第8話 脱・原人への道

 その後、Dは生まれ故郷のジャワに残って、自らの夢の実現に向けて、奮闘を開始する。朝は近くの市役所の売店でコーヒーを売り、昼はやはり近所の自動車修理工場で修理工として、夜は遅くまでガソリンスタンドで給油係として、油まみれになって働く、、、こうして、寸暇を惜しんで働き、自ら手にしたお金で、自分の修理工場を持つというのが、Dの新しい夢であり、目標だった。

 Dはかつての浅はかだった自分(外人女相手に汗だくで奮闘すれば、自分の自動車修理工場を持つことだって夢じゃないという、甘い言葉を信じた)と決別し、前へと踏み出したのだ。もう二度とあんな考えは起こすまい。二度と。絶対に。そして、これからは、後ろめたさのないまっとうな労働で汗を流し、新しい夢に向かって全力で突き進むのだと、強く心に誓ったのである。その強面(こわもて)の大きな顔に、強い決意をみなぎらせながら、、、

 そんなDの、怖そうだけど力強くてたくましい姿を、物陰からこっそり盗み見る娘がいた。若くて恥じらいのある純真なジャワ娘だ。ついに、原人の姿ではない、ふつうの青年の姿のDに、恋心を寄せる娘が現れたのだ。

 彼女の出現は、Dの生活に安らぎと活力をもたらした。自らの自動車修理工場の回転のメドがつき次第、その娘を嫁に迎えようと、Dは心に決めた。そして、いっそう奮闘した。が、じっさいは工場の開店を待つことなく(自前の工場開店への道のりは長いらしい)、彼女とつき合い始めて1年半後の2014年3月めでたくゴールイン(結婚)した。

 

 じつは、Dはジャワ娘とつき合い始めた頃、バリにいるダンナに、こんな話をもちかけていた。それは、ジョイント(お金を出し合って)で、自動車修理工場を共同経営しないか、つまり、ジャワに来て、いっしょに自動車修理工場をやらないか、という誘いである。どうやら、ジャワ娘との結婚を意識して、早く自前の工場を持ちたいと急いだDが、バリでの生活への不満、愚痴を口にするダンナにジャワに来て、住むことを勧めたらしかった。

 これはあくまで私の想像なのだが、ダンナがDにこぼしていたのは、こんなことではないかと思う。バリで借りている店(絵を売る)の家賃が高くて維持するのがたいへんだとか、家庭内で孤立していて孤独だとか、日本人の奥さん(=私)は人間ではなくモンスター(?)だとか、、、もちろん、そんなやりとりがDとの間であったことは、私にはまったく何も知らされていなかった。

 で、あるとき、ダンナは私に、いかにも重大な決意を口にするというような面持ちで、こんなことを言い出した。

「オレはジャワに行って、Dといっしょに自動車修理工場をやろうと思っている。Dから誘われて、それもいいかなと考えた。バリで高い家賃を払い続けて、絵を売る店をやるより、そっちのほうが生活は安定すると思うし、あっちは宗教がイスラムだから、年をとってからも住みやすいんじゃないかと思うんだ、、、」

ダンナのこの言葉を耳にしたときの、私の最初の感想は、「いきなり、何を言い出すんだ、この人は???」という驚きだった。ダンナの中ではすでに煮詰まった決意なのかもしれないが、私にとっては初めて聞く話だったので、????となり、ダンナの真意を測りかねた。しかし、とりあえず、率直な疑問として、

「それは、バリとジャワを行き来するということ? それとも、ずっとジャワにいるっていうこと?」と、たずねると、これに対するダンナの答えは、

「ジャワにずっといるんだ。そこでゼロからやり直そうと思う」

これで、ますます私は????となり、しばらく押し黙った。このとき、私の頭の中には、「これは、私にいっしょにジャワに行こうという意味なのか、それとも私と別れて誰か(ほかの女)とやり直すってことなのか、それとも私に、行かないで~と、言ってもらいたいがために、ちょっと言ってみただけのことなのか、、、」などなど、いろいろな考えが渦巻いた。でも、まあ、少し冷静になってみると、これはよくある、ダンナの「病気」だろうということに考えが落ち着いたので、過敏な反応はせず、「へぇ~、 そんなこと考えているんだ」と、さりげなく言葉を返すだけにした。

 というのも、以前にもこれと似たようなことがあったからだ。「ジャワに住む」と言い出す前、ダンナが言い出して、ひと騒ぎになったのは、「ギリアイルに住む」だった。これは、A氏からぜひ来てくれと誘われていたためでもあったが、あのDがあんな体験をできるなら、オレだって、まだイケルかも、、、と妙な気を起こしたからに違いなかった。

 あのときのダンナも、やはり一大決心をしたという様子だった。が、まだ「行ってみたいが、どう思う?」という調子で、私にお伺いを立てるという雰囲気だった。そう言われた私の方は、もちろん困惑した。行かせるべきか。引き止めるべきか。で、ダンナがうちにいて助かること(うちのセキュリティーとか重たいものの運搬)と、ダンナがうちにいないことで得られるメリット(気楽さ、淀みのない空気)とを秤にかけてみると、いないことの方が断然、好ましいという結論に達した。なので、「そんなに行きたいのなら、試しに何ヶ月か住んでみれば、、、」と’答えたのだった。それでも、何ヶ月もの間、完全に好き放題にされるのはどうかと思ったので、「向こう(ギリアイル)で売れそうなものをこっち(バリ)で仕入れて、持っていき、向こうで売るなどして、少しはうちにお金を入れる。1,2ヶ月に一回くらいは帰ってくる」というルールもつくって、準備を整えた。

 そして、「今か、今か」とダンナの出立を心待ちにしたのだが、、、結局、ダンナは行かなかった。

「なあんだ。行かないの~、どうして行かないの? あんたが行きたいっていうから、行ってもいいよ、とやさしく背中を押してあげたのに、どうして???」というのが、私の心の声だった。しかし、考えてみれば、私の態度(いかにもウキウキしてうれしそう)に、自分がうちからいなくなることを私が望んでいるらしいと感じとったダンナが、そうは問屋が卸さないと、出立を取りやめ、うちに居座ることで、一矢を報いたのではないかと勘ぐったりした。

 なので、ダンナがジャワに住みたいと言い出したときは、私は慎重に行動することにした。ダンナをジャワに行かせる(私はダンナをジャワに行かせたかった)ためには、うれしそうな態度はこれっぽっちも見せずに、「お願い、行かないで~」と引き止めるような行動に出たほうが、逆にダンナの行きたい気持ちを刺激するのではないかと考えたのだ。しかし、役者でもない私にそれほど大げさな演技はできないし、心にもないことを口にするのにも抵抗があったので、「ええ~、行っちゃうのお~(寂しい、、、)」のくらいの表現にとどめて、ダンナの様子を見ることにしたのだ。

(このとき、私は子どもたちにも意見を聞いてみた。「お父さん、ジャワに行って、向こうに住むんだって。で、バリには戻って来ないって言ってるけど、どう思う?」すると、ふだん末っ子で可愛がられている娘の方は、「お父さんがそうしたければ、そうすればいいじゃん。でも、離婚するなら、私が高校を卒業してからにして、恥ずかしいから」と、けっこう手厳しい意見。一方、ふだん男同士で反発することの多い息子の方が「ママ、それって、引き止めてほしいってことじゃない。引き止めてあげなよ」という意見だった。

 で、結果は、、、やはり、ダンナは行かなかった。

「ええ? これはどういうこと? 今回は前回の失敗を教訓にして、それなりに気を回し、行きやすいムードをつくってあげたのに???」というのが、私の心の声。まあ、でも考えてみれば、ダンナがギリアイルに住みたいというのも、ジャワに住みたいというのも、真に受けた私がバカだった、ということに尽きるのではないか。おそらく、ダンナという人間は、人から来ないかと誘われると、そっちの水の方が甘いような気がして、心を動かされる。で、行ってみようかと真剣に考える。そして、「行きたい」とか「行くことにした」と私に告げる。(私に告げるのは、私の反応を見るため、、、というのはあると思う。自分が必要とされているかどうかを確認する意味もあるのだろう)しかし、私の反応がどうであれ、じっさいには行くだけの強い意欲などないのである。あるいは、ダンナはダンナで、行く行かないを天秤にかけてみて、その結果、出る結論が、毎回、行かないになるとか、、、

 でも、まあ、どちらにしろ、こんなふうに「人をよろこばせておいて、そのあとがっかりさせる」ことを繰り返すダンナ(あるいは父親)を見つめる家族の目が冷たいことに、ダンナ本人は気づいていないのだろうか。まあ、気づいていないから、性懲りもなく繰り返すのだろうけど、、、私はあらためて自分に念を押した。「ダンナのいうことを真に受けるな」と。

 結局、あんなに思いつめた様子で決意表明したにもかかわらず、ダンナがジャワに移り住むという話は、消えてなくなった。でも、これには、私の作戦(「行かないでと引き止めるフリをして、行かせる)の効き目のあるなしに関係なく、その裏にはこんな理由があった。

 Dからの誘い(ジャワに住んで自動車工場を共同経営=ジョイントする)に、ダンナは当初、大きな興味を示していた。(ダンナはてっきりDと二人だけのジョイントだと思って込んでいた。「ジャワに住む」という決意を私に告げたのもこの頃である)しかし、後になって、このジョイントに名乗りを上げるもう一人の人物がいることをDから知らされる。で、この第三の人物が誰かというと、Dが毎朝コーヒーを売っている市役所のお偉いさんで、謹厳実直そうなまさに公務員といった感じの人、、、)

 Dはじっさいにその人を連れて、わざわざバリの我が家までやってきた。その人をダンナに引き合わせ、ジョイントの大枠を話し合うためである。Dはその人を「自分のボスだ」と紹介した。その人は、髪をきっちりと七三に分け、インドネシアの男性が正式な場に出るときに着るバティックシャツとスラックスを身に付けていた。一方、ダンナの身に付けているいるのもといったら、前の日から着たままの絵の具の付いたTシャツと穴のあいたジーンズ。伸びた髪の毛先の方に脱色して金色になった部分の残っているぐしゃぐしゃの髪、、、

 この二人の対照的なことといったら、まるで絵に描いたような両極端。どう見ても、噛み合う組み合わせじゃないだろう、というのが私の直感だった。しかし、私自身は、このジョイントには関知しない立場だったので、彼ら(D、Dのボス、ダンナ)の間で、このあと、どんな会話が交わされるのか、それにはまったく興味がなかった。とはいっても、あまりにも愛想のない奥さんだと思われるのもナンなので、途中、お茶を出すなどして、このジョイントがうまくまとまるといいですね、みたいな感じで、愛想よく振舞ったりはしたのだが、、、案の定、このミーティングを機に、あれほど思いつめていたダンナのジャワに住みたい熱が、傍らの私にもはっきり感じられるほど、さっと冷めたのだった。

 ダンナにしても、第三の人物がいるとかわった時点で、雲行きに不安があったに違いない。でも、まあ、会ってみるまでは、という思いもあって、じっさいに会ってみた。で、その結果、、、不安は的中。ああ、これじゃない、自分が思い描いていたジョイント(ジャワでの新生活)は、、、となったのではないかと思われる。

 それでは、第三の人物が現れる以前に、ダンナが思い描いていたジャワでの新生活がどんなものかというと、たぶん、こんな感じだ。Dとのジョイントで小さくて簡素な自動車修理工場をつくる。自分はメカのことはわからないので、車の修理はすべてDに任せる。で、ダンナ自身は何をするかというと、お客さんと適当に世間話などをして、その日その日を気楽に過ごし、工場の売り上げから、いくらかいだだく。それから(ここからが、ダンナの夢がふくらむポイントなのだが)、一人寝は寂しいので、若くて気立てのいい贅沢をいわないジャワ娘を嫁にもらって、身の回りの世話を任せる。(日本人の奥さんとは離婚してもいいし、奥さんが離婚を望まない場合は、第二婦人としてジャワ娘を迎えてもいい。一夫多妻を認めるインドネシアでは、法律上4人まで奥さんを持てることになっている。でも、その場合は、奥さんの同意が必須となる)

 そして、慎ましいけれど平穏に暮らし、イスラム人としての生涯を全うす、、、Dと二人だけのジョイントなら、こうしたことが可能だ。

 しかし、ジョイントに第三の人物(実直型)が加わるとなると、状況はまるで変わる。自動車修理工場の経営は、ビジネスとして、利益の追求に重点が置かれるだろう。出資の割合、役割に応じた利益の配分が厳密に決められるだろう。そうなると、そこに見えてくるジャワでの日常は、ダンナの望む新生活からは、遠くかけ離れたものになる。当初、思い描いていたような、昼に起きてきて客の相手をするだけで、ちゃっかり取り分だけはいただく、、、というお気楽な立ち場ではなくなるのは明白だった。

 そう。つまり、これ(第三の人物の登場)が、ダンナのジャワへの移住熱を一気に冷え込ませた原因だった。(「まあ、そもそも考えることが甘いんだよ」というのが、私の心の声)

 とはいっても、ダンナは3者会談の席で、即、ジョイントへの不参加を表明したわけではなかった。わざわざバリまで足を運んでくれたDに、「やっぱり抜けるよ」とは簡単には言い出せなかったようで、「一度ジャワに来て、自分の郷里の様子をみてくれ」と、熱心に誘うDの熱意を突っぱねることができなかったのだ。Dとボスがジャワに帰ったあと、「ジャワに行かないとなあ、一回くらいは、、、」と、テンション低めの声でつぶやいていた。

 しかし、じっさいにはなかなか腰が上がらず、伸ばし伸ばしにしているうちに、Dの結婚式の日取りが決まった。さすがに、結婚式には絶対に来てくれと、Dから念を押されていたようで、結婚式の何週間か前になると、いついつにDの結婚式があって、ジャワに行かなきゃいけないんだけど、交通費(バス代)もかかるし、お祝いも持ってかなきゃいけないし、ああ、どうしよう、、、とかなんとか、ダンナが騒ぎ始めた。「それって、お金の無心ですか?」とも見て取れる言動だったので、こちらからは積極的に関わることは避け、しばらく放っておくことにした。これまでだって、行く行くと言って行ったためしはなかったから、今回もどうせ行かないだろうというのが、私の予想だった。ところが、Dの結婚式の前々日になると、ダンナはそそくさと旅行かばんに着替えなどを詰め込み始めて、今晩のバスで出発すると言い出した。

 ヘ~ ほんとに行くんだ。口でいうだけかと思ったら、ほんとに行くんだ、、、そう思ったら、何だか妙におかしくて笑いがこみ上げてきた。しかし、はっと我に返り、ほんとに行くとなれば、私からも少しくらいはDにお祝いを包んで、ダンナに持たせなければなるまい。うちも生活に余裕があるわけではないが、Dのお父さんの入院費用も出さなかったし、Dのことをネタにして、こうしてすき放題のことを書いているんだから(この文章のこと)、結婚祝いくらいはケチケチせずにば~んと出してやろうではないか、という考えがひらめいたのだ。しかし、そうひらめいたわりには、いくら包むかでうじうじと悩む私だった。30万ルピア(約3000円)か、50万ルピア(約5000円)か、どっちがいいだろう? 30万では少ないような気がしたし、50万では多いような気がした。じゃあ、その中間で、40万ルピアというのは?

 でも、結婚祝いに4という数字は縁起が悪いんじゃないの、ああ、でも、それは日本でのことでインドネシアではそんなのきっと関係ないだろう、、、と自分を納得させ、この金額に決めたのだった。ば~んと50万ルピア出せないところが、我ながらせこいとは思ったが、たとえ40万ルピアでもインドネシアの物価水準からすれば、もらった方としては、かなりうれしいのではないかと考えたのだ。

 で、ダンナが家を出発する間際になって「これ、Dの結婚祝いだから、持っていって渡してね」と、お金の入った封筒を手渡した。ダンナは「おっ、そうか」と言って、封筒を受け取り、旅行かばんにねじ込んだのだが、、、このとき、一抹の不安が私の心をよぎった。このお金をダンナがDに渡さずに、バス代とかにして、自分で使ってしまうのではないか、という不安である。でも、「でも、このお金、絶対Dに渡してね(自分で使わないで)」と念を押すのも、問題の火種になるかと思ったので、ぐぐっとこらえた。そして、家の前の道まで出て、

「気をつけてね。いってらっしゃあ~い。家の方は大丈夫だから、ゆっくりしてきて~」とダンナを見送ったのだった。

 ダンナのいなくなった我が家に戻った私は、まず思い切り深呼吸をして、首や肩のコリをほぐした。「やったあ、いなくなった」と思うと、知らず知らずのうちに、鼻歌が出てしまうほど気分がよかった。ふだんの私なら、お金のことが気になりだすと(Dの結婚祝いをダンナが使ってしまうんじゃないか、とか)、それがなかなか頭から離れなくて、いつまでもくよくよするのだが、このときは不思議なくらい、お金のことが私の意識から消えていた。

 ダンナが3、4日いないと思うだけで、こんなにも気持ちが軽く明るくなるとは、、、我ながら驚きだった。ということは逆に、ふだんダンナの存在がいかに私の気分を重く暗いものにしているかが、わかるわけでもあった。

(絵描き=自由業のダンナは、自分の店を開けたいときに開け、閉めたいときに閉めている。なので、ダンナがいつ起きて、いつ出かけるのか、いつ帰ってくるのか、という日常の行動パターンが’読みにくかった。そのため、たとえば、ひとりだけのときにこっそり食べようと思って買ったお菓子(スゥイーツ)を「いつ食べるか」という、ささいなことにも神経を使わなければならなかった)

 ダンナのいない家は、いつになく空気が澄み渡り、さわやかな微風が通り抜けていくようにも感じられた。うちって、こんなに気持ちのいい場所だったけ? そうだ、きっと、ダンナがいなくなって、磁場に歪みがなくなり、正常な状態にもどったのだ。これはいい。すごくいい。3、4日とはいわずに、もっと長くこの幸福が続くことを祈らずにはいられなかった。ダンナの話では、行きに1日、結婚式に1日、帰りに1日で、短ければ3日、長くとも4日で、バリに帰ってくるということだった。

 ダンナの磁場から解放されて、ゆったりくつろいでいるのは、子どもたちも同様で、いつもより大きめの音で音楽を聴いたり、ゲーム機の音量を上げたりしていた。こうして、3日が過ぎ、4日が過ぎた。

 そろそろ帰ってくる頃だと思うと、気持ちが沈んだ。お願いだから、このまま帰ってこないでと思う一方で、いつ帰ってくるのか、だいたいは把握しておかなければなるまいとも感じていた。いつ帰ってくるかわからない状況では、おちおち、好きなものも食べていられないからだ。

 ダンナがいない間、私は子供たちと、ピザやスパゲティ、日本食などをデリバリーして、ふだんあまり食べられないものを食べた。ダンナがいるときに、こういうものを食べていると、「そんな高いものを食ってるから、すぐ金がなくなるんじゃないか」というような嫌味をいわれるからだ。でも、ダンナからもらったお金をこれを買っているわけではないのだ。(というか、ダンナからお金もらったことなんてないし)これを買っているのは、私が自分で稼いだお金でなのだ。(うるさい、ほっといてよ)だから、ダンナがいない間は、思う存分、食べたいものを好きなだけ食べる幸せを味わうことができたのである。

 4日目の夜まで待ったが、ダンナは帰ってこなかった。5日目の朝に思い切ってダンナのケータイに電話してみることにした。(ダンナが出発してから、こっちからは3回ほどメールを送っていたが、返事は一度もなかった。ふだんから、こういうことはしょっちゅうあるので、それほど腹は立たなかったのだが、ジャワに無事に着いたという連絡くらいはあるかと思ったので、向こうから何の音沙汰もないというのは不気味だった)

 私は少しどきどきしながら、ダンナの番号を押した。が、つながったかと思ったら、向こうの電源が切れていた。(これもよくあることだが、、、まったく何をしているのだろう、あのオヤジ~ とだんだん腹がたってきた。これは、連絡を取れなくすることで、私をやきもきさせようとする作戦なのか、とも考えた)

 それから間をおいて、5回目くらいにかけたときに、ようやく電話がつながった。そしたら、いきなり日本語で

「は~い、みなさん、お元気ぃ?」という、ダンナの妙に明るく弾んだ声が耳に飛び込んできたので、私は激しく混乱した。えっ、何これ? なんでいきなり日本語なの?(ダンナは日本語も少し話せるが、ふだん私との会話はほとんどがインドネシア語だった)それに、ちょっと、みなさんって、いったい誰のこと? 私と子どものこと? なんで声が異様に明るいわけ? あまりにも疑問が多すぎて、状況の把握ができず、返答に窮したのだったが、なんとか

「ああ、まあ、こっちはみんな元気だけど、なんで日本語使ってるの?」と、言い返すことができた。しかし、ダンナはその質問には答えず、

「いやあ、私は今ね、DさんやDさんの友達と山に来てるの」と、また日本語。

「まあ、それはいいけど、こっちからメールしてもぜんぜん返事がないから、どうしたのかと思って」(私はインドネシア語)

「ああ、ごめん。プルサーなかったの」(日本語)

「そう。それでいつ帰ってくるの? バリには」(インドネシア語)

「あのね。Dさんは私がバリから来たでしょ。すごくうれしいの。だから、帰っちゃだめだって、いうのお」(日本語。しかし、ダンナがしゃべる日本語は、どうしてオネェっぽいのだろう、、、、)

「うん、いいよ。早く帰ってこなくても。でも、だいたいいつ頃なの、帰ってくるのは?」(インドネシア語)

「たぶん、明日の夜、バスに乗るでしょ。だから、うちに着くのはあさっての昼かな」(日本語)

(「ええ、あさって。もっとゆっくりしてくればいいのに」)という言葉が出そうになったが、これ以上会話を続けるのが苦痛になってきたので、

「はい、わかった、じゃあ」というと、

「は~い、じゃあ~ねぇ~」といって、電話が切れた。

 切れた電話を握りしめたまま、私はダンナとのやりとりを反芻した。今のは、いったい何だったんだろう? なぜ、ダンナは日本語使ったのか。ひとつには、自分が日本語を話せるところをまわりの人たちに見せたかった。これはぜったいにある。ダンナのまわりには何人かの人がいそうな気配があった。ふたつめには、まわりの人に会話の内容を知られたくなかった。とすると、なぜ知られたくなかったのか? 奥さんからかかってきた電話なんだから、いつも通りに受け答えすればいいだけなのに。しかも、あの声の明るさ。怪しい。すごく怪しい。奥さんからの電話にいつも通りに出られない事情があったのだろうか、というような疑問が一瞬、浮かんで消えた。

 子どもたちに「お父さん、あさって帰ってくるんだって」というと、「え~ あさって、もうすぐじゃん」と残念そうだった。

 家を出て、7日目の昼に、ダンナは帰ってきた。乗り心地がいいとはいえない夜行バスに10数時間揺られてきたので、よれよれでお疲れのご様子だ。

「お帰り。4日で帰ってくるとかいってたのに、ずいぶん長くいたんだね。ジャワに」と、私がいうと、とがめるつもりで言ったわけではないのに、とがめられたと感じたのか、ダンナはだらだらと長い言い訳をした。

「だってさあ、Dのうちっていうのが、遠いんだ。スラバヤのバスターミナルから2回もバス乗り継いで、さらに半日もかかるんだ。どのバスに乗ったらいいかもわかりにくいし、物売りはうるさいし、変なのがうろうろしているし、すっげえ、たいへんだったんだ」

「へぇ~ じゃあ、Dのうちって、すごい田舎だったんだ?」

「それが田舎でもないんだ」

「じゃあ、町なの?」

「いや、町でもなくて、町のはずれというか、そこに小さいうちがひしめき合うようにたくさん並んでいるんだ」

「へぇ~ そうなんだ」

「でな、Dのうちっていうのが、小さくて部屋がひとつだけで、そのうしろに、小さな台所があって、そのすぐ隣がカマールマンディー(トイレ兼水浴び場)なんだ。で、そこが臭いんだ。こんなところで料理したものは、ぜったいに食えないって思ったよ」

「で、あなたはそこに泊まったの?」

「いや、あんなところには泊まれないよ。すげえ、暑いし。オレは町の方にある安いホテルにとまったんだ、、、じゃあ、オレはちょっと横になるから」と、ここで話は終わりになった。

 翌日、もう少し続きを聞いてみると、Dの結婚式が行われたのは、近所の少し大きめなおじさんのうち。「お嫁さんはどんな人。かわいい人?」という私の質問には「ああ、まあ」と答えただけ。「でも、若いんでしょう?」と聞くと「まあ、若いんじゃないかな」と答え、Dのお嫁さんについては、まるで関心がないというふうだった。「じゃあ、結婚式はどうだったの?」という質問には、「ふつうだったよ」と多くを語らなかった。それでも、しぶとく聞いてみると、ダンナは遠方からわざわざ来てくれた「お客さん」ということで、Dの家族や友達にすごく歓迎され、引き止められ、なかなか帰してもらえなかったらしい。上座に置かれ、手厚い接待を受けたのではないかと考える。

 そんな1週間のジャワ滞在を通じて、ダンナが得た結論。それは、やはりジョイントには参加しないというものだった。どうやら、Dの生まれ故郷は、ダンナの思い描いていた場所とは違っていたらしい。ダンナがどんな場所を思い描いていたかはわからないが、少なくともじっさいに住んでみたいと思う場所ではなかったようだ。まあ、ジャワの地方にいたら、’自分の得意とする英語や日本語をひけらかす機会もないと考えたのだろう。

 ダンナが持ち帰った旅行かばんを恐る恐る開けてみた。汚れ物がぎっしり詰まっているのではないかと思い、ちょっとびくびくしたが、それほどでもなかったので、ほっとした。着るものはDの新妻が洗濯してくれたらしかた。

(Dの新妻はダンナの反応から見て、とくべつ顔立ちのかわいい娘ではなさそうだが、気の利くやさしい娘なのではないかと想像する)

 それから、ダンナの旅行かばんの中身をぜんぶ出しみた。すると、見慣れないものが次々に出てきて、おやおや??? となった。まず、新しいポーチに入った石けん、歯ブラシ、歯磨き粉、、、(これらは自分でコンビ二で買ったものだろう)続いて、オーデコロン、シェービングクリーム、液体の口臭消し、小瓶に入った焼酎漬けの朝鮮人参(少し飲んだ形跡のある)、、、オーデコロン以下のものは、ダンナが自分で買ったものなのだろうか。ふだんダンナはうちにいるとき、自分の体の匂いにはまったく無頓着なのに。(けっこう、うへぇ~っ というような匂いを放っている)それに、朝鮮人参って、何のため?

 しかし、これらのものが意味することについて、私は深く考えないことにした。ダンナの旅行かばんは、うちの玄関に、開けて見てくれ、といわんばかりに置いてあった。ということは、ダンナはこれらのものを私に見られてもかまわない、というか、逆に見せたいと思っているのかも知れない。そう考えると、聞くだけめんどうに思えたからだ。


 ダンナの帰還によって、うちの磁場がまた作動し始め、もとの少し歪んだ磁場での生活が始まった。あの1週間の身軽さを思い出すと、ダンナがジャワへの移住を取りやめたことが残念でならない。

 それにしても、気の毒なのはDだ。ダンナをジョイントに呼び込もうと、あれこれ手を尽くしたに違いない。(なるべく長く引き止めて、機嫌をとって、おだてて、いい思いをさせて、、、これは私の想像だが)しかし、結局、ダンナはジョイントへの参加を断った。 

 それ以来、ダンナの口からDの話題が出ることはなくなった。なので、今Dが何をしているのかはわからない。しかし、がんばり屋のDのことだ。家庭を持ったことで、よりいっそう奮起しているに違いない。(すでに原人ジュニアの一人や二人いるかもしれない)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

原人と呼ばれた男 @ubudbali

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ