彼と女王と恐怖心


彼女の心がゆるやかに恐怖に支配されかけた瞬間、

2人の間を影と、するどい風圧が切り裂く。


穏やかな笑顔の女王の腕に、

分厚い本の背表紙がごう音と共に直撃した。


「う、うわああ!!」


笑顔で絶叫する女王を

ほうけた彼女が見ていると、

強い力で腕を引かれ、

見ていた景色が瞬時に切り替わる。



次にその目に映ったのは、

離れた机の前で腕を抱え、うめく女王の姿と・・

黒いスーツの、頼もしい背中だった。



「ボロウサギにやった本の下巻だ。

返してやったんだから、文句言うなよ?」


鼻で笑って言い捨てると、

振り返って彼はマナミと向かい合う。


「え、すさん、私・・!」


いまだ小刻みに震える彼女の頬には、

静かに涙が伝っていた。


確かに感じた死への恐怖と、

それから解放された安堵あんどの気持ちが混ざり、

涙となってあふれてきたのだろう。


流石さすがのSもいたわるように、

涙をぬぐためにその手を伸ばすー・・


「痛い!!」



訳が無く。



躊躇ためらいも遠慮えんりょも無しに、

思い切り彼女の右耳を引っ張った。


「俺の言う事、

聞いてましたよね?

こういう事にならないため


『離れない』


『何も触らない』


と約束したんですが?


なんで忘れたんですかね?

頭がポテリオデンドロン以下なんでしょうか?

理由があるなら、

10文字以下で3秒以内に答えて下さい。

はい、3,2,1」


一息で言い切った後、

そのまま笑顔でカウントを開始され、

その迫力に負けたマナミは思わず場違いな大声で、

10文字以下の理由を告げる。


「ゆ、油断しました!」


しかし、

その答えは彼のお気にさない物だったらしく、

さらに引っ張る力が強くなった。


「本当に理由を言ってどうするんですか?

約束を破った人が許される発言は、謝罪しゃざいのみです。」


「えぇっ?!

理由を言えって言ったじゃないですか!!」


「ごめんなさいは?」


輝く様な笑顔のSが反対側の耳も引っ張り出し、

その痛みに彼女は白旗しろはたと悲鳴を同時にげる。


「痛い、痛い!!

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさーい!!」


「よろしい。」


ぱっと彼が両手を離した事で、

ようやく解放された彼女は、

涙目で痛む両耳をさすった。


「うぅ・・

ジンジンする・・。」


「こんな所で油断するとは、

いい度胸してますね。


無いとは思いますが。


・・また同じ事をしたら、

今度は最高の福耳になるまで引っ張ります。」


いいですね。


と笑顔でげるSからただよ物騒ぶっそうな気配に押され、

マナミは青褪あおざめた顔で何度もうなづく。


(女王の笑顔より怖い・・!)


彼女が内心でそう呟き涙をぬぐっている所で、

痛みから回復した女王が腕をおさえたまま、

わめらしだした。


「痛いよう!ひどいよう!

オイラの腕、怪我けがしちゃったよぅ!!


新しい友達がやった!いじめたんだ!!」


黒い涙を流し、

輝くような笑顔の女王が泣き叫ぶと、

彼女はSの背後に素早く身を隠し、

彼は盛大に舌打ちする。


わめくんじゃねぇよ。

消してやるから掛かって来い。」


早くしろ


と女王をかす彼の姿は、

やはりマナミの目には悪役にしか

見えなかった。


(やっぱり、複雑だ。)


こっそり溜息をつく彼女の耳に、

ずる、と布を引きる音が聞こえる。


そこで女王が動いたのだと気づき、

マナミは警戒を強めて前を見た。



だが、

目に映った女王は明らかに後退あとずさっていて、

彼女は拍子抜ひょうしぬけしてしまう。


なお後退あとずさりをしながら、

女王はおびえた声で言った。


「そ、そんなの無理だよう。

オイラ、ケンカは嫌いなんだ。


た、ただ姫や友達と手をつないで、

遊びたいだけなんだよぅ・・。」


徐々じょじょに弱々しくなる声音と態度に、

マナミは完全に同情してしまう。



しかし、

やはり彼は違った。



「テメェと遊びたい奴なんて、

いる訳ねぇだろ。


分不相応ぶんふそうおう妄想もうそうしか出来ない頭なら、

たたき割って正気に戻してやる。」


頭出せよ。


と、女王に向かってすごむ姿は、

他に大勢の人がいたとしても

満場一致いっちで悪人だと言い切れる物である。


流石さすが可哀想かわいそうになってきた彼女は、

遠慮えんりょがちにSの背に声を掛けた。


「あ、あの。


そんなに、

乱暴にしなくても・・。」


「はい?」


物凄ものすごく不機嫌な声を返され

思わず肩が震えたが、

それでも負けずに先を話し続ける。


「あの人、見た目は怖いけれど、

今まで襲ってきませんでしたよね。


『手をつなぎたい』


『友達が欲しい』


って、言ってるだけで。


邪魔しないように説得して、

逃がしてあげてもいいんじゃないですか?


何だか、

可哀想で・・。」


「本気で言ってるんですか?」


最後まで言い終える前に、

彼から刃のようするどい響きを持って、

言葉が放たれた。


彼女を見下ろす目はひどく冷たくて、

明らかにSが怒っているのがわかる。


「冗談でも、

言っていい事と悪い事があります。


を痛めつける所を見るのが、

そんなにお嫌だと言うのならば。


・・貴女あなたを気絶させて、

意識の無い間に始末しまつしますが?」


どうします?


そう、

絶対零度の視線と氷の声に射抜いぬかれ、

マナミは完全に動けなくなってしまった。


固まる彼女を余所よそに、

2人のり取りの一部始終しじゅうを見ていた女王が。


無邪気なのか、

芝居なのか判断しにくい、

どこかはしゃいだ仕種しぐさで言う。


「ありがとうねえ、姫!


オイラを守ろうとしてくれるなんて、

姫はなんて優しいんだろう!


姫、オイラと友達になって!

一緒に毎日楽しく遊ぼうよう!


だから手、手を。」


そのままローブを引き

近づいて来ようとした女王の歩みを、


うるせぇよ。」


と、

彼は低い声をたたきつけて止めてしまった。


体と視線を女王に向き合わせ、

胸の前で両腕を組んだSは、

殺気と嫌悪けんおの混じった冷たい声で言う。


「初めからずっと孤独な奴に、

さびしい』なんて感情は無い。

さびしくない』経験がないからな。


・・それを『知ってる』って事は、だ。


少なくとも1人か2人は、

側にいた物好きがいるって事だよな?


それなら」


そいつらは、何処どこだ?


静かに響いた彼のこの質問に、

部屋の空気が固まった。


それでもSは気にせず、

そのまま先を続ける。


「言ったよな?

『仲良しの友達は手をつなぐ』って。


・・見てきた場所には、

人の気配けはい欠片かけらも無かった。


離れた部屋や、

館全体の気配けはいも一応読んだが、

全部テメェらの気配じゃきだけだ。


今、

この現時点げんじてんで読んでみても、

普通の人間の気配けはい何処どこにもない。


相手が自分にとって親しい友人なら・・

見た目が化け物だろうと、

こんな危険な場所に置いていく奴はいないはずだ。


なら、

その手をつなぐほど仲の良い友達とやらは、

何処どこにいる?


・・いや。」



何処どこへ、やりやがった。



うなり声を上げるように、

低い声で彼は言った。


語られた内容の意味にマナミが気付いた時ー・・

女王の浮かべる笑みが、にぃんまりと深まる。



その途端とたん

部屋の中の空気がひどく重たく、

よどんだモノへと変わった。



その変貌へんぼう戸惑とまどう彼女の目に映るように、

女王は片手でつかんでいた物体をかかげ、

心底嬉しそうに、澄んだ少女の声音で言う。


「オイラはねえ、

暖かくて柔らかい手が大好きなんだあ。


でも、

手をつなぐとみぃんな固まって、

冷たくなっちゃうんだよぉ。


・・だからこうして人形や、

ぬいぐるみにしてるんだけどねぇ。」


興味を無くしたように不気味な手が離されると、

あわれな異物は


べちゃり、


と音を立てて落下し、

溶けて水たまりのように広がった。


ゆらゆらと、

ただ水面みなもに女王の顔を映すさまは、

一見いっけん、殺意に煮え立つコールタールに見えたが。


一方で、

悲しみに流れゆく黒い涙にも見える。


「話さないし動かないから、

ちっとも面白くないんだぁ。


・・やっぱり、

暖かくて、柔らかい手がいいなぁ!


オイラを掴んだ優しい手と、

温かい心が冷えて固まってねぇ!

硝子の棺ショーケースに入った白雪姫おにんぎょう

変わっていくその様子が・・


オイラ、

最高に大好きなんだぁ。」



にたぁり、


と、

どこかうっとりとよどんだ笑みを浮かべる顔は、

おぞましい悪意そのもので。



彼女はそれを目の当たりにして、

この女王という存在を

Sが警戒していた理由を本能的にさとる。


(これは、

関わってはいけない


悪霊とか、


化け物とか、


そんな甘い物じゃない!

もっと別のだ!)


そう確信したマナミは、

目の前の背広をしっかりとつかみ、

強く唇を閉ざした。


静かな狂気と暗い気配が混ざり合い、

腐臭ふしゅうにも似た空気がただよう中、

それでも彼は変わる事無く全てを鼻で笑って済ませ、

動じずに強い口調で言う。


「やっと本性表しやがったな。

まぁ、あれだけヘラヘラ笑ってれば、

何か隠し事がある事ぐらい誰でも気がつく。


テメェの目は・・笑ってるように見せかけて、

全てを見下みくだしてるからな。」


Sは両腕をほどくと、

ポケットから厨房ちゅうぼうで手に入れた小瓶こびんを取り出し、

女王に見せつけるように軽く振った。


「この液体が体に触れると、

溶けて消えるんだろ?


その面は見きたが、

テメェがどんな風に溶けるか

興味あるんだよな。


・・それじゃ、

さっそくに取り掛かるか。」


対象を見るその目は好奇心に満ちているが。


・・その奥に宿やどる光は、

無機物を見るようにどこまでも冷たい。



そんな視線を向けられてもなお、

女王は変わらず笑顔を浮かべたまま、

無防備に両腕を広げてみせた。


「いいよぉ!

新しいお友達が遊びたいなら、

オイラ、付き合ってあげるよぉ!


・・でも、ごめんねぇ。


その中に入ってるの、

ただの水だから無駄むだなんだぁ。」


満ちた悪意を隠そうとしなくなった異形は、

子供が遊びを誘う声音で楽しそうに告げる。


「え・・?」


戸惑とまどいつつ用心深く女王を注視ちゅうししていたマナミは、

その言葉に小さく動揺どうようの声をらしてしまった。


その中に絶望の響きが混じるのを

正確に読み取った女王は、

よくできた自分のおもちゃを自慢じまんするように、

くすくす笑いながら言う。


「当たり前でしょお?

ここは、オイラ達の狩場あそびばなんだよぉ。

ここを造ったモノが、

自分に不利な物を置く訳ないでしょお?


・・それはぁ、

舞台を楽しくするための小道具なんだぁ。」


言いながら可笑おかしくなってきたらしい女王は、

顔をゆがめ、腹をかかえながら大声でわらった。


「オイラ達が、もっと遊びたいなら、

それで溶けたして先に行かせるんだぁ!

そうすればミンナ、遊べるからねぇ!


でも、少しでも面白くないと思ったら、

さっさと片付けるんだよぉ。


だあって・・

きた獲物おもちゃは、処分しないとぉ。」


そう、2人に向けられたまなこは、

ぎた果実の裂け目のようで。


そこからのぞいていたのは、

よどんだ闇の芳香ほうこうと・・鮮血を思わせる、

柘榴ざくろの紅い光だった。



瞬間、

彼女の背を冷たい恐怖がけ抜ける。



しかし、

彼はなぜか多少落胆らくたんした様子で、

溜息をついただけだった。


「だろうな。


自分の弱点になる事がわかってる物を、

放って置く間抜けはいないだろうよ。


それでも置いとくとしたら、

それを処分したくてもできないか、

あるいは罠として使うか、だ。


あとは・・」


そこでSは、

悪戯を仕掛ける表情で楽しそうに笑う。



「弱点になると考えつかない、

身のほど知らずの馬鹿だけ、だな。」



言い終えると同時に、

彼は持っていた小瓶こびんを女王に向かって投げつけた。


小瓶こびん風切かざきり音を立てながら、

女王に向かって一直線に飛行し、

寸分違すんぶんたがわずその眉間みけんへと突き刺さり、くだけ散る。


「うっ!」


破片はへんこぼれる水から本能的に目を守るため

女王が目を閉じるが、

その瞬間にはすでに彼は動いていた。



しかし。



「えっ?!」


「!」


その行動に、マナミは思わず声を上げ、

それに反応して目を開けた女王さえも、

わずかに動揺どうようしてしまう。


「これで、

逃げられないだろ。


・・鬼事はしまいだ。」



女王の目の前に移動したSは、

しっかりと・・左手で、

女王の右腕をつかんでいたのだから。



「・・・・ふっ!」


思いがけない彼の行動にほうけていた女王だったが、

突然き出すと、

館全体に響き渡る位の甲高い大声で爆笑した。


「何をするのかと思ったら・・!

新しいお友達は、お馬鹿さんなんだねぇ!


そんな事しなくたって、

オイラはもう何処どこにも行きやしないのに!


・・だって、

わざわざそっちから来てくれたんだもの。」


にやり、と顔をみにくゆがめると、

女王は左手で彼の右腕をにぎめる。


「これで、本当にお終い。

おにごっこは、オイラの勝ち。


・・新しいお友達はがんばったから、

いい事教えてあげるねぇ。」


そのままあわれむよう嘲笑ちょうしょうを浮かべると、

女王はいまだにほうけている彼女にも届くように

話し出した。


「オイラはねぇ、

他の出来損できそこないの猟犬どうぐとは違うんだ。


あれらは、負ける事だってあるし、

逃げられる事もあるからねぇ。


・・でも、オイラからは逃げられない。

負ける事なんて、絶対に無い。


だって、オイラには・・生き物は、

誰もあらがえないんだからねえ。」


「誰も、あらがえない?」


やっと反応したマナミの言葉に、

女王は満足そうに笑みを深める。


「そうさぁ。


・・オイラの正体は、『恐怖』。


この狩場あそびばに連れて来られた、

色んな獲物おもちゃ


その恐怖心を集めて最初に生まれたのが、

オイラなんだぁ。


だから、

恐怖を感じている存在がいれば、

その居場所がわかるんだよぉ。


場所さえわかれば、

後は獲物おもちゃを追いめて、

その手をつかめば・・。」


Sの腕をにぎる手に音が鳴るほど力を込め、

楽しそうに無邪気に笑う。


「その心は恐怖で真っ黒になって・・

気が触れた後、絶叫を上げながら死んじゃうんだぁ。


もし、死ななくても・・すぐに自分を見失って、

恐怖心のかたまりに変化しちゃう。


それでそのまま、オイラと同化して、

お友達になっちゃうんだよお。


新しいお友達は、

どっちなんだろうねぇ?」


女王は


愉快ゆかいたまらない」


という感情を隠しもせず、

Sの顔をのぞき込むように見つめるが、

彼は不快気ふかいげまゆを動かしただけで、

黙って微動びどうだにしなかった。


(ど、どうしよう!


何とかして、

女王の手をはずさないと・・!)


彼女は内心そうあせるが、

体の方は全く動かない。



先程さきほどの女王の変化からずっと、

全身が震えて動かないのだ。



助けたい思いと、

恐怖で動かない体をかかえてマナミができるのは、

事態じたいを見守るだけだった。



・・しかし、

思ったより事態じたいは早く動く。



ニヤニヤと顔をゆがめていた

女王の表情が驚愕きょうがくへと変化し、

それを見たSの表情が不敵な物へと変わった事で。


「どうした?

どうにかなるんじゃなかったか?」


「そ、んな・・!

なんで、どうして!?」


あわてふためく女王の腕を、

彼は音を立てながら容赦ようしゃなくにぎめる。


楽しそうに笑うのは、

今度はSの番だった。


「まあ、確かに『恐怖』ってのは、

生き物の本能にさえもあるからな。

そう簡単にはあらがえないだろうよ。


・・だがな。」


彼は女王の手を振り払い、

そのまま自由になった右手で、

相手の左肩を音が鳴るまでにぎめる。


「ひっ!」


思わず短い悲鳴を上げた女王に向かって、

Sは自信に満ちた勝気な笑みをしてみせた。


「俺の『恐怖』は、

俺の心が生み出した感情モノだ。


俺のを俺が制御できるのは、

当然だろ。」


その言葉に、

女王の表情が唖然あぜんとしたものに変わる。


「どうして、そんな、

ぜったい、だって、うそだ、」


譫言うわごとように言葉をり返す女王に

Sが視線を合わせると、また小さく悲鳴が上がった。


かすかに手に伝わる震えを感じ取った彼は、

その瞳に好奇心を浮かべる。


それは小瓶こびんの時と同じ、冷たくて、

少年の純粋さを思わせる物で。


「ぅあ、あ、あ・・!」


それを直視した女王の体は、

離れているマナミにも見て取れるほど震えだした。


それを見たSは純粋な好奇心に目を輝かせたまま、

どことなく楽しそうに言う。


「テメェに触れられた奴は、

恐怖に飲み込まれるんだったよな。


・・それなら、

恐怖おまえが『恐怖』を抱いたら、

どうなる?」


腕の筋組織きんそしきを、

千切ちぎれる寸前までにぎめられた痛みのためか。


それとも、

ただ経過けいかを待つように観察する、

冷酷な視線に対してかはわからないが。


女王の表情が、

確かにおびえたものに変化した。


「う、あ、いやだ、たすけ、」


か細い震えた声を出しながら、

逃れようと女王はもがいているが、

彼の手が力を弱める様子は見えない。


「こ、わい。こわい、よう。


こわいよう!怖いよぅ!!」


恐怖からか、段々とその声は大きくなり、

悲鳴のように『怖い』と叫びながら逃れようと暴れ出すが、

Sの手はピクリとも動かなかった。


・・子供のようおびえ、

叫ぶ女王の目からは黒い涙が流れだす。



その顔は恐怖におののく老人の物で、

初めて女王の表情が感情と一致いっちした瞬間だった。



「何も起きねぇのかよ?

そろそろ飽きてきたんだがな。


・・さっさと、始末した方がいいか。」


様子を観察していたSが小さくぼやくと、

わめいていた女王が体を震わせて動きを止める。


そのまま親の顔色をうかがう、

子供の仕種しぐさで彼の様子をうかがい見て。


「・・!!」


どこまでもただ、

楽しそうな色を浮かべる瞳を見て、

一瞬体を強く震わせた。


「うあ、あ、あ・・」


意味のないぶつ切りの言葉を発しながら、

両目から大量の黒い涙を只々ただただ流す。


震えから歯がぶつかる口を小さく動かし、

女王は、Sの両目を見つめた。



「・・ば、ばけ、も、の。」



震える声でかすかにそう呟くと、

女王の体から力が抜ける。


そのまま、

くずれ落ちるように足元から溶け出し・・


やがて、

全身が溶けてその姿は、

黒い水たまりへと変わった。


Sの足元に静かに広がった水たまりは、

一度だけ


ゆら、


と水面を揺らすと、

蒸発するように音を立てて消え去ってしまう。



・・Sは足元を静かに見つめていたが、

小さく息を吐き出した後、いつもの表情に戻った。


その目はすでに女王への興味を失い、

あまりにも通常と変わらないので、

忘れているようにさえ見えてしまう。


「まさか、

化け物に化け物呼ばわりされるなんてな。


・・まぁ、ある意味で貴重きちょうな体験か。」


1人で納得している彼の側に、

恐る恐るマナミが近づいてきた。


「あの、女王はどうなったんですか?」


たまりがあった場所を見ながら彼女がたずねると、

Sはスーツを手で払い、

付いてしまったしわを伸ばしながら答える。


へ行きましたよ。

アレは、恐怖心から生まれたモノだと自分で

言ってましたよね?


・・恐怖から生まれたアレが恐怖心を抱くという事は、

自己じこが生み出す大きな力を取り込み続ける事になる。


そのため

さらにもう一段階上の恐怖へと変異へんいします。」


「もう一段階上の、恐怖・・?」


おびえた声音でき返すマナミとは対照的に、

彼はあまり気にする素振そぶりも無く、

いつもの面倒めんどうくさそうな態度で先を続けた。


「生き物がもっとも強く抱く恐怖は、

『死』です。


もう一段階上の恐怖、

つまり『死』という存在に変異へんいした瞬間、

それはただの『概念がいねん』となる。


死とは、

生き物として存在しているものではないですから。


そのため

奴はその形を失い、消滅してしまう。」


「消滅?


でも、別の場所って」


「ですが。」


疑問を彼女が言い終える前に、

Sはさらに言葉を付けす。


「『死』は強い『恐怖』を生み出し、

アレを再構築さいこうちくするでしょう。


しかし、

一度『死』を感じた生き物はその『恐怖』からは

逃れられない。


そのまま生み出した恐怖を取り込み、

その力で変異へんいし、再び消滅する。


その結果、消滅と再生をり返し、

概念がいねんと実体を行き来するという存在になります。


・・つまり、

常世とこよ現世うつしよ


どちらにも、

何処どこにも存在できないモノに。」


彼が静かに説明を終えると、

どこからか美しい音楽が流れてきて、

部屋中を優しく満たした。


「この音・・オルゴール?」


マナミが音色にかれるままに

オルゴールを見ると、

何時いつの間にか移動した彼が、

その中から何かを取り出している。


Sは金色に輝くかぎを手にすると、

それを見せながらこちらへ戻ってきた。


「手に入りましたよ、

正面玄関のかぎ


これで外に出られます。」


良かったですね。


その言葉に彼女は一瞬ほうけるが・・

やがて喜びから静かに涙をあふれさせ、

言葉をまらせながら何度も何度もうなづく。


「泣くのはまだ早いですよ。


・・さぁ、

いよいよ最後の大詰おおづめです。

最後まで気を抜かないように。」


しっかりと釘を刺してから、

彼はドアに向かって歩き出した。


「あ、待って下さい!」


腕でやや雑に涙をぬぐい、

マナミはあわててその後を追う。


(これで、

全部終わったんだ!


私は家へ帰れる、帰れるんだ!)


唄い出したいような、

今すぐ大声で泣きたいような、

とても不思議な気分だった。


(なんだか、

此処ここともお別れかと思うと。)


ほんの少し、

さびしさにも似た複雑な思いが胸をよぎる。


(確かに怖い思いは沢山したし、

悲しい事もあったけど。


・・ちょっとだけ、楽しかったかな。)


少し前を歩く頼ってきた背中を見ると、

思わず小さい笑みがこぼれた。


(彼には、

すごくお世話になったな。


・・失礼な事沢山言われたけど、

全部水に流しておこう。

最後くらいは、

笑ってお礼を言いたいし。


うん、そうしよう。)


静かな感謝を胸に秘め、

マナミは最後の舞台へと向かう。




彼女の物語の結末トゥルーエンドは・・

すぐ、そこまできていた。

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