Ex. Path of the seekers
Log. 01 日暮れて道遠し
つづいていない¶
†
九月十五日、晴れ。雲量四割程度。風は少し強い。
それは、何の変哲も無い、いつもの火曜日になるはずだった。
二時間目と三時間目の間の休憩時間の通例として、斜め前の窓際の机には必ず人集りが形成される。
「――ゾンビが出る?」
――それを、自分に対してわざと見せようとしたのは定かではないが――、その瞬間彼女の眼鏡の奥にある、
我が二年二組が誇る
「詳しく――詳しく、聞かせてくれないかしら?」
さて、その委員長によく分からないゾンビの話を振ったのは、同じくクラスメイトの
ちなみに――水楔のお家が十姉妹で構成されているのは地元でも有名な話だ。絢ちゃんは七女で、偶然にも三年生にお姉ちゃんの絵美さんが在籍している。彼女が自分の家であったことを話すときは、大体その話に終始するから、クラスメイトの中では共通認識と化している。
「うん。
一瞬だけ、栖漫さんの掌の上で無限大のマークを描いていたシャープペンの軌道が、ピタリと停止した――ように見えた。ともすると、何かに思案を巡らせていただけと捉えられてもおかしくない程の時間。
だが彼女はそんな様子をおくびにも出さずに「ええ、勿論」と爽やかに応じる。
「――最近家庭の事情で何日か休んでいたみたいなんだけど、その時に見たんだって」
一言一句に鳥肌が立つ感覚に苛まれる。
「まぁ恐い。恒河沙さんはゾンビに囓られたりしたの?」
果たして自分は、動揺を零していたりしないだろうか。だけど、向こう側の栖漫さんは、決して表情を崩さない。さっきより笑みは薄れて、少しだけ真剣そうに、水楔さんを見つめている。
「や、それはさすがに。帰り道に竹林があるらしいんだけど、その中でボロを着た子供みたいな影が、動物の死体を漁っていた、って」
キャッ、と女子の小さな悲鳴が上がる。
「狼や野良犬という可能性は考えられないのですか?」
栖漫さんは右手の人差し指を頬に当てて、そう問い返す。
「そりゃね、恒河沙くん一人の発言じゃ、そう考えるのが普通だけど。――あ、これは別に恒河沙君をどうこう言うわけじゃないよ――、残念ながら同じ事を言う人が三人も出てきちゃったら、流石にね」
その内二人は三年生、一人は一年生。ちなみに三年生の一名以外は、他校の生徒の話だそうだ。
「――って事で、今朝のHRで出た不審者情報っての、真相はそういう事みたい」
水楔さんが述べていた共通点としては三つ。
目撃情報は、夜の十時以降。三年生は受験勉強で帰りが遅いから、目撃者が増えるは当然だろう。
「警察には通報されないのかしら?」
「相談するって言ってたけど……不審者扱い程度じゃ、どうだろうね」
「ありがとう、水楔さん。今夜から、用心して帰るようにするわ」
そう言って、彼女はニッコリと微笑む。――正確には、横顔からでも感謝しているのが伝わる。
彼女は始終、こちらの事など見向きもしなかったが、机の上で踊っていたその手が、笑顔の瞬間にぎゅっと固く握りしめられるのを見て、自分はため息と共に、次の授業の教科書を取り出すのである。
○
「……でぇ? キミは何でその午前中の感想戦を、保健室でやるのかな?」
あんなに青色だった視界は、灰色の天井にすり替わっていた。服は制服ではなく、袖口に赤いラインの入った体操着。
五時間目の体育で、見事に貧血で倒れてしまったのだ。
自分の右手を見やる。一度血の気を失った手前、自分の視界に補正が掛かっているのかもしれないが、それは長く見ていられないほどに白く映った。
「おい、
カーテンの向こうから、かなり不機嫌そうな声が聞こえる。
「ヒマだから何か今日思った事を話せと言ったら、まさかの変態備忘録が流れてきて困っているんだが、話はもう終わったと見ていいか?」
上半身を起こし、病院でよく見るベッドを取り囲むタイプのカーテンを開く。
「今、何時ですか」
声色の通り、眉根を寄せた女性が、保健室の白いテーブルに左肘を預けながら頬杖をつき、足を組んだまま、こちらを呆れた様子で眺めていた。
白衣が死ぬほど似合わないという酷評(?)でお馴染みの保健室担当、
なお、年齢を聞いた生徒のその後を知る人は居ない、らしい。
「放課手前だよ。んで、担任には通告済み。立ってアタマを二、三度振って、歩けるなら、私も帰りたいから、さっさと帰れ」
「ありがとうございます」
そう言ってベッドの上で頭を振ろうとした時、さっきまで寝ていた枕の横に、折り畳まれた自分の制服があるのに気付いた。
「――これ、誰が送ってきてくれたんですか?」
その、何気ない質問だったが――玄真先生は何故か、逡巡しているようだった。
「それはだな――あぁ、瀬堂、違うぞ、勘違いしないでくれ。今の今の今まで言うかどうか迷っていたんだがな。あぁ、いやいや、私だってあまり察しの良い方ではないと思うが――これは事故、そう、事故だ。と、思う。思ってくれ」
瞬間、自分の中に色々な嫌な予感のパターンが想起されたが――それは、向こうから聞こえてきた声によって、一つに集約される。
「だけど、正確には違うかな。私――」
その声に、投げ出していた左手がビクッと反応する。そして、眼前の――窓際のベッドを覆っていたカーテンが、じゃらりと音を立てて開かれる。
「栖漫――さん」
そこには、皆の憧れ――栖漫玲さんが、図書館で借りたであろう、少しだけ日に焼けた背表紙の小説を閉じたまま、先ほどのように笑みを携えながらこちらを見ていた。
「みずみずしい心情に満ち溢れたレポート、ありがとうございました」
どうか、コメディであってください。
そう思った。
†
やってしまった。これは恐らく、これまでの人生で三本の指に入るほどの大失態。これからの人生の中で、嫌なことがあったときに枕やぬいぐるみに顔を埋めていると、これまでの失敗談が走馬燈のように駆け巡るが、その時に必ず顔を出してしまうレベルの経験だ。
「誰も――居ない、ね」
教室の中はもぬけの殻だった。皆、部活動や生徒会活動に勤しんでいるんだろう。
その中に、自分の荷物がぶら下がった机が一つ。自分はそっと、何故か誰にも気付かれないように、音を立てずに、群青色の鞄を引き取って、教室を後にする。
廊下を歩いている間は、校庭から聞こえてくる運動部のかけ声が、吹奏楽のようにリズムを刻んで聞こえてきたが、昇降口に向かうと、とうとうその声も途絶え、先ほどの教室のような静寂が、耳を遠くからキーンと鳴らした。
その音をかき消すように、自分の下駄箱まで歩みを進める。
……帰ろう。先ほど保健室を出た後、職員室に寄って、担任にも了承を取った。
自分の靴を手にする。上履きより、少しだけ重い。
「セートミン」
――その声に、スニーカーを取り落としそうになる。
自分が返答を一考する間も与えずに、
「一緒に帰りましょう」
栖漫玲さんが、沈みゆく太陽を背に、そう続けるのだ。
――セトミンとは、栖漫さんが自分に付けてくれたあだ名だ。脳内分泌物みたいで嫌だったけど。
『――あだ名で呼んでもいいかしら』
『何で、ですか』
『それは、あなたが一番よく知っているでしょう?』
「……え?」
栖漫さんが他人を待っているだなんて、全世界の人間を総覧しても絶対に起こりえない事態だろう。
自分が聞き返してもなお、彼女はほんの少し首を左に傾げるだけで。
「一緒に、帰りましょう?」と、重ねた。
そう、何故か、自分を。こう言うと角が立ってしまうけど、彼女にここまで深くまで切り込んだ生徒を、誰も見たことがない。
『栖漫さん? もう帰ったんじゃない?』
『何か、家庭の都合とかで、打ち上げにも出ないで帰っちゃったよ』
『でも、栖漫さんだしなぁ』
『そうそう。ママさんが門限厳しいとかじゃないのかな』
常に、忙しい。
常に、何かをしている。
帰るときはいつも一人。
よく言えば、ミステリアス。
悪く言えば、ぼっち。
家だって、何処にあるのか分からない。これについては、先生に聞けば答えてくれそうだけれど。
ひょっとしたら、漫画やアニメでお嬢様が通うような、球場ほどもありそうな土地の中に、町中では明らかに浮いてしまう西洋建築がそびえ立っていて、その二階の窓からこちらを見下すのが趣味かもしれない。はたまた、太閤様も尻尾を巻いて逃げ出すほどの巨大な城の中で、十二単を羽織って短歌を詠みながら生活しているかもしれない。
荒唐無稽、ファンタスティック、捧腹絶倒、色々浮かぶし、言われたこともある。だけど、彼女の普段の振る舞いからすれば、全くあり得ない話ではない。
つまりは――そのイメージが先行したか、行動が先行したかは定かではないが――、彼女の昇降口以降の足取りを知る人が居たら、自分の携帯電話に是非とも連絡を入れて頂きたいのである。
外は綺麗なオレンジ色だったが、ふわふわとした霧のような雨がアスファルトを微かに濡らしていた。
「――傘は必要?」
鞄の外ポケットからオレンジ色の折りたたみ傘がはみ出ていた。
首を横に振る。
「――喫茶店に寄る?」
横に振る。
「竹やぶに行く?」
首を横に振ろうとして、彼女の横顔を見た。
向こう側を見たまま、ほんの少し憂いを帯びた笑み――に、見えた。
「それは、流れで提案することじゃないと思います」
「あら、よかった。てっきり貧血の
「今、因果関係を指す言葉の中に、自らの願望が入っていたような気がしたんですが」
「気のせいではないかしら? 些末なことばかり気にすると、小じわが増えてしまうわ」
彼女のその顔に、えくぼ以外は気になるような皺は見当たらない。
「じゃ、決まりね。十七時に
×
てっきり、その場には水楔や、そうじゃなければ他のクラスメイトでそういうのが好きそうな
が、人数の変更はなく、栖漫さんは本当に一人でやって来た。
私服。恐らくこの学校の中で彼女の私服を目にした人間は、自分一人であろうという高揚感のお陰で、夜風を浴びていても鳥肌一つ立てずにいられた。
栖漫さんの私服は、グレー地によく分からないキャラクターの描かれたパーカーだった。下は、スカートではなくスキニージーンズだった。この後の事を考えて、動きやすさを重視したのかもしれない。
十二単ではなかっただけ、収穫ということにしておこう。
栖漫さんは自分の姿に気付くと、ゆっくりと近寄ってくる。
「寒くないですか?」
季節の変わり目だからね、と言うと、栖漫さんは擦り合わせていた右手を、ゆっくりとこちらに差し出してきた。
「手を繋ぎましょう」
そこでようやく、自分の心臓が早鐘を打っていることに気付いた。
「拒否権はなしです。私が寒いので」
まずい、これはまずい。ここで手を繋いだら――繋いだのを見られたら――、何か危ない気がする。
そう思っていたとき、自分の左手をグイッと掴まれる。その手は、彼女のしっとりとして冷たい質感を、ただゆったりと、自分に与えてくれるのだ。
「それでは――探検に、出発です」
そう言った瞬間、視界の向こう――目前の栖漫さんよりもずっと先――から、がさり、といった音がした。ただでさえ車通りのないこの道で聞こえてきた不審な音は、自分の不安をかき立てるには十分すぎた。
「イヌかしら?」
さて、既にお分かりだと思うが、栖漫さんはかなりグイグイと来るタイプだ。例えば、横断しそうな歩行者が車に道を譲っていたとしたら、法律や歩行者保護原則なんぞ知るかとばかりに車を発進させてしまうような、そんな強引さを持ち合わせている。
きっとそれは、普段から隠しているわけではないのだろう。誰でも触れるチャンスはあるが、学校関係者の
「あの、栖漫さん」
「帰りませんよ」
ぴしゃり、と言われた。
「ええ、絶対に帰りません、正体を掴むまでは。もしくは、それが集団幻覚である確証を得るまでは、決して引き返しません。それが二年A組の委員長の宿命なのです」
どこかで聞いたような台詞を口走りながら、彼女は自分の手を引いて、どんどん竹やぶの中へ分け入っていく。
そういえばあの時も、こんな状況だったような気がする。
『――私、あなたの事を見つめていると、不思議な気持ちになってしまうの』
そんなことを言われたのが、今年の五月。ちょっとその二、三日前に色々なことがあって、五里霧中だった頃の自分に、とどめを刺したのが栖漫さんだった。
『だって――』
花の香り。シャンプーの匂いだろうか。
「足下に気をつけて。変なモノを踏んだら、明日の体育で走れなくなってしまうわ」
あの時と同じ芳芬が、自分の花を撲つ。
枝葉の多い木々が生い茂っているわけではないのに、その中は月の光すら差し込まぬ漆黒だった。栖漫さんは、左手に自分の携帯電話(これも初めて見た)のライトで周辺を照らしながら、辺りの様子を伺っている。
歩き出してから五分ほど経った頃、彼女が不意に足を止めた。
「あら」
「な、何ですか」
そう聞くと、彼女は少し屈んで、何かを捜すような仕草をする。ややあってから腰を上げると、こちらに何かを差し出した。
「セトミン。見て、これ」
それは半ばで少しだけ曲がった棒状の何かのようだが、暗くて全容はよく分からない。そう言おうとしたとき、ライトがその姿を照らし出した。
「――犬の足」
その手に握られた所に、微かに暗い体毛で覆われた肉球が見える。そして、彼女が今手を触れていない方――端っこの部分は、どす黒く濡れていた。恐らくは、血まみれの足の付け根がそこにあるのだろう。
グロテスクに耐性が無いわけではないが、見ていて気持ちよいものではない。
「栖漫さん、冗談は――」
そう言おうとしたとき、不意にライトが消された。
そして、何かが自分の顔へと迫ってくる。栖漫さんの左手だった。
「むぐッ」
徐に口を塞がれた。しっとりとした感触が、口の周りを包み込む。
「シッ、静かに」
その声に、思わず耳を澄ます。夕刻の竹やぶは変わらず泰然自若としていたが、その葉擦れの端の端っこに――自分でも分かる、何らかの違和感があった。
誰か居る。質量的に、犬猫畜生の類ではない。
「帰りましょう」
そう言うと、彼女は初めて踵を返した。
「これ以上は、あなた達の仕事ではないわ」
こうして、唐突なデートは終わりを告げた。
気がつけば、竹やぶを出て、先ほど集まった道路が見える場所に立っていた。
「栖漫さん、あの犬の足は一体……」
「セトミン」
その表情は、普段笑顔の似合う栖漫さんからは想像も付かないほど、真剣な眼差しを携えたそれだった。
「また明日、元気に学校で会いましょう?」
――うん。
それじゃあ、また明日。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
――九月十五日、二十四時十五分
「はーい十五分遅刻ゥ。給料1割カットな」
けだるそうな声が響く現場には大人が十人程集まっているが、どれもガタイが良い人間ばかり。
「――樋場さん。たまたま早く来たからって、その言いぐさはあまりにも絶対王政過ぎません?」
その声に、明後日の方から加勢がやって来る。
「そうだそうだ、水楔の言うとおりだ。仕事疲れの大人を深夜に狩り出すとか、ブラック企業かお前は」
樋場と呼ばれた少し背の高い女性は、持っていた杖を、その明後日の方向に向けて応えた。
「おやおや、玄間先生。保健室のお業務はよほどお忙しいご様子で?」
玄間先生と呼ばれた彼女は、樋場――樋場莉玖からそう突かれると、ばつが悪そうに三歩退く。
「……ッ。久々にそっち側からの仕事だと思ったら、不審者捜しだって言われたから、テンションが下がってるんだよ」
玄間が話す度、他の人間は聞き耳を立てているような仕草をする。どうも、一定の距離を置かれているように見える。
「あぁ。これはお前に適任だと思って選んだ、それだけの話だ。……まぁ、お互い色々あるだろうが、ここは私に免じて、協力してやってくれ」
樋場莉玖は、彼女ら――異能使いを統括する『協会』の筆頭大主任である。数十年前にこの世界に降り立ち、現在もなおその権力を維持し続ける、異世界からの流れ者の内の一人だ。
「これで全員か?」
「いや、あと一人来れば始められる」
樋場がそう言うのと同時に、彼女の背後から、足音も無く少女が現れた。
「……遅れた」
風に、彼女の長髪が靡く。
「いいや。忙しい中ご苦労、
俺との差は何だ、と玄間が暴れるのを周囲が諫めるため、更に五分遅刻しての出立となった。
場所は、先ほど瀬堂海和と栖漫玲が探検をした、竹やぶだった。
「うむ。報告通りだな」
そこは、先ほど二人が歩みを留めた、『犬の足』があった場所だった。
大きめの懐中電灯で、樋場がその先を照らすと――そこには、地獄のような光景が広がっていた。
まるで貝塚のように、野生動物の骨、肉片が食い散らかされていた。中には猫の首や中身の無いカラスの胴体等、人間のモノは無かったが、常人は間違いなく嫌悪感を催す状態となっていた。
「すげえ。これは人間が襲われるのも時間の問題ですかね」
「ああ。だから、ここで狩る――」
樋場莉玖がそう言った瞬間。
小さな影が視界の端から飛び出し、彼女の首目がけて飛びかかってきた。
「樋場!」
明夜が叫ぶ。同時に、何かが砕ける音と、肉がはじける音。
「なぁる程な、それで私が呼ばれたワケか」
樋場莉玖の首は繋がっていた。
その代わり、玄間の右腕の肘から先が、消し飛んでいた。
「明夜、撃て!」
瞬間、隣に居た戸隠明夜が、懐から取り出した大玉を銃に込めて打ち出すと、それはその影の目の前で爆散し、大きなキャプチャーネットとなって、それを包み込んだ。
影がその事態にもんどり打って倒れるのを見、樋場は懐中電灯を取り出して、それを照らし出す。
「見ろ、アレだ。あれが――
そこには、黒々とした髪を腰よりも長く伸ばした少女のような体躯の何かが、樋場の右腕を何とか噛み千切ろうと奮闘している様子だった。
瞳孔は人間とは思えない程に見開かれ、光を与えたこちらには目もくれず、やっと得る事の出来た肉に興味津々といった様子だった。
「喰人種だぁ?」
「そうだ。こいつらは肉食、しかも人間の肉しか食わない。代替物として犬畜生どもを食っていたようだが、どうやらそれで欲を満たすことは出来なかったらしいな」
「殺すか?」
「いや、保護する。それが『協会』の方針だ」
ええっ、と玄間は不服そうに叫び、先の無くなった右腕をブラブラとさせながら、樋場に詰め寄る。その腕の残った部分に骨は無く、機械のようなケーブルが何本も露出していた。
「右腕一本で済んだと思えよ。保護なんてしたら、監視職員が毎日一人ずつ消える事になるぞ」
「価値観にそぐわないから殺すというなら、この世界から戦争はなくならんぞ? それはお前が一番よく知っていると思ったのだがな」
でも、と玄間は引き下がらない。
「こいつのメシとして用意されなきゃいけない人間の方が、よっぽど保護する価値のあるもんだと思うぜ」
「そこは教育次第だな。人間を食わなくて良い手段で矯正出来るならそうするし、人間でしか満たせないのならば火葬場のバイトでもさせよう」
それじゃ本末転倒だろうがと叫ぶ玄間を尻目に、明夜が樋場の方へ歩み寄る。
「学校にはどう言っておく?」
「噂なんて七十五日、放っておいて問題ないだろう。掃除は今日明日中にしておいて、興味を持った生徒が忍び込んでもショックを受けないようにしておくことにするよ」
樋場がそう言うと、明夜は少しだけ明るい声で、「よかった」と呟いた。
†
鉄格子に囲まれた部屋の中で、手と足と首とを鎖で繋がれた少女は、近づいてきた樋場莉玖に容赦なく牙を剥く。それに対し、監視役が彼女を下がらせようとするが、当人は容赦なくそれを振り払う。
檻の中は食い散らかされた配給品と、自分の排泄物とで、流石の樋場莉玖でも一瞬だけ顔をしかめるような光景だった。獣のような呻き声を上げているのは、数日前に竹やぶで拾った喰人種の少女。
髪の毛は地面に付くほど長く、瞳は炎のように赤い。
「お疲れ様です、筆頭大主任……喰人種の少女ですが、毎日このような調子で……」
「バァーカ。お前らが『世話を掛ける』つもりで接するからだろうが。そんな態度取ったら、反感を買うだけだっつうの。侵略と略奪の末に生まれる反抗の歴史を知らんのか」
樋場は言葉を吐き付けて、ゆっくりと彼女へと歩みを進める。
「すまんな、ファタンブール。人間を人間と呼称するのは我々の中で礼を失する事に当たるものでな、よって、君にもこの名前をプレゼントしようと思う」
そう言うと、少女の呻きは突然収まる。
「言葉を教えたはずなのに、敢えて話さなかった。誰よりも賢くて、誰よりも純粋な君だからこそ為しえる芸当だ。そうだろう?」
「……」
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「――おい樋場、今日のメシはやたらと美味いじゃねえか」
エビチリをばってん箸でつまみながら、男が感嘆する。
「普段から霞を食って過ごしてるようなお前が言うと、信頼性という言葉の意味を辞書で調べたくなるな」
「タダメシだから傾斜配点が弾みますね。もう傾斜を超えて坂ではなく縦ですね。あぁ、こんなメシがここで食えるなんて、人生何が起こるか分かんねえなぁ」
適当な男がそう言うのを流しながら、彼の背後の調理場に立つ、割烹着に身を包んだ少女を見やる。
「あぁ、全く。何が起きるか、な」
少女は笑いながら、鉄鍋を振るい続ける。
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