第108話:犠牲者はたぶんオレひとりだ。

「なるほどね。神寺さんは『夢のために捨てるものを選んだ』のね」


 そう言うと、そこで始めて女史は周囲をゆっくりと見わたした。

 その表情は、先ほどと変わらず笑っている。

 だが、眼鏡の下から放たれる目力というのだろうか、その威力は凄まじい。

 彼女に視界を向けられた周囲の野次馬は、自然に今までより距離を空けて目線をそらしていく。


「私は違う。『捨ててもいいものを見つけた』の」


「捨ててもいいもの?」


「ええ、そう。……ねえ、息抜きって必要だと思わない?」


「え? ……ええ、まあ……」


 唐突な質問に眉間の皺を深めながらもミヤは答えた。

 そんなミヤをよそに、女史はミヤが弁当を食べていた席の正面に座る。

 いつもオレたちが食事をしている窓際の特等席。

 そこに座れと、女史がミヤをうながす。


「…………」


 それに従うミヤ。

 だけどオレと山崎は、テーブルの横に立っていた。

 なんとなく居場所がないけど、離れるわけにもいかない。

 山崎は離れてもいいとは思うが、奴も気になるのだろう。


「私の息抜きはアウトドアだったのだけど、解放感を味わいに行っていたのだと思う。でも、解放っていわゆる『逃げ』の一種よね」


「……でも、逃げが悪いこととは限らないと思います」


「そうね。戦略的撤退。戦うための逃げだってあるしね。ただ……ただね、あの景色・・・・を見た時、改めて思ったのよ。『私はそこまでして戦いたかったのか』……って」


「だ、だからって、全部捨てられるわけじゃ……」


「そうね。別に全部を捨てたいわけではないわ。2つの世界と、うまくつきあっている人もいるでしょ?」


 そう言うと、女史は両手をテーブルの上に重ねた姿勢でオレを見た。

 釣られるようにして、ミヤもオレを見る。

 って、なんで山崎までオレを見ているんだよ。

 きっと山崎は話の意味なんてよくわからんだろう。

 つーか、オレもわからなくなってきた。

 2人とも話題がいつのまにか人生観についてみたいになっていないか。


「私もね、そういう風に……今までよりも自由に生きてみたいと思ったのよ」


「そ、そんな……十文字さんみたいな、すごいまじめな人が急に……」


「私とあなたの共通点」


「え? ミヤとの共通点?」


「そう。常識とか壊れちゃうぐらいのインパクト。突然、自分の枠の小ささを知ってしまう体験。あれ・・を見たら、自然にいろいろと変わってしまう……でしょう?」


「…………」


「さっきも言ったけど、もちろん何もかも捨てたいわけではないの。もう少し肩の力を抜いて、人の目を気にしすぎず、自由に正直に生きてみたくなっただけ」


「…………」


 ミヤはしばらく女史の話を聞きながら黙思していた。

 何を考えているのかわからないが、彼女はたぶん女史の話を吟味しているのだろう。

 そういえば前に、ミヤは「他人がついているウソがわかる」と言っていた。

 それが本当なら、今も女史の言葉がウソか本当か彼女にはわかっているのかもしれない。

 そして「ウソだ」と指摘していないということは、女史の言ったことは心からの言葉ということになる。


「十文字さん……大前さんのこと好きなんですか?」


「――!!」


 女史よりもオレの方が息を呑む。

 何聞いてくれちゃっているのだろうか、ミヤは。

 確かにその問いは、周囲の人垣に聞こえないぐらいの小声であった。

 としても、さすがに隣にいた山崎には聞こえている。

 山崎はオレを一瞥してから、女史の答えを待つように彼女を見つめていた。


「ええ。好きよ」


「――!!」


 自然体というのはこういうのを言うのだろう。

 ミヤの質問が聞こえていない周囲の者たちは、女史が今、愛の告白をしたなどと夢にも思わないだろう。

 それほど自然だ。

 オレでさえ女史の言葉が告白だとは思えないでいる。

 つーか、なんでオレに向きあって告白する前に、ミヤに対してオレへの気持ちを告白しているんだ。

 順番が違わないか。


「でも、告白は大前君からしてもらわないとね」


「――はいっ!?」


 あくまで小声の女史に対して、オレは思わず変な声で叫んでしまう。

 今まで見ぬフリをしていた周囲の視線が一気にこちらに向く。

 つーか、あれ?

 血の涙を流しながら、山崎がオレのクビをネクタイごと締めあげてきたぞ。

 なんかすごく、下唇を噛みしめているぞ。

 わりと二枚目の顔が、今はまるで般若のようだぞ。


「や、山崎……落ちつこうな……」


 たとえ落ちつかれても、何を言ったらいいのかわからない。

 こういう場合、他になんて言えばこの場を納められるのだろうか。


「ミヤも大前さんのことが好きです」


 あれ? いっそう首が絞まってきたぞ。

 なんか絞りだすような小声で「モテるお前など認めない」とつぶやき始めたぞ。

 なにこの不条理な怒りは。


「知っているわ。だから、参加すると言ったのよ。もちろん、独り占めできた方がいいとは思うけど。でも、そういうことも別に気にしなくてもいいかな……なんてね」


 今度は山崎が「どおおぉぉいうぅぅことだあぁぁぁ……」と低い声をだしはじめた。

 ああ、これはダメだ。

 そろそろ限界突破しそうである。


「山崎君……」


 もうダメだとあきらめかけた時、女史が席を立った。

 おかげで山崎の手の力が弛む。


「じゅ、十文字さん……」


 近づいてくる女史へ、山崎は絞りだすように言葉をだした。

 そのオレを締めあげている手が、彼女の両手で包みこまれる。

 あからさまに赤面する山崎は、見たことのない少年のような表情を見せる。


「十文字さん……俺……」


 彼女は山崎の手をそっとオレから引き離すと、自分の眼前に祈るように掲げた。

 そして真っ直ぐと、山崎の目を見つめた。


「お、俺――」


「――ごめんなさい」


「……え?」


「ごめんなさい」


「…………」


 この「ごめんなさい」は、完全にアレだ。

 お断りのアレだ。

 つーか、告白前に断るとは、女史は行動が早すぎるにもほどがある。

 おかけで山崎が、まるで廃人のような顔になっていったじゃないか。

 すでに女史は手を離しているのに、奴はそのままのポーズで固まってしまっているぞ。

 オレ、明日からどんな顔して山崎と話せばいいんだ。


「あ。大前君。ごめんなさいね、待たせてしまって。さあ、ご飯を買いに行きましょう」


 そう言いながら、今度はまたオレの手を握る女史。

 これ、先週までと同一人物とはとても思えない。

 なんでこんなにフランクなの。

 凜として高貴な高嶺の花の雰囲気が今はまるでない。


「待ってください!」


 ミヤも立ちあがってこちらに小走りによってくる。


「ミヤはまだ……」


「あら。認めてくれないのかしら。別に独り占めするとは言っていないわよ」


「そ、それは……」


「認めてくれないなら、私は私で勝手にアタックするからいいんだけど……」


「うぐっ……」


 この女史の口調、完全に取引先と交渉している感じになっている。

 しかも、完全に優位な立場での会話だ。

 ミヤが完全に圧されている。


「い、いいでしょう。その挑戦、受けますよ。この若くてかわいいミヤが負けるわけないんですからね」


「……ずいぶんと自信があるみたいね」


 その売り言葉に買い言葉で弾かれたように、ミヤがオレの左腕にしがみついた。

 ミヤの胸の谷間にオレの腕がピタッとはまる。

 これは伝説の技【腕包み】だ。


(あふっ……この感触は……あの時のことを思いだす)


 つーか、あの時はもっとすごかった。

 なにしろ反対側にはアズがいて、しかも2人とも……。


「そ、そりゃそうですよ! だってミヤは大前さんとお風呂に一緒にはいった仲なんですからね! キスだって済んでますし!」


「――ちょっ! おまっ!」


 ミヤさん、なんてことを大声で言っているんですか。

 周りのざわめき、本日最大ですよ。


「へぇ……キスね。私は大前君と同じベッドで一緒に寝た仲だけど?」


「――やめてぇーっ!」


 思わず叫ぶ。

 まちがっていないけど、絶対に誤解させようとしましたよね。

 ざわめき記録更新ですよ。


(ああ……オレ……死んだ……確実に死んだ……)




 その日、社長派とか副社長派とか問題にならないほどの巨大な社内派閥が生まれた。

 その名は【十文字教子ファンクラブ・神寺宮ファングラブ共闘戦線】。

 通称、【OASYS(大前現人、すみやかに死ね)】の誕生であった。

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