第10話 『ブランク・エンド・マトリクス』
光が殆ど届かぬ、監獄のような暗闇の中。
ひとりそこに立つ少女は、両手の中に閉じ込めていた何かを、天へ向けて解き放つ。
塊はゆっくりと羽を生やし、重力に逆らい始める。鳥籠の頂点に存在する、一縷の光を目指して。
少女はそれを見届けると、彼の持ってきた一枚の紙片を、左手でつまみ上げる。すると紙は突然赤々とした炎を上げる。一瞬だけその炎に、少女の冷たい笑みが照らし出され、すぐに鳥籠は暗黒に包まれる。
「伝書鳩とは、何とも遅れた文明だ」
少女はクッケケと笑ってそう呟くと、パチンと指を弾く。
籠の中には、黒く塗りつぶされたキャンバスだけが取り残された。
†
「あら、お父様。アルマお姉様は?」
「――中部戦線に、夫と出向している。
「エイラ姉さん、ひょっとして会話の主導権を握れるからって、ほくそ笑んでるってワケ?」
「なッ、何を言うの、ウィント!? あろう事かお父様の前でその様な狼藉を――」
「エイラ! それにウィントも、静かにしなさい」
「ふんッ」
「ふぅ。……それで、エイラ、キリエ、ミシェ、ウィント、ロミン、レナ、ディン、メリー、フレイ。今日は全員に話がある」
「あ、あのぉ……お父様。リーザお姉様がいらっしゃいませんのですけれど……」
「あらあらあらあら、メリーったら、本ッ当に察しが悪いのねっ。アルマお姉様は別として、お父様がこうやって家族全員を円卓に呼ぶ理由なんて、たった一つしかありませんわっ」
「そうですわ、ミシェお姉様。――それに、メリー。貴方は何時からその末席近くからアーサーお父様にご用伺いを立てられるようになったのかしらね?」
「……メリー、ロミン姉様の言うとおりだ。座って」
「……分かったわ」
「メリー、それにフレイ、ロミンも、宜しいかね。話というのは――ミシェの言うとおり――九女リーザ・ヴィーンを、我がマクマイズ家から追放する」
「まさか!」
「メリー、座るんだ」
「でも……!」
「それはもう、覆ることは無い、つまり、我が愚妹はもう戻らないという事でよろしいのかしら?」
「その通りだ、ディン。リーザは軍に行く」
「軍? 指揮官にでもなるつもりかしら?」
「そう思うか? 腕っ節なら私にも引けを取らないアイツが、本当に?」
「あら……という事は、まさかとは思いましたけれど――本当に剣を取るおつもりなのですね?」
「そうだ。リーザは我々が代々築いてきた魔術の道を全て捨て、野蛮にも前線に出る、騎士としての道を選んだということだ。無論、私はその道を尊重する」
――その言葉に笑ったのは、フレイだけだった。
†
「何しやがった、てめぇ!」
ルルナリィがそう猛って鋤島に飛びかかる。
彼はふと笑みを浮かべ、まるで何かに身体を引っ張られたかのように、動作を見せないまま一歩後ずさって見せた。彼女の伸ばした手はそれに間に合わず、空を切る。
「……インチキ野郎!」
今回の”作戦領域”を『壁』が取り囲んでいた。それは鳥籠というよりは、もっと冷たく直線的な、プラスチック製の虫籠に近い。
鋤島糸里は、歪なリズムを刻みながら、彼女と距離を離していく。
「お褒めのお言葉、感謝申し上げる。『
ルルナリィはギリッと奥歯を噛みしめると、被っていたヘルメットを脱ぎ捨て、左手で右手首を掴み、地面を蹴る。飛びかかる動作ではなく、地面を踏みしめて、鋤島の不可視の一撃を避けようとする。
「おっと、かけっこは苦手だなぁ」
彼はそう嘯きながら背を向けて、ビルの裏道を走り始める。
時々、ビルの壁面や地面に大きめの杭を打ち込んだような穴が開く。光の屈折具合をよくよく見れば、それが彼の放つ光の柱であると、ルルナリィにも分かってきた。既に暗い路地は終点に差し掛かり、その先は車の通らぬ四車線の道路だった。歩行者信号は赤く光っていたが、鋤島は既に中央分離帯の方まで到達していた。
ここで堪えれば良かったものを、流石にルルナリィの理性はそこまで強靱ではなく、獲物を射程に得たと見て大きく跳躍する。目当ては彼の上に存在する街灯の柱。そこを起点にし、空中から追撃する――。
「正々堂々と勝負しやがれッ」
その言葉に、ずっと背を向けて走っていた鋤島がピタリと足を止め、ゆっくりと彼女の方を振り向く。その顔は先ほど彼女と対峙していた時よりも、ほんの少しだけ眉がつり上がっていた。
「あァ?」
瞬間、ルルナリィの身体が、腹部からくの字になるように弾け飛ぶ。不可視の
「正々堂々って言ったか、今?」
少女は強かに地面に身体を打ち付け、二回ほど転がってから地面に膝を突き、少しだけ嘔吐く。
「お前が発するべき言葉ではない」
鋤島はそう言って右手首を捻って鳴らし、踵を返す。
「くそォ」
ルルナリィは、肩で息をしながら腹部を手で摩りつつ、そう呻いた。
「
日光が少しだけ霞んでしまう程の光の柱が、彼女を押し潰す為にゆっくりと空中から振り下ろされる。
手を出せば、それを打ち破るのは容易い。だが、そこから次の手が思い浮かばない。直感で殆どを選び取る彼女に、組み立てという概念は存在しない。
――だけど、こんな所では終われない。身体は動く。脳には少し酸素が足りなくなったが、もう数分で完全にリカバリー出来る。この一瞬をやり過ごすための時間だけが、どうしても欲しい。
「届けッ! ――届けよ、届いてくれよッ!」
そう叫んだ瞬間、彼女が知らずの内に伸ばしていた右腕に、刃物を突き立てたような痛みが走る。
瞬間、光の柱が空気に溶けるときの、薄氷を踏み砕いた時の音が、空虚な広場を
「……何だ、それは」
鋤島の声に、初めて動揺が混じる。ルルナリィが視線を移した先の、右手から肘までをなぞるように――うっすらとした紫白色の、電気を可視化ような筋が、アトランダムに発生しては消えていく。
†
「樋場!」
夜木と呼ばれた男が叫ぶ。
樋場莉玖は我を忘れ、ビルの転落防止柵に近づき、双眼鏡でその光景を眺め始めた。
「見えている。そして直ちに鋤島を退かせろ、そして全員を出せ、ターゲットもだ」
†
「そうか――そうかよ」
光の筋はすぐに収まり、ルルナリィはゆっくりと立ち上がる。
そして、口の端で少しだけ笑って見せた。
「おめでとう。これは、予測データに無い事態だ」
鋤島はそう言いながら、一歩、また一歩と後ずさっている。その背後から投げかけられた声が、静寂に包まれた世界を破った。
「鋤島班長!」
二、三十人ぐらいの迷彩服集団が現れ、彼の退路を確保するように、中心を空けた隊列でルルナリィに銃を向けていた。
「直ちに退却して下さい、ここから先は総動員で対応します!」
――だが、事態を目にした彼は、意外にも舌打ちをして見せた。
「馬鹿共が……」
言うが早いか、鋤島はルルナリィに背を向け、その集団の元へ走り出す。
「鋤島班長!?」
この時ルルナリィ・マクロック・スティーンは右腕を天ではなく鋤島の背中へ向けていた。腕がぶれないように、左手でその光の筋を再度浮かばせた前腕を、しっかり掴みながら。
「散開だ!」
「問題ありません、この距離なら相手の攻撃で消滅させられることは――」
「違う! あれは――」
事態を受け止めきれない隊員達の様子を見ながら、鋤島は右前方と左前方に、虚数指定で展開した光楔を打ち出す。
自分は地面を強く蹴り、前方に見えるビルの屋上目がけ、虚数光楔を数メートルごとに配置する。
「あれは――、照射式の十二世界完全だ!」
ルルナリィの腕の先から――腕に纏った筋の色とはまた異なる――青紫色の太い筋が迸る。その直ぐ後に、大きな鉄の塊を落としたような衝撃波が、その筋の通った部分から放射状に生み出される
鋤島が飛び去った場所に生えていた街路樹は――まるで大砲の弾で打ち抜かれたかのように――木の生えている方向と垂直方向の大穴が開いていた。自重を支えきれなくなったそれは、やがてバリバリと音を立てて崩れ始める。
彼女は、その光景を見ながら――事も無げに呟く。
「これが、
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