二章 彼氏と彼女の事情

 事態はすぐに周知された。緘口令も何もあった物ではない。何せ国内最大級とも言われた観覧車の崩壊事故だ。その上、お台場には本社を構えるテレビ局もあり、ものの三十分も経たない内に午後のワイドショーに大々的に映し出された。ある局では地上にキャスターが立ち、神妙を絵に描いた様な表情で、眉間にしわを寄せて報道し、別の局ではヘリを飛ばして上空から、その緩慢にも見える巨大な車輪を映していた。

 ただ、飛行機や船の事故という訳でもなく、乗客の名前等は運営会社も当然のことながら把握しているはずも無く、事故に巻き込まれた者達の名前などの情報を報じる局は一社たりとも無かった。

 大きな事故が発生した際、かつてはそうしたテレビの報道がほぼ唯一の情報源だった訳だが、情報化社会と言われて久しい現在は、もっとマクロな視点で伝播する事も多い。SNSの存在である。バイト先のコンビニ店内保冷庫に全裸で入り、悪ふざけで撮影、SNSに投稿して問題になり、店は責任を取って閉店、その賠償金を請求され、更には大学を強制退学させられ人生を棒に振る、フルチンだけにな! などの様なフルコンボがSNSの伝搬力によって顕在化している。無論そうした悪い面だけでなく、電車の遅延や、大規模災害時のマクロな情報伝達の手段としての側面もあり、当然、マリンシティホイール崩壊の報も写真はおろか動画付きでもSNSを駆け抜けた。中には、乗客本人が事故前に撮影した、マリンシティホイールからの眺望の写真等もあり、そうした方面から乗客の特定が進み、崩壊の第一報を報じるメディア各社も、夕方以降には大方の巻き込まれた乗客名を把握するのである。

 とは言え、乗客の全てがSNSを利用している訳でもなく、また普段使っていても事故直前の事を発信しているとも限らず、未だ個人を特定できない者も多い。

 そこで地元お台場に本社を置くテレビ局が一案を講じた。ヘリではローターが観覧車に触れたり、そうでなくとも接近した際の気流で今は絶妙なバランスで転がっている観覧車に悪影響を与える危険などにより、乗客の顔を映せる程に近づく事はできないと判断し、代わりにドローンによる接近撮影を敢行する事になった。

 季節は夏で未だ陽は高く、自然光はあるにせよ、メイン電源から切り離され、照明の落ちたゴンドラ内の撮影を想定し、ドローンには遠隔操作で通常感度・高感度の切り替えが出来る小型カメラと、乗客の声を拾う為の指向性集音マイクが搭載され、地上を飛び立った。


 「エツコ先輩、今日の服すごいカワイイ! この後なにかあるんですか?」

 品川駅に近いある会社の女子更衣室から、若い女性の声が漏れ聞こえる。

 定時の十七時まであと数分という時間に、既に着替えをしているという事は、着替えが就業時間に含まれるタイプの優良な企業と見える。

 すごいカワイイ! と言った方の女性は二十代半ば、エツコ先輩と呼ばれた方は幾つか上の様だが三十代ではないと見える。

 「ああ、今日はトオルと久しぶりにね」

 「あ、彼氏さんとデートでしたか。合コンなら付いて行こうかと思ったんですけど、そりゃ付いてったら私、トオルさんにボッコボコにされちゃいますね」

 「さすがに女の子に手上げやしないわよ、トオルがいくら馬鹿でもね」

 「もう、いつもそうやって彼氏さんの事、馬鹿だ馬鹿だって言いますけど、それって周囲からしたらただのノロケですよ、分かってます?」

 そんな他愛もない話をしながら着替えをする二人。ふと時計に目をやればちょうど定時になった所だ。タイムカードを切りに他の女性社員達は誰にというでもなく、おつかれーだの、お先でーすだのと言って更衣室を後にして行く。

 「お、帰りか? エッちゃん今日気合入ってんなぁ。さてはデートか?」

 二人が更衣室を出ると、同じ部署の男性社員とバッタリ会った。

 「もうっ、そういうの完全にセクハラですよ! エツコ先輩も何か言ってやって下さいよ!」

 「セクハラってお前・・・っていうか、セクハラかただの世間話かの境目って、男側のキャラにもよるじゃん。そこ行くと俺の場合、女性社員とも円満仲良し、これぐらいは大丈夫サイドだろ?」

 「そういう事を自分で言ってる様な人ほど、これぐらいは、これぐらいはって段々エスカレートしてって、本当にお尻とか触って訴えられるオジサンになっていくんですよ」

 「お前、仮にも俺も先輩だぞ。ヒデェ言い様だなおい。」

 ふふふ。

 エツコは知っている。社内ではこんな感じの二人だが、実のところ交際中だ。男性社員は自分と同期だし、相手は自分に初めてできた後輩と、よく知った二人がこうやってじゃれ合っているのを見るのがエツコは微笑ましくて好きだった。

 「今日は、お台場に行くの。ほら、春くらいに出来た観覧車あるでしょ? あれの前で待ち合わせって」

 「観覧車? なんかそれ社員食堂のテレビでやってたぞ。なんか大変らしい」

 「大変?」

 「ああ、俺も喫煙所からちらっと見聞きしただけだから詳しくは知らないけど、他の部署の人がチャンネル回しながら、どこの局もまだ同じくらいの事しか言ってねぇなとか言ってたから、相当ヤバイ事になってんのかもな。気になるなら、食堂行って見てみろよ」

 事故だろうか。エツコの脳裏にちらりと悪い予感がよぎる。トオルは、池畑徹は待ち合わせの場所に何時間も前に到着して、先に周辺に何があるかなど調べておくタイプの、見た目にそぐわず、律儀で几帳面な男だった。

 トオルはもう三十路に手が届こうと言うのに、派遣社員とは名ばかりの、半分フリーターの様な職に就いている。昨日は警備員、今日は運送会社で、明日は引越業者。そんな日雇い派遣労働者である。よって普段からスーツを着るような習慣がなく、ソフト目なリーゼントにスカジャンという少々どころか大いに時代錯誤なのが普段のスタイルだ。

 トオルとエツコ、本名、向井悦子は、ライブハウスで出会った。当時大学生だったエツコと、給仕の仕事をしていたトオルは意気投合。交際に発展してもう三年にもなると言うのに、温泉でも行きたいなというエツコに対し、婚前旅行は駄目だ、親御さんに申し訳が立たない等と言うトオルは、前述の通り、見た目に反して律儀で几帳面な男なのだ。

 そんなトオルならば、今日は久しぶりのデートだし、確か仕事も無いって言っていたし、きっと一人先に到着して近くに居た事だろう。

 そこまで考えたエツコは、白いロングのワンピースと、同僚女性達から羨ましがられる長く艶のある髪を翻して食堂に向かった。

 「ご覧いただけますでしょうか、お台場にありますマリンシティホイールの支柱が崩壊し、本体、つまり車輪の部分だけが中に乗客を乗せたまま、今も停止すること無く転がり続けています。本来、支柱から電源を供給されており、それが遮断された現在、ゴンドラはロックを解除出来ず、中に取り残された乗客の皆さんは脱出できないという状況です」

 大きな事故という事もあり、食堂のテレビの前には既に何人も集まっていて、一様に神妙な面持ちで画面を注視していた。

 「只今入りました情報によると、現時点で判明している乗客の方々のお名前は・・・」

 テレビキャスターが羅列する中にトオルの名は無かった。前で待ち合わせと言っていたのだから、当然と言えば当然の事だが、何せ律儀で几帳面なトオルの事だ、下見とばかりに一人で先に乗っていてもおかしくない。

 「只今もう間もなく、乗客の方々の現在の様子を撮影する為にドローンによる空撮を行う予定です。あっいえ、今、たった今ドローンが飛び立ちました。繰り返しお伝えします、崩壊暴走事故を起こしました、お台場マリンシティホイールの内部に取り残された乗客の方々の様子をお伝えする為のドローンが、たった今、飛び立ちました」

 画面がドローンによる撮影に切り替わり、傷だらけになったマリンシティホイールに肉薄する。

 何台か無人のゴンドラが通り過ぎ、ようやく上昇を始めるゴンドラに人影が映る。

 それを見てエツコは全身から血の気が引いた。

 画像は観覧車の移動に合わせてドローンが飛んでいる為、ひどく揺れており、未だ映った人影に対してズームもピント合わせもされていないので、この時点でその人物が誰かを特定する事は誰にも出来ない。エツコを除いて。

 エナメル質の鮮やかな蚕豆色の生地に、特注で刺繍された片羽の白頭鷲。それはエツコ自身が、恋人であるトオルに去年のクリスマスに贈った物だった。

 ガシャン

 エツコの肩からバッグがすり抜けて床に落ちた。

 何人かがテレビ画面から振り向いてエツコを見た。

 顔面蒼白とはまさにと言う顔色のエツコが、自らのカバンの後を追うようにその場にへたり込む。

 「エツコ先輩!」

 「エッちゃん!」

 振り向いた内の更に数人、エツコを知る者が、その様を見て反射的に呼びかける。

 「トオル・・・あれ、あの画面の人、間違いない、トオルなの・・・私があげた特注のスカジャン、間違いないの・・・」

 「そんな! だってまだ待ち合わせの時間になってないし、それに何で一人で観覧車なんかに」

 そう言ってエツコの肩に手を置こうとした後輩の言葉を遮り、エツコが瞳孔が開いた瞳で彼女を見据え、一段高いトーンの声で言う。

 「そういう人なの! 待ち合わせの時間よりだいぶ早く着いて、その後に私と行く予定の場所を全部下見するの! 何か私が嫌がる物が無いか、私が興味を持ちそうな物があるか、そうやって全部私の為にしてくれる優しい人なの!」

 「先輩・・・」

 別にエツコは怒った訳ではない。ただ、あまりの剣幕だった為に、当の後輩はかける言葉を無くし、俯いて視線を床に這わせた。

 「エッちゃん! そうだ、電話だ、あれがエッちゃんの彼氏かどうか、電話してみれば良い」

 何も言えなくなった後輩に代わり、同期の男性社員がエツコに言う。エツコもそうかとばかりに先ほど落としたバッグから自らのスマートフォンを引っ張り出す。待機状態から復帰させた画面にはエツコと頬を寄せて笑う、ソフトリーゼントの男性が写っている。

 二人の顔の上をエツコの指が慣れた動きで動いてロックを解除する。そして通話履歴の中から、トオルという表記をタップした。

 呼出音が、二回、三回と続き、四回目コールのちょうど半分程で通話が始まった。その瞬間、テレビ画面もズームとピント調整が完了し、画面中央の男性が携帯電話の様な物を耳に推し当てた。

 「エツコか?」

 「馬鹿!!」

 トオルの声を聞いた途端、エツコは馬鹿としか言い様が無くなり、同時に大粒の涙が床を叩いた。

 「泣くなよ。・・・ああ、あれか、あのドローンで今俺、撮影されてテレビ出てんのか。って、まぁ泣くなってのはちと無理か。お前、意外に泣き虫だもんな」

 「どうしてアンタはそうやって一人で観覧車まで乗っちゃうのよ・・・」

 「悪ぃ。でも今日だけはいつもと違ってな、どうしてもお前に言わなきゃなんねぇ事があって、だから、下見ってより、一人予行演習みたいなモンだったんだ」

 テレビの方では、映し出されたトオルに向けて指向性の集音マイクが使われたようで、ビュウビュウという風の音に紛れて、どこか篭った様にトオルの声が聞こえてきた。

 「俺さ、派遣っつーか、日雇いみたいなバイトしてたろ? でもこのままじゃなってずっと思っててさ。で、この間、頑張って大型の免許取ったんだ。そんで今まで何回か仕事してた運送業者の社長さんに報告したら、正社員で入れてくれる事になってさ。ほれ、なんつーの? サプライズってやつ? お前の事ビックリさせてやろうかと思ってよ。」

 「十分ビックリしたわよ! 心臓止まるかと思った。今でも、怖いよ・・・でも、おめでとう、良かったね」

 「ああ。せんきゅな。でも、本当はもう一つお前に言うことあんだよ」

 そう話すトオルの顔は前代未聞の事故の当事者でありながら、妙に晴々としていて、テレビのリポーターが、男性が携帯電話でどなたかと話をされているのが聞こえます、会話の内容は分かりませんが、とても穏やかな表情から怪我などはされていない様に見られます等と伝えていた。

 「言いたい事・・・」

 半ば放心状態のエツコは、トオルの言葉をオウムの様に繰り返す。

 「ああ。その、正社員にしてくれるって約束してくれた社長さんがさ、そりゃもう良い人でさ、正社員にしてくれるだけじゃなくて、生活準備金っつーの? ポンと十万も出してくれてさ? ほら、これ、見えっかな?」

 そう言ってトオルは、スカジャンのポケットから五センチ四方のサイコロ状の物を取り出して、両手で開き、ドローンに向けて差し出す。それは小さな、ビードロ生地で仕立てられたアクセサリケースで、その中央に鎮座する指輪の石が、真夏の夕暮れの陽を受けて、どこか切なげに画面越しに見える。

 「お前は大学も出て、ちゃんとした会社入ってバリバリ仕事して、本当なら俺みたいな高卒のフリーターなんて釣り合いっこねーハズなのに、ずっと一緒に居てくれてよ? すげー感謝してたんだ。それと同じくらい負い目も感じてたけどな」

 そう言ってトオルは、自嘲的に少し寂しく微笑った。

 「でも、でもようやくな、こうしてちゃんと言える。言えるんだ」

 テレビのリポーターも、この後に続くトオルの言葉を予測したのか何も語らない。

 社員食堂に居合わせた者達は、今やエツコとテレビに映る男性との関係を知り、その結末を待っている。

 画面では時折ドローンが風に煽られるのか、グラリ、グラリと揺れながらもトオルの姿を映し続けている。

 ああ、長かった。エツコは思っていた。トオルの事は、初めて会った日から今に至るまで、ずっと変わらずに好きだった。トオルの感じていた負い目も知ってた。だけどそれを伝えたら、きっとトオルの自尊心を傷付けてしまう事も分かっていた。仕事で大きな失敗をして、もう会社辞めると電話で言った夜、自転車で一時間もかけて真夜中、来てくれた事もあった。優しくて強くて、ちょっと変わり者だけど、何よりいつでも自分の事より私の事を優先してくれる、そんなトオルが大好きだった。トオルが居てくれたから、今の私がある。二人で行った海の事、初めてのクリスマス、お互いの誕生日、付き合って一周年って言った時はトオルが、女ってホントそういうの好きなと言って笑った後に、でもそういうのも良いな、来年も一緒に祝おうなと言ってくれた事、いくつもの思い出が脳裏にホタルの様に、光って現れては消えを繰り返して意識の外に飛び去って行った。

 「エツコ、俺と結婚して欲しい」

 トオルの真心が篭った、シンプルだがストレートで心にダイレクトに伝わる言葉が、テレビ画面とエツコのスマートフォンから同時に響いた。

 多分ごく僅かな時間だったのだろう。しかし食堂に居合わせた人々にとって、数秒が数分にも感じる沈黙だった。

 エツコが溢れる涙を拭って笑顔を作り

 「はい、お願いします」

 と答えて、同時にまた大粒の涙を落とした。

 食堂の社員たちは、エツコを知る者も知らない者も関係なしに皆、穏やかな笑みを浮かべて、エツコに、そしてその手に握られた、スマートフォンの向こうに居る、トオルにも賛辞を贈った。最初、戸惑いながらも

 「エツコの同僚の皆さんですか? ありがとうございます」

 などと明るく答えていたトオルだったが、少しして、トーンを落として言った。

 「けど、もう駄目みたいです」

 テレビ画面のトオルがドローンから顔を背け、遠くを眺めている。追従する形でドローンが空中で転回してトオルの視線を追うと、埋立地の大地が途切れ、その向こうには無慈悲にも東京湾が広がっていた。

 その光景は、その場に居る誰しもに、絶望と何も出来ない無力感を一様にもたらし、誰もが口を閉ざした。

 「エツコ、ごめんな。それと、プロポーズ受けてくれて、ありがとうな。俺が死んだら、なるべく早く忘れて、幸せに、なって、くれな?」

 途中から途切れ途切れになったトオルの声は、最後には子供の様に泣きじゃくる声になり、誰に当てる訳でもない、悲痛な疑問になっていた。

 「なんでだよぉ、俺が何したんだよ? せっかく正社員にもなれて、ずっとずっと大好きだった女にプロポーズして、受けてもらえて、これから始まる所だったじゃんかよぉ? 何でなんだよぉ・・・」

 テレビから聞こえる、トオルの声に、全国のお茶の間さえもが水を打った様に静まり返っていたその時だった。

 「メソメソしてんじゃないわよ! もっとシャキッとしなきゃ、幸せも奥さんも逃げちゃうわよ! ほら、笑って笑って、スマイルスマイル!」

 その声はお台場の至る所に設置されたスピーカーから発せられていた。かなりの音量だった為、ドローンのマイクが拾い、テレビからも流れたに留まらず、トオルの携帯電話を通じて、エツコのスマートフォンにも直接聞こえた。

 「さぁ、今からあんた達乗客全員助けるわよ! ご協力頂いた警察の皆さん、準備は良いかしら!? ワタシの指示に完璧に従ってちょうだい。一センチでもズレたら懲戒モンだから気をつけてね!」

 突然の声の主は、今はまだ殆どの人が知らない、けれど、事件収束後、日本国内はおろか、顛末が報じられた世界中のあらゆる国々で、知らぬ者無しと言われるに至る人物だった。

 その名は、内閣情報調査室副室長、桐ヶ谷 香澄!


 元町との通話の後、香澄はマリンシティホイールが既に通過した場所を調べていた。

 破壊された物とそうでない物、それらが元々あった場所の地面の素材に到るまでの全てを考慮して香澄が選び出した「置き石」は、ただのコンクリートブロックだった。しかしそれは、入手が容易で短時間で数量を集められ、積み重ねたり、置き方を変える事で柔軟に対象に加える転進の力を変えるのに向きの物であるのだ。

 加えて湾岸署を中心に近隣の警官を集められるだけ集め、その設置に当たらせる構えだ。設置場所と個数等は先のスピーチで使用した防災用の音声誘導に使うスピーカーを用いる。これらの事を短時間の内に可能にした、内閣情報調査室室長、元町壬午の交渉能力は並の政治家のそれを遥かに上回っていると言えるだろう。

 「状況開始!」

 香澄の短い号令により集められた警官達が事前に取り決められた場所に散って行く。その中には、つい先ほど、香澄のフェラーリを追跡した木本と仲村の姿もあった。坂上と名乗った公安捜査官の言う通り、あの後、所属上長からお台場の現地へ向かえとの命が下り、今は香澄の指揮下にあるという訳だ。

 「第一班、所定の位置に到着し次第測量を開始! 左前方の街灯に向かって右十八度、距離二百十、縦向き平置き二段横二列で設置!」

 香澄の手元には彼女愛用のノートパソコンがある。その中には物理演算のソフトウェアもインストールされていて、崩壊地点及び、今までの経路上にある破壊された物の材質や壊れ方等から観覧車の重量を計算し、その数値を元にコンクリートブロックをどういった数、場所、向き、高さで配置したら良いかのシミュレートが成されている。とは言え、そもそも重量計算の時点でオートマチックにとは行かない。香澄の明晰な頭脳あったればこその成果である。

 「次いで第六班、右手正面の自動販売機に向けて垂直に距離百二十、横向き平縦置き一段横五列で設置!」

 次々にそして的確に指示を出していく香澄の目の前を、マリンシティホイールが轟音と破壊を残して通過して行く。周囲に居た警官達は腕で頭や顔をかばったが、香澄だけは一切たじろぐ事無く、ノートパソコンの画面に食い入る様に対峙していた。

 「予想指揮所通過時間、誤差2秒! 配置済みの班は、ブロックの側面に平行に距離三十後方へ修正! 完了し次第退避を急げ!」

 国際展示場の前を通過したマリンシティホイールを見ながら香澄は尚も指示を出し続ける。その終点はレインボーブリッジを渡った向こう側、芝浦埠頭方面である。そこまで誘導しきった後は元町による指示を待つ事になる。

 無線の通信機が僅かなザッピングを吐き出した後、第一班からの報告を伝える。

 「第一班、只今、対象が接近中、目算であと二十秒ほどでブロック設置箇所。…三、ニ、一、通過!」

 バキャッという、思ったよりも高い音が第一班の周囲に響く。一瞬だけブロックを破砕した直下位置のゴンドラが左に傾ぐように浮き上がり、すぐに着地する。

 「第一班、視認! 左前方、第二班方面への転進を確認!」

 とりあえず一回目は成功したようだ。重量と速度、ブロックの耐加重の計算は間違っていなかったと言えるだろう。とは言え、そこで安心できる程安易な事ではないし、無論、一息つくような香澄でもない。

 次いで第二班、第三班からも成功の報告が入り、いよいよレインボーブリッジへ向かう道に差しかかる。そこには香澄にとって唯一の不安があった。上り坂である。現状の速度と慣性、そして重量が合わされば、登る事は理論上不可能ではないはずだ。しかし、仮にそこを失敗する様な事があれば一貫の終わり、乗客を乗せたままフェリー埠頭公園側の海へと沈むだろう。そんな事はあってはならない。ついさっき全員を助けると大見栄を切ったばかりではないか。その一抹の不安を押し殺すように、香澄は両肘をつかむ両手に力を込めた。


 ドォンという音と共に左へ、そして右へと揺れるゴンドラの中で、トオルは信じられない光景を見ていた。それまで海へ死へとただひたすらに進んでいた、自らの乗る観覧車が、進む方向を変えながら陸地の続く方へと進んで行くのだ。これを現実の光景として見ろと言う方が難しい。

 エツコもまた見ていた。香澄の声に一抹の希望を見出し、愛する男の生還を願いながらも、どこか諦めざるを得ないのかも知れないと思う自らの弱さを払拭するその光景を。

 二人だけではない。エツコの周囲に居る者たちも、また他の乗客達も、その家族や恋人も、テレビ局の取材クルーや、コンクリートブロックの敷設に携わった警官達でさえ、その光景がまるで魔法か何かの様に思えてならなかった。ただ一人、不安を、恐れを抱く、香澄以外は。

 「あああああああああっ!!」

 それまで指示を終え祈りの沈黙に落ちていた香澄が吠えた。

 死なせたくない。ただそれだけの願いだった。

 あの二人、幸せそうだったな。

 香澄は叫ぶ前にそんな事を思っていた。トオルとエツコの会話、プロポーズ、嬉しい涙と弾んだ声色。そういった物が耳に残っていた。胸の奥の方、心臓のさらに中心、そこにある心が、じんわりとでも確実に温かくなる様な感覚。知に長け、反射神経も体力も人を抜きんでる香澄が唯一と言って良いくらいに手にできなかった物。幼い容貌幼い体型。むしろそれが良いと言って憚らない者も居た。だがそれは性癖の話であって、一人の人間として誰かが私を愛した事は無かったな。そう思うと、温かであったはずの心がチクリチクリと痛む。だがそれは私個人の感傷に過ぎない。あの二人を、それ以外の全ての乗客と、彼らを待つ全ての人の願いを、幸せを、壊す訳には行かない。ここだ、この橋に続く道を上がり、その勢いがまだ死んでいないなら勝機はある。だから、今はただそれを祈るだけだ。

 「登れぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」

 小さな胸に貯まった様々な想いは、全て今この瞬間の為にあった。そう言わんばかりに渾身の声で香澄が叫んだ。

 もう指示は終わったのだ。スピーカーは通して居ない。けれども香澄の魂の叫びは確かにその場に居合わせた全ての者の耳に届いた。誰が最初にというでもなく全ての者が叫び、成功を願って、そして信じていた。

 ゴンドラの中で叫ぶトオルも体感的に観覧車自体の慣性の力が削がれ、徐々に速度が下がっている事を感じていた。無論、停止するのならば願っても無い事だ。しかし今は上り坂の途中。背後に目をやれば右手から繋がる東京湾が見え、登りきる事ができなければ、我が身もろともマリンシティホイールはそこに沈むだろう事は明白だった。

 ドゴン……ドゴン………ドゴン…………ドゴン……………ドゴ…ン………………ド…ゴ…ズズズ

 香澄は目を剥き今、まさに停止するマリンシティホイールを凝視した。駄目だ、あれではまだ登り切っていない。失敗だ。自分の計算が甘かったのだ。喉の奥から声にならぬ息を吐き出して香澄の膝が折れて地面に着く。

 ゴンドラの中の乗客達も未だここが上り坂の頂上では無い事を気付いていた。

 ヤバイの三文字が頭を支配する。と同時に誰からという訳では無く、無論申し合わせる事などできない彼らが自発的に同じ行動に出る。老いも若きも男も女も関係なしに一斉に自らの体を進行方向側のシートに勢いを付けて打ちつけたのだ。マリンシティホイール全体から見れば、わずかな重量にすぎないが、それでも自分達に残された術があるならと皆次々にそうしたのである。

 ………………………………………ド…ゴン………………ドゴ…ン………ドゴン……ドゴン

 歯を食いしばり固く瞼を閉じてうなだれる香澄の耳に音が届いた。しかしその音は香澄のイメージする、こちら側に近づいてくる、つまり登りきらなかった坂を転がり落ちて来る音では無かった。少しずつではあるが遠のいている。

 まさか。はじかれる様に視線を向けた先に広がっていたのは、坂の途中で停止したはずのマリンシティホイールが再度動きだし、遂には登り切る光景だった。

 あの先は緩やかながら内地へむけて下っている。静止させる事は能わなかった。しかし、なんとかレンボーブリッジを渡らせるという当初の計画を達成できた事で、ようやく香澄は力を抜いて大きなため息をついた。

 その後は香澄の想定した通り、緩やかな下りで速度を僅かとは言え増して、遂に不可能とも思われたレインボーブリッジの通過を確認したのである。

 その報せを無線で確認した香澄が、先のスピーカーで

 「状況終了。以降の救助活動を後任の者達に委ねる!」

 と短くも達成した高揚で弾む声に、警官達からシュプレヒコールが巻き起こり、テレビ各局の取材クルー達も興奮冷めやらぬといった様子で、その報をカメラに向けた。

 マリンシティホイールは東京の街に進路を取ったのである。乗客達も命の危険から脱した事に胸を撫で下ろし、力が抜けてヘタり込む者も多かったが、しかしまだ予断は許されない状況である事に変わりは無い。むしろ民家や高層ビル等がひしめく東京本土に降り立った事で、更なる破壊が始まろうとしているのだった。

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