第046話:「なし」ということで。
清らかな水を蓄える池は、森の「穴」かもしれない。
上から見れば、この密集する木々の中に、ぽっかりと穴が開いているように見えるはずだからだ。
それから、もう一つ。
ここは、森を通り抜けようとする近隣の者たちにとって、「穴」場となっているらしい。
近くに街道の一部として使われる道も通っている。
もちろん舗装などされておらず、たまに荷馬車が通るらしいが、決してスピードが出せるような道ではなかった。
そのため、一日でこの森を抜けるには、普通は朝早くにでて夕方には抜ける必要があるのだ。
しかし、地元の人たちは、この池の存在を知っている。
ここは魔物が寄りつかない安全地帯なので、ちょっと遅く出発した荷馬車などは、ここで休憩して朝早く出発することもあるそうだ。
ただ、普通はあまり使われない。
だから、非常に静かな穴場でもあるわけだ。
(……穴か……やばい。ナニを朝から思いだして……)
オレは頭をふって、邪念をふりはらった。
木々の頭を越えて届く清らかな陽射し。
そして、少しだけ肌をさす冷たさを持つ、さわやかな森の空気。
それらを浴びながら、オレはコーヒーを口に運ぶ。
鼻から強い香りが入りこむ。
口の中から体に広がる苦味が、まるでオレを浄化するようだ。
――ごそ……
横に止めておいたアウトランナーの中で動きが見える。
モソモソと動く気配がする。
彼女の衣服類はすべてわかりやすいように横に置いておいたから、多分それを身に着けているのだろう。
なにしろ、一糸まとわず寝ていたのだから。
それからしばらくして、やっとリアのドアが、内側からゆっくりと開けられる。
そこから、恐る恐るのように顔をだしたのは、もちろんミューだ。
「……お、おはよう……アウト……」
「お、おお。おはよう。い、い、いい天気だなー」
互いにぎこちないあいさつ。
平常心、平常心。
「コ……コーヒー飲むか?」
「う、うん……」
昨日の勢いはどこへやら。
ミューは、耳を倒して体を小さくしたまま、キャンプ用テーブルに着いた。
オレはその彼女の前に、コーヒーを入れた紙コップを出す。
「あ、ありがと……」
「お、おお……」
彼女は紙コップに手を伸ばし、それを両手で包むように持った。
一応、紙コップは二重にしてあるし、そろそろかと思って保温は止めておいから、そこまで熱くないのだろう。
彼女は、掌から伝わる温もりを感じながら、しかしそれを口に運ばずにしばらく止まっていた。
オレもこちらから声をかけない。
互いに、そのまま10秒ほど停止。
「ア、アウト!」
「ほいよ!」
意を決したように、コーヒーを置いて呼びかけてきたミューに、オレは間抜けな返事してしまう。
「じ、実は、ミューは昨夜の記憶が、と、途中までしかないのだが、けっきょく、最後――」
「なにもなかった!」
オレは用意していた答えを力強く言い放った。
「ほ、本当か!? 何もなかったか!?」
「大丈夫! つーか、ちょっとだけだから!」
「にゃぴょん!? ちょっとだけって、なに!?」
「何もなかったも同じ!」
「そ、それ……な、なに……しちゃったのか?」
「だから、ちょっとだけだ!」
「むしろ、ちょっとが気になるぞ、アウト!?」
「ちょっとは、ちょっとだ!」
「そ、そのちょっとだけを教えてほしい……」
「……言いたくない」
「うううっ……。美しい、ミューとアウトの初めての思い出が……」
「ちょっとだから大丈夫! だから、『なし』ということで!」
「な、なし!?」
「忘れた方が、お互いにいいと思うぞ」
「ほ、本当に何もなかったのか?」
「おお。ちょっとだけだ……」
「…………」
「…………」
「……そう言えば、口のな――」
「コーヒー飲め!」
オレは目力を込めて、睨むように顔を近づけた。
たぶん、今の俺は鬼のような形相をしていることだろう。
「おうっ、おお……」
さすがにミューも、その迫力にたじろぎ、コーヒーを口にする。
もうこの話は終わりだ。
話題を変えることにする。
「ところで、確か仕事の帰りだと言っていたよな」
「……うん。家に帰るところ」
「じゃあ、家まで送ろうか」
「うん。よろしく頼む。たぶん、父ちゃん、母ちゃんも喜ぶ」
「……なんで喜ぶんだ? ふつう、娘が男を連れてきたら親は心配するもんじゃないのか?」
「それはひさ……まあ、そうだな」
「ひさ? つーか、昨夜は『なにもなし』だったんだから、いきなりご両親と挨拶からの結婚話コンボはやめてくれよ? そのパターンはもうこりごりだ」
「なんで今さら、そんな話を……」
「え? 今さら?」
「いや、うん。絶対にそういう話は出ないから大丈夫だ」
「ん? そうか……」
なんか今一つ、会話がかみ合わないが、もしかしたらミューもまだ動揺しているのかもしれない。
とにかく昨夜のことは忘れよう。
唯一、ミューに酒を飲ましてはならないということだけは、忘れないようにして。
「……じゃあ、とりあえず朝飯を作るか」
「うむ。手伝う」
オレとミューは、コーヒーを飲み干してから食事の用意にとりかかった。
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