1 ランフォーリャの食事屋さん

 額をつつかれる感覚に、ティフ・アノングロスの意識はゆっくり目覚める。

 つつくと言っても、女性の柔らかな指の優しい感じではなく、固い骨のようなものが、一定のリズムで無感情に額へ攻撃を仕掛けてきていた。

 それも、つつくスピードは確実に上がっていき、力も強くなってくる。

「って痛てえよ!」

 ベッドから半身を跳ね起こしたティフは、ヒリヒリする額を押さえながら自分をつつき続けていた物体を目に捉えた。

 壊れた窓からの陽光に照らされた黄色い物体は、パチクリと瞬きを繰り返しながら感情の読めない瞳でティフを見つめている。

 それは鳥なのだろう。恐らく。

 だがティフは確信が持てなかった。

 まるで巨大なレモンが二つ積み重なった図体。頭についた真ん丸お目々にくちばし。下部から生えるは細い足。しかし肝心の羽は胴体の両側に申し訳程度、小さいのがついているだけだ。

 これが飛べる事は一生ないだろう。

 しかもこの生物は無駄に大きく、身長は立ったティフの胸元ほどだ。

 デカいヒヨコもどき、という説明が一番分かりやすかった。

 この鳥(?)、バキュームちゃんは、ティフが世話をしている霊獣(??)であった。

 最も、自宅で飼っている訳ではない。飼うスペースなどありはしない。

 さる集合住宅の二階の一室。

 一人で住むのが精いっぱいな、狭く薄汚れた部屋。壊れた窓からは裏手の小道と、向かい建物のひび割れた壁が見えるだけ。

 これがティフの根城だ。風呂無し水場トイレキッチン共同。

 住居に不満がない訳ではない。湿気はひどいし夏は暑いし冬は寒いし何よりも狭い。

 それでも、このご時世に自分だけの部屋があるだけでティフは満足であった。

 この大陸で勃発し、様々な国を巻き込んだ戦争が終結してから七年。

 復興は進んでいたが、未だまともな住み家を持たぬ者も多い。

 そんな事はともかく。

 ティフがやらなければならないのは、未だにティフのコメカミを突き続けているバキュームちゃんのご機嫌取りだ。

 部屋を出る。冷たい空気が一層強くなる。暦は四ノ月。もう春のはずだが、その空気はまだ感じない。目の前には、共同の台所などがある狭い中庭が。澄み渡った空の下には数人の人影。そこに大家が居ないことを確認してから、ティフとバキュームちゃんは階段を下りて中庭を通り抜けた。

 大家にバキュームちゃんのことが見つかると面倒なのだ。

 普段は、茶色い巻き毛にソバカス顔の可愛らしいお嬢さんなのだが、この件が絡んでくると話が別だ。

 

「ゴメンね、うちはペット禁止なの」「ペットは禁止って言いませんでしたっけ」「ペット禁止って言っだろお前?」「ペットは禁止っだっつてんだろこのアホんだらが!」


 ティフにだって言い分はある。バキュームちゃんはティフのペットでなければ一緒に住んでいる訳でもない。この鳥が勝手に侵入してくるのだ。

 だから、俺のせいじゃないんだよ。そう大家さんに何度も説明したが「どうにかしろ」の一点張り。最近は怒りを通り越したのか、無言の笑顔を浮かべる彼女が恐ろしくて仕方なかった。

 そんなバキュームちゃんに連れられ、ティフは集団住宅前の通りを進んでいく。ティフの住む周辺は、小さな家やアパートが所狭しと建てられていた。

 脇の路地の上を見ると、向かいあった窓と窓との間に架けられたロープに、たくさんの洗濯物が干されている。無数にはためく洗濯物の下で、駆けっこをする子供や談笑する奥様方。道端に置かれたテーブルでは、酒を煽りながらカードに興じる親父共たち。建物を見上げた一人の青年が、三階の窓から顔を覗かせた女性と楽しそうに会話をしていた。

 やがて、少し大きな通りにぶつかり、その道路に沿って歩いていくと、開けた場所に出た。

 露天の並ぶその場所の中央には、石の柱が二本建っている。

 かつてこの地に存在した帝国の遺跡だ。片方の柱は、真ん中で斜めに折れていた。柱の根元で横になっていた柱の上部に、数人が背中を預けて談笑していた。

 だが、何よりも目を引くのは、その向こう。行く手を阻む巨大な壁。そして、そこに取り付けられた門であった。

 三階建の建物に匹敵する高さの壁が、街の中央部分を囲んでいた。その壁はかつて、街と外部の境界線であった。

 今では人口が増え、その壁の遙か外まで街は広がっている。

 数十年前から、市壁の外にも街は広がっていたが、その発展が急激に進んだのは、ここ十年。

 原因は隣国であった『ブルートヴンダ王国』と『ヒルング国』の戦争だった。

 その二つは、元は一つの国であり、旧国の名前から『ヘルツゲッツェ戦争』と呼ばれている。

 最終的にはブルートヴンダの首都陥落によって戦争は終結。ブルートブンダ王国はヒルング国に合併、『ヒルゲッツェ共和国』に名前を変えた。

 この国、アルクオーレは両方の隣国でありながら、どちらにもつかず静観していた事もあり、ほぼ無傷で終戦を迎えていた。

 その為、戦中から戦火に焼かれ住む場所を失った人々が、この国に流れて来たのだ。かく言うティフも、その内の一人だった。

 中でもこの首都アルクオーレの人口の増加率は高かった。

 今でも家が足りておらず、街のはずれにはテント暮らしの者たちも数多い。

 市壁には七つの門がついていたが、その中でもこの第四市門は人の出入りは少ない方だ。それでも、人や様々な物資を乗せた馬車、その他ヤギやらなんやらが盛んに行き交っていた。

 果実の歩き売りに目を向けていたバキュームちゃんの頭を掴んで、馬車と並んで門をくぐる。

 足もとが土から石畳変わったら、市壁内に入った証拠だ。

 壁沿いの通りには、パン屋に酒場に肉屋に土産屋にと脈絡もなく立ち並び、果物や小新聞の売り歩きの者が威勢のいい声で宣伝をしている。

 だが、ティフとバキュームちゃんはそれらには目もくれずに、壁沿いのその通りをずいずい進み、横道にそれる。静かな道をしばらく進んでいくと、再び小さな商店街にぶつかった。さらに少し進んだ所で、給水栓のある角の路地に入る。

 なだらかな登り坂を進み、坂道の中ほどにある角の店の前でバキュームちゃんは立ち止まる。立て看板には『デ・スカッピ』という名前と共に、食事処を示す文字が並んでいた。バキュームちゃんは、窓から店の中を覗いていた。

 そんな鳥を置いて、ティフは店の中に入っていく。入れ違うように、木屑の香りを漂わせる中年の二人組が店から出ていく所であった。この近くの工房の作業員であり、店の常連だ。顔見知りであり、軽く挨拶する。

 店の中は道に沿う様な長方形。手前側には長机が壁につけられて並び、奥の方は、道路沿いに丸テーブル、その反対側に質素なカウンター席が取り付けられていた。窓から差し込む光が、角の欠けた机の木目を照らしだしている。

 カウンターの奥の棚には、飲み物やオール油の入ったビン、他には馬や有名な精霊を模った木の置物が置かれている。

 壁に黒板がぶら下がっており、今日のメニューと値段がなぐり書きされていた。

 朝一番の客の波は引いており、中にはティフのみ。騒がしさの残り香だけが漂っていた。テーブルの一つには、先ほど出ていった客のお皿が置いてある。

 ティフが入ってきた入口と対角の場所にある、カウンター脇の扉から、エプロンをつけた一人の女性がフキンを手に現れる。

 彼女はティフに気がつくと、にっこりと笑みを浮かべた。

「ティフじゃない。いらっしゃい」

 彼女、ナターリエ・ファンテイス。愛称はナタリーと言い、青みがかった長い髪を後ろから垂らし、落ち着いた笑みを向けて来る。

 ティフと歳は変わらない素敵な女性であるが、目的の人物は彼女ではない。

「カミラは?」

「あの子なら、いま奥で食器洗ってるわよ」

 ナタリーは肩越しに奥の扉を指さす。それを合図にしたかの様に、一人の少女が姿を現した。

 初めての出会いならば、その姿に心を奪われただろう。

 肩ほどで切りそろえられた真珠のように煌く銀色の髪。服の合間から覗く肌の色は滑らかなクリーム色をしており、細い指で髪をすくように撫でる。

 綺麗に整った肉体は、彫刻のように完成されたバランスを誇っている。

 僅かにつりあがった瞳の奥に輝くアメジスト色には、誰もが永遠に見つめたいと願わせる何かがあった。しかし同時に、それを直視してはいけないと感じさせるほどの荘厳さ。

 まるで神が、自分の理想の恋人を模って、作り出したかのようだった。

 彼女、カミラ・スリリーフは、この店の店員の一人だ。

 穏やかな足取りで入ってきた彼女の気だるげな瞳が、ティフを捉える。ピンク色の薄い唇が、ゆっくりと弾かれ、空気を揺らした。

「来たのかこの貧乏人め。あいも変わらず、うす汚れた格好をしておる」

 残念ながら、神様は見た目にしか興味がなかったらしい。

 文句の一つも言いたいが、ティフも貧乏と呼ばれて仕方がない生活をしているので、ケチをつけにくい。

 ナタリーは頭痛でもするように頭を押さえた。

「カミラ、お客様にそんな口のきき方しない」

「事実を言っているだけではないか?」

 何が悪いのか分かっていないように、カミラは眉間に皺を寄せた。

 彼女は片手を腰に手をあて、ムンとふんぞり返る。

「貴様だってそう思っておるだろ、ナタリー?」

「変な誤解を生むようなこと言わないでくれる。彼も大事なお客様よ」

「なにを偽善者ぶっていそうだな少しは気をつけよう」

 ナタリーは笑顔を浮かべながら、いつの間にか手に持っていたフォークを今にもカミラに投げつけようとしていた。

 コツコツと窓を叩く音が響く。見るとバキュームちゃんが窓をくちばしでつついていた。

「ふむ、あの鳥も来たのか」

 そう。

 正確に言えば店に用があるのはティフではなく、バキュームちゃんだ。

 そしてバキュームちゃんの目当てがカミラであった。

 なぜかは分からないが、あの鳥はカミラに懐いていた。

 頭の出来ぐあいから、同類と勘違いしているのかもしれない。

 懐くのはティフとしても別に構わない。

 だが、なぜかバキュームちゃんは、この店に来るのにティフを同伴させたがった。鳥頭のせいでティフが連れてこなければ店まで来れないのならまだしも、バキュームちゃんは明らかに道を覚えており、そもそもティフの家まではバキュームちゃん一匹でやって来ていた。

 ならば、ここにも一匹で来れそうなものだが。断固として一匹でこの店に来なかった。

 そのため、ティフも毎日バキュームちゃんに付き合い、今ではすっかり店の常連だ。

「仕方がない、あの鳥の相手をしてやろう」

 店の外に向かおうとしたカミラの首根っこを、ナタリーが掴む。

「待ちなさい。さっき下げたお皿、まだ洗い終わってないでしょ。それ終わってから」

「客は貧乏人だけじゃなくあの鳥もであろう。貴様は客を店の外で待たせるか」

「なに屁理屈言ってるの、ペットはペットでしょ。それから貧乏人って呼び方はやめなさい。本当だからって言って良い事と悪い事があるのよ」

「おい」

 話が飛び火してきたティフは口を挟もうとしたが、そこで思い出したようにナタリーが訪ねてきた。

「あ、そう言えばティフ。ルッシ見かけなかった?」

「マルシオ? 何で?」

「お水を汲みに行ったんだけど、全然帰ってこなくて」

「給水栓のとこにはいなかったぞ」

 給水栓の前をティフが通った時、人はお婆さん一人だけだった。

「何処ほっつき歩いんてんだか、あいつ」

 ナタリーが息をついたその時、入口の扉が勢いよく開かれる。入ってきた体格の良い男は、大きなカメを肩に担ぎながら、調子のよい笑みでティフに向けて手を上げた。

「ようティフ、いらっしゃい!」

 彼、マルシオ・ドーキンバクは、ナタリーやティフと同じ年の、妙に暑苦しい男だった。

 そんな彼を、ナタリーは半目で睨みつける。

「ルッシ、帰ってくるの遅かったわね。何を水くみに手間取ってたの」

「いやあ、今日は天気もいいじゃないか。気分がよくなって、軽く筋トレをしてきちゃったよ。知ってるかティフ、水を入れたカメって、鍛えるのに最適なんだぞ」

 笑いながら、マルシオはカメを床に置く。運動するのは結構だが、そのせいでカメの中の水がこぼれまくり、半分も残っていなかった。

 ナタリーは眉をひそめる。

「そういうのは、仕事を全部片づけてからやってくれない?」

「なにを言う、戦士たるもの、常に体を鍛えるべきなんだぞ」

 戦士と口では言っているが、彼の職業はこの店の従業員である。

 だが本人はいつか戦士になる為と、日夜トレーニングを欠かさなかった。

 そもそも戦士ってなんだよそこは兵隊じゃねえのかよという疑問をティフは持っていたが、彼曰く、戦士と兵隊には大きな隔たりがあるらしい。

「戦いで金を貰うのが兵隊、名を上げるのが戦士なんだ!」

 その二択ならば、ティフは喜んで兵隊になろう。

 呆れたようにナタリーは首を振る。

「夢物語は寝てからやってね。起きてる間は現実に生きて欲しいんだけど」

「それより」

 不機嫌そうなナタリーを無視して、マルシオはカミラに向き直る。

「バキュームちゃんを外で待たせてるけど、カミラ、行ってやらないのか」

「そうだな。行ってやらね――」

「皿洗いが済んだらね」

「なんだ、それくらい」と割って入ってきたのはマルシオだ。

「いいじゃないかナタリー、皿洗いぐらい俺がやっとくよ」

 近づいてきたマルシオから逃げるようにカミラは顔をそむける。

「寄るな貴様、むさ苦しい」

「ルッシ、甘やかさないでね?」

「そんな事ないよ、だけど」と反論しようとしたマルシオだったが、ナタリーが手に持っていたフォークをカチリと構えると、彼の表情が引きつる。

 ナタリーは素敵な笑みを浮かべていた。

「あんたは。もう一回、水を汲んでくる。量が、明らかに、足りないでしょ」

「ナタリー、分かったよ。うん」

 一方のカミラは皿洗いを再開するためか、既に店の奥に消えていた。

 マルシオは再び水を汲みに行き、未だ窓を突き続けていたバキュームちゃんも、ナタリーが笑みを向けると、置物のように硬直した。

 それから、うんざりするように短く息をつく。

「お疲れさん」

 とっくにテーブルに座っていたティフが声をかける。彼の存在を忘れていたのか、ナタリーは目を丸くすると、疲れた笑みを浮かべた。

「これで誰かさんが、もうちょっとお金を落としてくれると元気も出るんだけどなあ」

 ティフは渇いた笑いを吐き出しながら視線を逸らした。

 絶対、裏で貧乏人呼ばわりしてると確信しつつ、ティフは黒板で今日のメニューを確認。

 一番安い料理を注文するのだった。

 注文したポレンタ(雑穀で作った粥の一種)を食べている時、奥からカミラが戻ってきた。ティフを見て、あからさまに顔をしかめる。

「貴様、食器は自分で洗えよ。私はもう洗わん」

「客だよな、俺?」

「ほら、早く行ってあげなさい」

 促したナタリーへの文句をぶつくさと言いながら、カミラは店の外に出た。

 窓の外でバキュームちゃんの頭をポフポフ叩いているカミラを眺めていたティフは、素朴な感想。

「よくあんな奴を雇う気になったな」

「あの子も結構いい子なのよ。問題は多いけど」

「……いい子なのか、それ?」

 しみじみと言ったナタリーに、ティフは首を傾げるのだった。

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