第107話:戦争が始まったけど……

「あれ? 大前君。まだ食べてなかったの?」


 横から会話に入ってきたのは、先ほどまで一緒にいた女史こと【十文字 教子】その人だった。

 たぶん、席に戻って資料などを置いてからここに来たのだろう。

 ピシッとしたタイトな淡い水色のスーツ姿で、片手に黒革の長財布だけ握ってほのかな笑みを浮かべている。

 その立ち姿は、自然体なのにまるでモデルのように決まっている。


「じょ……十文字さん、どうして……」


 オレはついまぬけな質問をしてしまう。


「どうしてって変なこと言うわね。食堂に来たんだから食事に決まっているでしょう」


 そりゃそうだ。

 当たり前である。

 ただ、彼女はいつも外食していた。

 彼女曰く、食堂で食事をとると男どもが寄ってきて落ち着かないからだ。

 それなのに、どうしては今日はここに来たのだろうか。


「今日はかなり仕事が詰まっているしね。すぐに食事を終わらせたかったのよ」


 まるでオレの心を読んだように、女史は疑問に答えてくれた。

 そして今度はほのかではなく、会社では見たことがない満面の笑みを浮かべる。


「というよりも、本当は大前君と一緒にランチとりたかったしね」


「――!!」


 息を呑んで「ヤバい」と体が固まった。

 つーか、そんな顔でそんなこと言っちゃダメでしょ。


 そう思った次の瞬間、オレの体はゾゾゾッという寒気と共に縮み上がった。

 原因は、周囲だ。

 見なくてもわかる。

 周囲の空気が明らかに切り替わった。

 つーか、むしろ見たくない。

 特に山崎……よりも、ミヤの方は向きたくない。


「あっ、ああ……。つーか、仕事っすね、仕事の打ち合わせ! 食事しながら仕事の話、進めたかったってことっすよね。もう~、時間がないからって十文字さんは仕事熱心っすねー」


 我ながらすばらしい切り返しだ。

 オレ、天才じゃないだろうか。

 これならおかしくない。

 2人で仕事をしていることは、すでに噂になっているので自然な流れだ。


「いいえ。違うわよ。単に大前君とランチしたかっただけだけど?」


(オー・マイ・ゴッド! 台なしかよ、こんちくしょう!)


 心で悪態をつくが、もちろん嬉しくないわけではない。

 非常に嬉しい。

 だが、非常に困る。

 そして、そのことに女史は気がついているはずだ。

 こんなところでこんな事を言えばどうなるかわからない彼女ではない。

 つーか、いったいどういうつもりなのんだろう。


「ランチタイムぐらい仕事なしでプライベートに過ごしたいでしょう」


「い、いやまあ、そうですけど……あの、十文字さん……」


「あら? プライベートなのにその呼び方なの?」

 

「――!?」


 オレは息を呑んだ。

 それはつまりあれか、この場で「教子さん」と呼べというのか。

 それはつまりあれか、この場でオレに死ねというのか。


「…………」


 窺えばまるで小悪魔のような悪戯心を隠しもしない笑みを見せている。

 つーか、おかげでわかりました。

 バカなオレでもわかりましたよ。

 女史の目的が。


「まあいいわ。まだ慣れないだろうしね。食事がまだなら一緒に買って食べましょう」


 そう言うと女史はゴクゴク自然にオレの手を握ってかるく引きよせた。

 一気に周囲の空気の温度が一〇度ぐらい加熱する。

 周りの男たちから向けられる視線は完全に殺意。

 オレの周囲の食堂はまさに今、戦場……というより処刑場と化そうとしていた。


「――ちょちょちよぉぉぉぉっと待った!!」


 そして、とうとう彼女が動いた。

 早足でズンズンと進んでくると、オレと女史間に割りこみ、オレを庇うようにして女史のつながれた手をほどく。


「十文字さん! 大前さんはミヤとご飯を食べているんですけど!」


「あら? でも、大前君のご飯はどこにもないみたいだけど?」


「うぐっ……」


 そう。テーブルを見れば、そこにはほぼなくなったオレの分になるはずの弁当箱が置いてあった。

 もちろんミヤが食べてしまったものである。

 そしてさすが女史、そのことはチェック済みのようだ。


「…………」


 ミヤがキッと丸い目で女史を睨む。

 その視線を悠然たる態度で受けとめる女史。

 二人の間にただならぬ空気が漂う。

 その迫力に、オレに殺意を向けていた周囲の十文字ファンたちさえも気圧されているのがわかる。


「十文字さん……今朝のメールは本気なんですか?」


「ええ、本気よ」


 本題が始まった。

 つーか、女史の目的はこれだ。

 ミヤと戦争を始める気なのである。

 しかも、この人目のある中でやることで、オレを逃がさない対策になっているわけだ。

 本当に女史はよくわかっている。

 もし今、周りに人がいなければ、オレはこの空気に耐えられず逃げだしていたことだろう。

 うん。マジ逃げる。

 つーか、本気で逃げだしたい。

 しかし、この状態では絶対に逃げられるわけがない。

 距離を取っているとはいえ、さりげなく人垣ができている。

 その多くは十文字ファン、そしてあきらめきれないミヤのファンのはずだ。

 彼らがオレを無事に通してくれるとは思えない。


(もう完全にここでけりをつける気だ……思い立ったらすぐ行動するタイプ……こええぇぇよ!)


 オレはビビリすぎて声もだせなくなっていた。


「十文字さん、わかっていますか? ハーレ……あれに参加するってどういうことか? この世界……社会的に非常識になるってことですよ?」


「神寺さんこそわかっているのかしら? そんなものを作ったら独り占めできないってことなのよ。一生独身よ?」


「もちもちもちろんですよ。わかっています。特に今、痛いほど。でも、結婚よりも大事な……欲しいものがあったんですもん。それに、アズちゃんのことも好きだし、あっちの世界なら結婚だってできますしね!」


 ミヤの言葉に「結婚」という言葉が出てきたことで、まわりが一気にざわめき始めている。

 だが、二人の会話は周りに正しく理解されることはないだろう。

 その証拠に山崎が「どういうことだ?」と小声で聞いてくる。

 もちろんオレは「よくわからん」と適当に答える。

 説明なんてできるわけがない。


 つーか、早く二人を止めなくてはならない。

 このまま下手にここで話していたら、アウトランナーの秘密までバレてしまうかもしれないではないか。


(だけど……怖くってとめられねーよ!)


 オレはマジ、ビビっていた。

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