19.ほんとはね

 さっきから人が廊下を歩く音がする。もうそろそろ朝の巡回の時間だ。

 立ち上がって窓を開けた。

 露に濡れた金網の向こうは、遠く海に続いていた。その東の空一面に見事な朝焼けが広がっている。

 重く湿った外気を深々と吸い込む。

 部屋に漂っていた悪意ある存在達は、冷気に追い払われるように静まりかえっていった。

 朝の光の隅々まで照らしていく、その光景を見つめていると、不意にあることを思い出した。

 この手紙の事。

 昨日も、一昨日も、そのまた昨日も、その前の日も、そうだった。

 おんなじように手紙を書こうと思い立ち、おんなじように眠れぬ夜を経て、おんなじように朝の日の出を迎えたのだ。

 せっかく書いた手紙と言う名の紙屑は、眠っている昼のうちに捨てられて、目を開けた時にはそのことをすっかり忘れている。

 それを、ずっと繰り返していた。

 そして、今思い出したこの事も、きっと今日の夕方には忘れてる。

 ほっと、息をつく。それほどショックは受けなかった。

 むしろずいぶん、気が楽になった。ここまで、くちゃくちゃの頭を抱えているのであれば、もう人生をあれこれ心配する必要は、別にないのだ。

 月日が流れば、流れるほど、私の視界はごちゃごちゃになっていって、最後に待っていたのは、この白く殺風景な病室。

 長い期間で入院と退院をひたすら繰り返す。

 それがわたしの人生。

 神様に見染められた人間としては、まあまあ、妥当な結末じゃないだろうか?

 そう、思わない?

 あれから、お堂を焼かれ、憑代となるべき彼女が逝って、行き場を完全に無くした『やどかり』は、今でも唯一の頼りである私の元に未練たらしくやってくる。

 わざわざまた『見える』ようにしてくれたのは、そのためだ。

 でも、残念でした。

 もう、何もかも手遅れだから。

 今や母も亡くし、この世にたったひとりで残された私に、今更いったい何を期待しているのか。貝殻がないと存在さえできない、か弱き存在。このまま何もしなければ、私の心を削りながら自滅していくだろう。

 あれだけ、やさしくしてもらった彼女の父親も、今では行方が分からない。彼女の家は、元である本家からつながりを断たれた、と風の噂で聞いた。

 お堂の焼け跡も全て撤去されて、今では街の駐車場になっている。 

 私の知っているあの故郷は、もう想像の中でしか残されていない。

 これは、何もかも終わった話なのだ。

 で、後の始末は、この私と、死にかけた『元』神様のふたつだけ。

 そうそう。忘れる前に書いておこう。

 大切なことを、忘れることを、忘れてしまう、その前に。

 どうしても大人になった今の私が、この手紙で伝えたかった事。

 あの子と……新しい家族を入れることに頑なだった、昔の自分に捧げてあげたい、その言葉。


 ほんとはね。

 舞ちゃん、ほんとはわたしも、家族が欲しかったんだよ。

 お父さんの事だって、わがままなんて言わないからさ。今からでも、一緒に暮らさない?

 わたしが気の強い妹で、舞ちゃんが美人の自慢の姉でさ。ちょっと変なものが見えるからって、気にすることない。わたしはちっとも怖くないもの。逆に、美貌に箔が付くってものさ。世間の人はそう見るよ。

 宗教活動だって、身を入れて、ちゃんとやらなきゃね。神様の依代役でもなんでもやるよ。それで、がんがん稼いじゃおうか。

 稼いだお金で、なんでも好きなものを買おう?

 ……お金は、女の子が、健やかで幸せに過ごすのに、すごく大切なんだって、実感するよ。

 わたし達、結構、うまくやれると思うんだ。美人の霊感姉妹って名目で、タレントとして売り出していこう。TVだってバンバン出られるかもよ。

 へーきだって。

 嘘をついてご飯を食べる人は他にもいっぱいいるじゃない。全然、嘘を付くことなんか、怖くないよ。弱い他人を騙して生きるのも、全然平気だから。

 これからは気負わなくていいことを、気負わなくても大丈夫だって。

 罪悪感も、生きる大変さも、わたしが全て引き受けるから。

 だから……。

 …………。

 ……。


 でも、もう言葉は届かないから、この手紙は、ここでおしまい。

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