なつの世界

2.誰もが知ってる夏の世界

「あっ」

 と、思わず声が漏れて、隣に座っている舞ちゃんがこっちを向いた。

 呆然としているわたしを見て、目を丸くして

「どうしたの?」

 辺りには、真夏の光が満ちていた。

「あれってさ。ひょっとしてなんかのイケニエなのかな?」

「へえ、イケニエ?」

 わたしのあまりな唐突な発想に、舞ちゃんは、ぽかんとした顔をしている。

「そ、イケニエ」

 わたしは噛みすぎてボロボロになったアイスの棒を、肩越しに後ろ手で放りなげた。アイスの棒はくるくると回りながら、柳の葉っぱをすり抜けていった。

 目で追っていると、ガードレールの背後に流れている川の上に落ちた。その瞬間、静かな光でいっぱいの川面に、短い光の針が音もなく跳ねた。そして、何事もなかったかのように光の束が照り返してきて、わたしの視界をさざ波のように埋めていく。

 わたしは、目をしばしばさせながら、舞ちゃんに向き直った。

「ほら~、昔話とかでさ。あるでしょ? 村で決まってる入っちゃいけない禁断の淵かなんかで勝手に釣りするような人がいてさ。でも、そこにでっかい蜘蛛が住んでいて、自分の巣に引き込もうとするやつ。寝ていると指に糸をつけてくるの」

「えー、知らないよ。なにそれ」

 風が吹いて、頭の上で柳がさらさらと軽い音を立てた。しだれ落ちる細長い若葉は、たっぷりとわたし達を包んで、太陽光線から肌を守ってくれる緑のカーテンみたいになって、揺れていた。

「そうやって捕まえた人を吊り下げているみたい、……って今、知らないって言った?」

「うん、知らない、知らない」

 その親友の反応に、わたしは動揺する。

「え、あれ、聞いたことないの。この話も?」

「うん、初めて聞いたよ。その話」

 わたしは思わず口に手を当てた。

「え! あ、そうか。そういうもんなんだ。てっきり知ってると思った。昔話だとメジャーな方だと思ったんだけど」

 舞ちゃんは、口をとがらせた。

「えー。だったら聞きたい。どんな話なのよ」

 彼女はわずかに身を乗り出す。その拍子に、麦わら帽子を目深に被った額から、夏の光を受けてあめ色に染まった汗が、ついぃ、と流れ落ちる。

 暑い。木陰だというのに、首にかけたタオルがぐっしょりと重くなっていた。

「有名な話なんでしょ? 教えてよ、さつき先生?」

 困った。わたしだって、かなり適当な記憶でしゃべったのに。救いを求めるように視線を逸らしたけれど、炎天下の農業用道路を大きなアゲハ蝶が一匹、飛んでいくのが見えただけだった。

 舞ちゃんはさらにぐっと身を乗り出してくる。

「……えーと、……どうやって話そう」

「いいよー。さつきのペースで話してみ?」

 変な汗が噴き出している。気が付いたら、田んぼの土の匂いを吹き込んでいた風もやみ、それに伴って、擦れあっていた葉っぱたちも、まるでわたしのセリフに耳をそばだてるかのように、その甘く透明で繊細なささやきを止めてしまった。

 わたしは、喉を鳴らす。

「……

『昔むかし、ある村の近くには、誰にも近寄らない川の淵があった。ある日恐れを知らない男が、そこで釣りを始めてしまう。

 面白いように魚は釣り針にかかったが、ビクがいっぱいになったところで、男はつい転寝をしてしまった。

 するとどうだろう。川から這い出てきた一匹の、小さな、とても小さな蜘蛛が、寝ている男の脚の小指に糸を巻きつけはじめたではないか』……」

 緊張なのだか暑さのせいなのだか。急に吹き出てきた汗のせいで、ずれおちてきた自分の眼鏡。それを直すふりをしながら、彼女の反応を片目で伺い、

『ホントに綺麗な顔だなあ』って。

 そんな、お話とは全然関係のないことを考えていた。

 

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