転章

第13話

 天空を覆う暗雲に、巨大な眼が浮かび上がっていた。狂気に血走った、邪悪な双眸。それは、女の胎内に宿った魔王の眼か。

 今、その邪悪なる双眸は地上を睥睨し、倒れ伏した神の使徒を嘲笑していた。

 剣を折られ、力尽きた桃太郎は、鬼ヶ島の砂に身体を半ばうずめるようにして横たわっていた。

 気を失っているのか、動く気配がない。

 そんな桃太郎を、天魔王は哀れむような眼で見ていた。

 この程度なのか、神の使徒よ、桃太郎よ!

 暗黒の鎧に包まれた天魔王の足許には、砕け散った桃太郎の剣が散らばっていた。

 貴様と戦うために、俺はこの世に生まれて来たのだぞ。さあ、立て。立って、もう一度俺に向かって来い。

 だが、桃太郎は動かない。

 天魔王は、肩を落として桃太郎に背を向けた。

 もはや、天より雪崩れ落ちる暗黒の滝はなくなっていた。桃太郎が倒れた瞬間に、その怒濤はとぎれたのである。

 そして、今度は逆に魔法陣から凄まじいまでの妖気が噴き出してきていた。

 魔法陣の中心には、口から幼児の手を生やした全裸の女が、白眼を剥いて気絶している。

 桃太郎の母親である。

 妖気は、この女の白い身体から噴き出してきていた。

 じきに、この島を中心にして、妖気が渦を巻き始めるだろう。

 そして、それはやがて激流と化して、この地上を席巻する。

 全ての生命を断ち、あらゆるものを腐らせる魔界の風。それをくい止められる者は、もはやいない。

〝落胆したようだな、天魔王〟

 地獄の底から響いてくるような声が、女の身体の中からした。

 魔王の声だ。

「い、いえ。そんなことは――」

〝隠す必要はない。貴様の心の動きなど、手に取るようにわかるわ〟

 魔王が笑っている。

「確かに――。しかし、それもここまでです。神の使徒は倒れました。あとは、鬼門を開くのみです」

〝本来の目的に戻るというのだな〟

「はい」

〝よかろう〟

 天魔王の言葉に満足したのか、天空の巨大な眼が、ニッと笑った。

 その途端、今まで以上の妖気の風が、鬼ヶ島から吹き上がった。

 地上の大気が、魔界のそれに取って代わられるのも時間の問題のように思われた。


 桃太郎は、闇の中にいた。

 ここは何処だろう。

 辺りは漆黒の闇に閉ざされ、何も見えない。自分がどの方向を向いているのかもわからない。そもそも、生きているのか?

 それにしても、何という不安定な空間、不確かな事象なのだろう。

 音は視覚に訴え、眼に見えていたものは耳の中で谺する。

 死んだのか?

 そして、桃太郎の心の呟きすら、色と形を伴って辺りで蠢いた。

 ここまでだったのか。

 落胆は隠しきれない。

 犬死にだ。

 そう言って嗤った鉄鋼鬼の顔が思い出される。

 その通りだ。

 所詮、俺には奴等を倒し、野望をくい止めることなど、出来はしなかったのだ。

 少し考えればわかることなのに、神の使徒だの、神の戦士だのと乗せられて…。

 俺には、ここまでが精一杯だったのだ。

〝何故、自分の限界を決めるつけるのです〟

 懐かしい声が見えた。

 吉備の国の森の中で、俺たちを生き延びさせるために、自ら鉄鋼鬼の前に立った狼牙の声。

 すまんなあ、狼牙。俺にはどうにも出来ないよ。

〝弱気にならないで下さい、桃太郎様〟

 天翔か。

〝ここであなたが負けを認めたら、地上は奴等の――異世界の化物の支配する処となってしまうのですよ〟

 しかし。

〝立つのです、桃太郎様。あなたは、まだここへ来てはならないのです〟

 羅猿の声だ。

 しかし、剣も折られた。恐らく身体中の骨も砕けていよう。よしんば立てたとしても、もう、俺には何もできない。

〝あなた様には、我々がいます〟

 と狼牙。

〝そうです。我等は一心同体。――さあ、立って下さい〟

 これは天翔だ。

 しかし。

〝我等を信じて下さい〟

 そうか。そうだよな。ここまで来れたんだものな。お前たちのおかげでな。

 俺がここで立たなきゃ、地上は魔界と化してしまう。立っても、俺がくい止められる可能性は無に等しい。でも――

 急速に、周囲が明るくなっていく。

 視覚と聴覚ももとに戻り、桃太郎は自分の身体が浮き上がっていくのを感じた。

 そして、眼を開いた。

「――!?」

 天魔王は、桃太郎の生命の息吹を聞いた。

 そして、嬉々として振り返る。

 桃太郎が、砕けた剣の柄を手にして、立ち上がろうとしていた。

 来るか、桃太郎。

 それでこそ、神の使徒だ。

 天魔王の顔が嗤っていた。

 歓喜に打ち震えていた。

「そうだよな。ここで立たなかったら、全てが無に帰してしまうんだよな。それこそ、犬死にだ」

 桃太郎が呟いている。

「だから、俺は立つんだ」

「いい根性だ、桃太郎。――だが、そんな折れた剣でどうするつもりだ?」

 天魔王が嗤う。

「剣は、あるさ」

「なに――!?」

 ゆっくりと、そして力強く、桃太郎が右手を天にかざした。

 その瞬間――

 手の中の剣が眼も眩まんばかりの輝きを放つのを二人は見た。

 そして、おお!

 天魔王によって握り潰され、地上に散った剣の破片が、その光目指して集まって行くではないか!

 何という奇蹟。

 なんという光。

 そして光がおさまったとき、桃太郎は傷ひとつない青龍剣を構えていた。

 同時に、身体の痛みも消えていた。

「来い、天魔王!」

「おお!」

 天魔王が疾る。

死に向かって。

 その手には、巨大な漆黒の剣が握られていた。

「狼牙、天翔、羅猿。――俺に力を貸してくれ。そして――」

 桃太郎も地を蹴った。

 光と闇、聖と魔が交錯する一点に向かって。

「我とともに剣をとれ!」

 次の瞬間、天より振り下ろされる暗黒の怒濤を弾き飛ばし、桃太郎は返す刀で、天魔王の身体を鎧ごと真っ二つに切り裂いていた。

 絶叫。

 と、同時に、その身体からも凄まじい妖気が噴き上がる。

 そして天魔王の身体は、霧のようになって空中に散っていった。

 残るは――

 桃太郎は、ふらふらと女のそばに歩み寄っていく。

 母さん…。

 もうじき、もうじき終わるからね。

 そのとき、不意に桃太郎は気づいた。母親の口から生えていた手が、いつの間にか消えていたのである。

 しかし、口は限界まで開ききったままだったので、桃太郎は不審に思い、その中を覗いてみた。

 中には、暗黒が広がっていた。

 永劫の暗黒、無限の宇宙。

「そこにいるのか、魔王」

〝ああ〟

 応えはすぐにあった。

 声は、直接脳裡に響いていた。

〝天魔王を倒すとはな、やってくれる〟

「安心しろ、次はお前の番だ」

〝来るかね、ここへ〟

「行くさ。これ以上、悲劇を繰り返させぬためにな」

 桃太郎がニッと笑った。

〝ならば来るが良い。女の口に手を当てろ。魔界へ招待してやろう〟

 桃太郎が、言われたとおり母親の口に手を当てる。

 さよなら、母さん。お元気で。

 瞬間、桃太郎は身体が引かれるのを感じた。

 そして、光が爆発した。

 神の光は広がり続け、数秒後には島全体を包み込んで消えた。

 その光がおさまったとき、瀬戸内海から鬼ヶ島と呼ばれた島はその片鱗すら残すことなく消え去っていたのである。

 そして、神の光によって浄化された漁村の砂浜に、一人の全裸の女が打ち上げられていた。

 そのことを人々が知るのは、それから数時間後のことであった…。

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