第2話
異次元の世界より召喚された魔物たちと渡り合える術を持たぬ人間どもなど、彼等妖魔にとって、非力な虫けら以下にしかすぎなかった。
親兄弟が、妻や子供が自分の眼の前で化物に喰われようとも、人々は泣き叫び、恨み言を言い、逃げ回り、そして、やがて自分も喰われるしかないのだった。
あっけなかった。
この村が血の海に沈むのも時間の問題であろうと思われたそのとき、一匹の妖魔が、必死で逃げる一人の女の姿を見つけた。
見かけはみすぼらしかったが、美しい女であった。
長い髪は麻紐で束ねられ、背中で激しく揺れている。少し頬がコケ、肌の色が透き通るように白かった。
それが、かえって人に幽鬼の如き印象を与え、美しさをより一層ひきたてていた。
その女は、泣きじゃくる赤ん坊を抱きかかえていた。
だからこそ、必死になって迫り来る魔手から逃れようとしているのだった。
けなげだと邪眼は思った。
そして、女は強いものだとも思った。
しかし、そう思っていて同時に、妖魔たちにその女と赤ん坊を殺すよう命じていた。
「必死になって生き延びようとするものの姿は美しい。が、それ以上に美しいのは死の直前の魂の輝きだからな」
とでも思ったのかもしれない。
化物たちは邪眼の命を受け、徐々に包囲の輪を狭め始めた。
まるでなぶるかのように。
女は化物たちが嗤うのを見て、狂ったように叫び、それでももつれる足を前へ前へと出して逃げた。
逃げ続けた。
女は直感的に悟っていた。
こいつらが私を喰わないのは、弄んでいるからだと。
だが、それでも、足を止めるわけにはいかなかった。
止まったら死ぬ。せめて我が子だけでも助けたい。
その想いが、彼女を信じ難いほど凄絶な状況の中で生き長らえさせているのだった。
どれくらい走っただろう。
正面に、森が見えてきた。そして、その手前には川が右から左へと流れていた。
わりと幅のある、流れの急な川だ。橋は残念ながらこの近くにはない。
飛び越えることは不可能だ。ならば、この身ごと水の中に。
そう決心したとき、左足が何かに引っかかり、彼女は大きくよろめいた。その拍子に、胸に抱いていた赤ん坊が宙に舞う。
その瞬間、彼女は自分の中で何か決定的なものが弾けるのを感じた。
女は狂った。
我が子に程なくして訪れるであろう残酷な運命を覗いてしまったためだろう。
もはや、自分の足首を掴んでいるのが地面から生えた化物の手だということも、自分のまわりを血に飢えた魔獣が取り囲んでいることも、彼女にはわからない。
ただ、焦点の合わない眼を虚空に向け、だらしなくよだれを垂らしながら笑うだけである。
赤ん坊は川に落ち、その急な流れにもまれながら、決して水底に沈むことなく川を下っていた。
それは奇蹟といえたかも知れない。
しかし、本当の奇蹟はその後に起こったのだ。
泣きじゃくりながら川を下る赤ん坊に、突如、天より妖魔の別働隊が牙を剥いて襲いかかる。
その数、一〇匹。それこそ、ただ泣くしか能のない赤ん坊など、ひとたまりもなく喰い殺される筈であった。
しかし――
おお!?
遥かな島でこの光景を見ていた邪眼を、まばゆいばかり光が灼く。
その輝く光の中、そいつは見た。
まるでコマ落としのように映像が動く。
赤ん坊に襲いかかる妖魔たち。
泣き叫ぶ赤ん坊。
突如、その小さくもろい存在が白光に包まれる。
絶叫が脳裡を揺さぶる。
これは妖魔たちの断末魔だ。
光は爆発的に拡大し、空中にいる化物にも迫り、やがて音もなく包み込む。
光に包まれた瞬間、化物たちの手が、翼が、そして足が、さらさらとした白い粒子と化して崩れ落ちていく。
塩だ――
遠く鬼ヶ島で邪眼は悟った。
まさかあの光は、遥かな昔、ここより遠く離れた地にあった古代都市を滅ぼした神の光だというのか。
やがて不意に映像が途絶えた。
赤ん坊に群がっていた妖魔が全滅したためである。
邪眼は、妖魔たちに帰還命令を出した。
何ということだ。
すでに神が動き出していようとは。
奴らは、我が動きを察知して、神の戦士をこの地上に送り込んできたのか!
ならば、早急に手を打たねばならぬ。
奴が真に神の戦士であるなら、赤ん坊の時に叩いておくべきだ。
さもなくば、我が計画は全て水泡と帰してしまう。
だが、我は動けぬ。
我を封じ込める閉ざされた空間を打ち破らねば、我は動けぬのだ。
しかし、このまま奴が成長するのを見過ごすわけにもいかない。
だから、奴を殺す。
そのためにも、奴に対抗し得る力を持った戦士を生み出さねばならない。
そのくらいのことなら、今でも出来る。
見ているがいい、神よ。貴様等の送り込んだ神の戦士を倒し、必ずや復活してみせる。そして、この世を地獄と変してやろう!
天空に輝く邪眼が、凄まじい嗤いの形に歪んでいた。
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