第07話 『高慢ちき』

 僕は代替者あの子の名前を呼ぶ。返事は無い。

 ――二億六千五百万千二十番目の僕

 僕は誰かの名前を呼ぶ。

 ――三兆五十一億十九万六千五百三十二番目の僕

 僕は、叫ぶ。

 ――九京九百二十一兆

 俺は、

 ――三十京





 ――話で聞いていたのと、違うじゃないか――





 僕は事務所を出た後、一体どこを通ったのか、何時発車の電車に乗ったのかもうろ覚えのまま歩いていたと思われる。気がつけば、僕の足はかまち代わりのプラスチック製踏み台の上にあった。それは見慣れたアパートの三階にある、家賃四万円強で去年から借りている自室の中のものだ。

 膨らんだゴミ袋が玄関前を塞ぐように二つ置かれている。

 明日、どっちも出さなきゃ。

 そう誓って、僕は部屋の奥まで進むと、部屋を乳白色に染めていた陽光をカーテンで遮断し、事務所に行くから不要だと持っていかなかった黒いショルダーバッグを拾い上げ、右肩から斜め掛けする。

「さて――」



 混雑が嫌いなので、昼の町中に出るのは久しぶりだ。電車で二駅先。日曜日という事もあってか、駅前のスクランブル交差点は、いつものように人でごった返している。数日前まで、そこら辺の建築物でドミノ倒しをやっていただなんて誰も思いはしないだろう。

 渋谷の交差点のピーク時を想像すると分かりやすいが、目の前のスクランブル交差点はそれを六割ぐらいカットした状態だ。

『――人よけについては、あの普段人間だらけの町中に一人も人間が居なくなっていた先日の状況から察するに何らかのトリックがあったとして……あんな災害みたいにビルが倒壊してるのに、みんな何事も無かったかのように歩いてる。一体どんなカラクリをご使用なさったんですか、樋場さん?』

 あぁん? と、問われた本人は心底不機嫌そうに、十センチ程積まれた書類の束を次々にシュレッダーの口へ装填していた。

『まず言っておくが――三十年前からこの世界に神秘だの、超常現象だのといった言葉は無くなったと見ていい。つまりUFOはどこからやって来るのか、この未知の反応はどこに由来するモノなのかというのが――』

 いや、そういうのいいんで――と、僕は遮った。

 シュレッダーの獲物を飲み干す音が消え失せ、部屋の主の声も途絶えた事務所の中は、窓の外の生活音すら聞こえないほどに、外界と隔絶されている。

『好奇心の欠落した男は、つくづく残念だ。旺盛な猫と同じように死ぬがいいさ』

 貴女も、そうやって婉曲に真実へアプローチさせようとしている時点で同等ですよ、と応えておく。

『フェイクだよ、フェイク。今お前含む全員が見ているビルは有名無実で、そう見せているだけだ。その隙に、あのハリボテの裏で全力工事中というわけだ。人払いの件は――神在月イズミに聞けば、ねっとりと教えてくれるだろうよ』

 本当にこの人は、退屈と大儀を嫌忌する女なんだ。

「さて。どこかに居ますかね――対称復讐者」

 犯人は現場に戻る、というのは殺人事件とかで使われるフレーズだけど。この場合、彼女――ルルナリィは殺人犯という事だろうか。何というか、役不足感が否めない。

「時刻は十三時五十分――」

 電器屋のテレビに映った同じ顔がサラウンドで時刻を告げている。それを尻目に、横断歩道へ足を踏み入れる。

 ――この状況から、特定の人間を見つけようとするのは至難の業だ。一体どうしたもんか。そう言えば、去り際に樋場さんが何か言っていたな。

『そんなドラマチックに出会いたいなら、町中でお前だけを睨んでる変な奴でも探してみればいいんじゃないか』

 僕はドラマを観ないので分からないけど、物語制作にはきっとそういうお約束があるのだろう。

 だけど、まあ。そんな上手い話があったら、僕はそもそも今時点で肉塊になってしまっているはずなので、こんな事で出会える可能性を考えたら、突然沸いて出た隕石が頭に直撃する可能性の方が余程高いかもしれない。

 考え事をしていた僕の目を覚まさせるかの如く点滅する信号に、少しだけ足を急かす。無論、この数分の間に、そんな怪しい奴が現れる事は無かったのだから、これ幸いという気分である。

「……?」

 と、その時。ふわりと、このコンクリートジャングルには似つかわしくない香りがした気がして、僕は元来た道を振り返る。だがその一瞬訪れた奇妙な香りは、一瞬で車の排気ガスと処理されていないヘドロの臭いにかき消されてしまう。

 あまり花の匂いとかに詳しいわけじゃないけど、たしかこれは――。

「薔薇……?」





 視界の端が、ぶれた気がした。別に、この目は異形だけを映し出したり、数時間後の未来が見えたりする事も無い、補正の要らない普通の眼だ。その一瞬の、ひょっとしたら気のせいである可能性の方が高い場所へ、自然と体が動く。走り慣れていないはずなのに、まるで延びきった状態から解放されたバネのように。

 そこはビルとビルの間隙に生まれた、湿気と臭気漂う路地裏。確かに、人の気配がする。

「おい、大丈夫かよ……って、やっぱムリか」

 目の前で起きている事態に、僕は混乱して言葉が出てこなかった。そこには――ルルナリィ・マクロック・スティーンが、腹部から血を流した同い年ぐらいの女の子を見下ろしながら屈んでいたのだ。

 その真緑色の双眸は絡繰り人形のように不自然な速度で、僕の足から腰、顔を舐め回すように見上げていく。

「何だ、お前……。

 出会い頭に気持ち悪いとは不躾にも程がある。

 だけど、不思議と怒りはしなかった。むしろ、この自分の行幸っぷりに軽くおののいていたぐらいだ。彼女の見た目は前に樋場さんから貰った写真通り、三白眼に金髪の少女だった。黒とダークブルーのストライプ模様をしたパーカーのフード部分が引きちぎられたようになっていたが、最新ファッションか何かだろうか。

「キミがやったのか?」

 率直に聞いてみたら、なんと音を立てて唾を吐かれた。

「なワケないだろ。アイツだよ、アイツ」

 アゴで指し示した先――既に百メートル以上離れている――に、白色の帽子を被った中年男性が走っているのが、かすかに見えた。

「通り魔って事か。今すぐ警察に――」

 幸か不幸か、背後に一本だけ公衆電話があった気がする。

「いや、いい。アンタはこのカワイソーな子をビョーインに連れてってやりな。アトは――

 そう言うが早いか。少女は、軽微な地震と勘違いしてしまいそうな程に地面を強く強く蹴る。衝撃と風圧で一瞬視界を奪われた僕が次の瞬間に目撃したのは――その遙か向こうを走っている通り魔の背中に、ひとっ飛びで食らいつこうとする野獣の姿だった。

 何というかもう、滅茶苦茶だ。

 そして、そうして呆れてしまうほどに彼女は風のようで、止める間もなかった。

「満足したか? ――なら、

 波動、波濤、どちらの言葉でも捉えられない――微かに光差す暗い路地の向こう側から、腹の奥を揺るがすような、気持ちの悪い揺らぎが、全身を駆け巡った気がした。

 そうか。これが――。

「女は死んだか?」

 だけど次の瞬間、ルルナリィは僕の目の前に、息を切らした様子も無く平然と立っている。

「息はある。救急車は――、今呼ぶ」

 犯人を補足してから事を済ますまで、二分と掛かっていなかったのは、まさに神業と言っても差し支えないだろう。僕は公衆電話の非常用ボタンを叩き割って、救急要請をする。

「……済んだよ。じき、ここに警察と救急車が来る」

 へぇ、と気のない返答。

「お前、動じないんだな」

「別に。漫画みたいでカッコイーじゃん。マジックみたいにポンポン消せるんだろ?」

 一瞬、彼女は訝しんでいたが、すぐに得心したように何度も頷いて見せた。

「この世界って、やっぱそーいうヤツが多いんだな。全然怖がんねーんだもん、脅しにならねーから困った困った」

 この時僕がどんな表情をしていたのか、姿見も無いのでよく分からなかったが、きっと頭を抱えたくなるほど破顔していたに違いない。

「ところでキミ、警察は好き?」

 だから、このテンションのまま、僕はどこまで行けるのか。

 少しだけ、試してみたくなった。

「大ッ嫌いだよ。あと、私はルル……ラァナって名前で呼んでくれ」

「ああ」

 僕は彼女の左手を握る。

 ――特に何事も起きることもない、冷たく乾いた小さな手だった。





 救急車が女性を乗せて何処かへ行くのを見届けてから、僕は少し離れた喫茶店にラァナを連れて行った。

 無論、現場の傷痕や凶器は全て消して貰った。

『ラァナ、面倒事はしたくないんだけど。傷跡、血痕、どこまで消せるの?』

『全部!』

 と胸を張っていた。

 結果的に、貧血で倒れた女性を介護しました、という健全な運びになったので、それはまぁよし。……起きたときに、多少変なことを言うかもしれないが。

 今考えると、怒った彼女によって街一帯が無に帰する可能性もあったが、不思議と彼女はその言いつけを守ってくれた。

「――手慣れてる風だったけど。キミは普段からああやって人間消失マジックを披露して歩いてるの?」

 ラァナはクリームソーダを執拗にスプーンでかき混ぜている。

「まッさか。お前が気持ち悪いミエカタをしたから、でどんな反応するのか、気になった」

「見え方?」

「あぁ。――あのすげー女の事も、よく知ってんだろ?」

 他の客の騒々しさが、堰を切ったかのように僕の耳に届く。

「それは――」

 僕は桐生芽衣のように器用では無い。未来は見えないし、この場から上手く逃げおおせるような術も持ち合わせてはいない。

 だからここは、抱えて突き進むしか、方策は残されていない。

「メーヤの事?」

「へー。メーヤってんだ、アイツ。あとあの男も気になるなぁ。何しても死なねーんだもん」

 それは多分、雁ヶ屋匠の事だろう。

「残念だけど、そいつの事は何も知らない。多分だけど、風の又三郎みたいな奴なんじゃないかな」

「マタサ……何だって?」

 ごめん、こっちの話だ。

「でも、僕の素性を何となく察してくれているなら、話は早い。僕はキミと話がしたくてここまで来たんだ」

「へー。ご苦労さん、って奴だったな。今このままアンタを消してしまう事だって出来ちまうんだぜ」

 ラァナは楽しそうに手をとさせている。

「僕一人が消えたところで、キミには何の得にもならないよ。キミって、無差別に殺……やらかしてるように見えるけど、何か一定のルールがあるんじゃないの?」

 テーブルの上には、蛇腹折りにされたストローや、砂糖とミルクのポーションが何かの魔方陣を形成しているかのように点在している。

「あるよ。教えねぇけど」

 こう楽しげに話す彼女を見ていると、あどけない少女の姿でしかない。だけど――こんな奴が、メーヤの両親を、あんなにもあっさりと殺したんだ。

 その感情が顔に出てしまったのか、ラァナは見透かしたような笑みを浮かべる。

「あ、怒ってるんだ。でも、なーんかおかしいんだよな、お前。キレてる割には、誰かをぶっ殺してやろうって感情の動きがちっとも見えねえ」

 そりゃ、まぁ。

 桐生明夜かのじょ自身は無事なわけだし。両親と言っても血縁関係ではないし。じゃあ僕が何でここまで動いているかと言えば――何故だろう。

 に、知って欲しいからだろうか。

「だから、僕を消したりはしないわけだ」

 そう言うとラァナは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてから、首を横に振って表情をリセットしようと試みていた。

「そういう事にしといてやるよ」

 僕の言葉に、胸を張ってそう返す姿勢は、虚勢にも見えるし、自信があるようにも見える。

「正直言って、僕はキミの大言壮語っぷりに――呆れてる。言い換えると、ラァナ――その理想を実現する為には、障害が多すぎる。それを辛いと思うかそうでないかは別として。その煩雑な作業を簡略化する――人間を篩にかけるトリックは一体何なんだ? 殺……直接手にかける人間と、消される人間の基準は何なんだ?」

「殺したいって思いと、殺されるかもしれないって思いがお互いにあるなら、それは立派な感情のやり取り。その感情に従って何かを成し遂げられた人は、敬ってしかるべき」

 要約すると、『消す』と『殺す』では消す方が上位であり、そして殺す対象となる人間は、無差別に人間を殺したヤツに限る、という話だ。

 全く分からない。

「――生きてる人は、平等に扱われちゃダメなのかい?」

「殺人犯と一般人パンピーを一緒にするのか、キミは」

「殺人を実行していなければ、普通の人間だよ」

「へりくつ、高慢ちき」

 バッサリといかれた。確かに、理想論だってのは分かる。どんなことをしたって、いけない事に手を染めてしまう、手を染めざるを得ない人は出てしまうだろうけど。

「重要なのは、それを理性的に処理する機関――この世界で言う所の、法律――が存在するかどうかだと思うんだ」

 キミのやっていることは、独裁だ。

 自分がやりたいように、裁く。

 例外だったから、とりあえず殺す。

「ヤベー奴だと思ってるだろ」

「そりゃ、まあ」

「そーやって、異なる価値観を許容出来ないヤツが、センソーとかするんだよ。お前はそういう人間になりたいのか?」

「話題を逸らすな。キミが全ての世界を救うのかよ」

 意外と、あっさり出来そうなもんだけど。

「あぁ。救ってみせるよ。この世界で、二度と復讐は許さない」

 ラァナは立ち上がり、僕の隣をゆらりと過ぎ去る。

「待て、話はまだ――」

「時間だよ。じゃあな、――」

 瞬間、胸にチクリと痛みが訪れる。

 ――あぁ。こいつは、やっぱり根底から『終わって』いるんだ。そう考えを改めるに至った。

 僕の胸に――いや、右胸と肩の間の辺りに――銀色のペティナイフの刃が、根元まで綺麗に刺さっていた。

「急所は外しといたぜ」

 ――体が制御を失う感覚と共に、僕の意識は途切れた。

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