなった辺りで、徐に自販機に小銭を投入し、コーラを購入した。完全なる買い食いだ。そしてそれが零れないように、少しだけファスナーを開けた鞄に突き刺し、自転車を押していた。
「でもほら、部活って一応、全生徒強制ってフインキじゃん。一応科学部だけど、アレって何にもしてないヤツの内申書用の部活動なんだよね、だから名前だけ貸してる」
初耳だった。
自分もそこに籍を置いておくべきだったか。立ち止まって少しだけ考え込んでいたら、生石が慌てたように声を掛けた。
「――でも、もう六月だし。流石に今から部活決め直しってのも、さ」
「そうだよ、ねぇ……」
でも、多分――部活動には入れない。きっと、あの時みたいに、なる。
『――ヘンなかお!』
『ねぇねぇ、どうしてアナタって――』
……嫌な記憶が少しだけ蘇り、脂汗が出る。それを引き戻したのは、生石の明るいトーンの言葉だった。
「ま、別に部活に入ってないからって、それを揶揄するヤツは居ないだろ。その人にとって最適な場所がここにあるとは限んねーんだし。……あ、俺ここを右だから」
「うん、じゃあね」
そう見送った生石の背中は――まるでおもちゃを見つけた子供のように、楽しそうに見えた。
*****
家に帰って、風呂に入った。
……前述したとおり、ボクは風呂に入ることを知覚できないので、きっとそうしていたという推察に過ぎないが。髪は濡れているし、シャンプーの匂いも微かに漂うので、きっと大丈夫なんだろう、ということにしている。
テレビを点けると、今日櫛灘先生が言っていた、学生の行方不明事件について扱っていた。
「――行方不明者の情報を広く求めております。最寄りの警察署、もしくは以下の電話番号にて、……」
嫌な事件だ。女生徒ばかりを狙った誘拐犯。もしその犯人が、ボクを女性だと見ていたら、ボクもその対象に入ってしまうかもしれない。
そうなったら、誰に助けを請うべきか……考えておく必要はありそうだ。
ああだこうだと考え込んでいると、次第に耳から入る音がシャットアウトされていく。テレビの音が遠くなる。水道の蛇口から零れた水が、乾いたシンクの表面を、気の遠くなるような間隔で叩き続ける。
……もう、眠ろう。
そう決めて、ボクはリビングを後にした。
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