一章 桐ケ谷香澄、現着

「お嬢ちゃんすげぇぞぉ!」

 中華料理の店を歓声が飛び交っている。お世辞にも広いとも綺麗だとも言えない店だが、古くから学生街で営むこの店は、安くて味も良く、その上、盛りも豪快とあり、近隣の大学に通う若者たちに世代を越えて愛され続けていた。

 この店にはメニュー採用されて以来、成功者が片手で数える程しか居ない事で名を馳せる、大盛りチャレンジメニューがある。その量たるや、餃子二百個に炒飯二キロ、さらに駄目押しに二十玉分の特大ラーメンと、実物を見る前に文字で読んだだけで胃がもたれて来そうな、嫌がらせか何かと感じる程に、これでもか、これでもか、と盛りに盛られてやってくる。

 無論、チャレンジメニューというからには、この全てを1時間以内で完食すれば無料になる。またチャレンジに失敗しても、わずか五千円で、タッパに詰めて持ち帰る事ができるとあり、チャレンジメニューとしての側面より、経済状況に苦しい学生達に、格安で、たらふく飯を食わせてやろうという店の親父さんの優しさが垣間見える名物メニューとして親しまれている。

 とは言え、一年に一人くらいは、本気で完食を狙いに来る客も居るし、五年に一人くらいは、実際に完食する豪の者も居て、そんな時、店は大いに盛り上がる。しかし、今まさに歓声の中心でチャレンジメニューに挑戦している者は、腹をすかせた学生客や、海千山千の大食い達をさんざん目にしてきた店の親父さんでさえ、当初は何かの間違いではないかと思わせるに十分な容姿をしていた。


 「チャレンジメニュー、ワタシがクリアしてあげる。さ、持って来て。」

 テーブル席に一人で座り、そう言ってのけたのは、身の丈百四十センチ、体重はどう見ても四十キロも無いと、誰でもが分かる少女だった。

 店の親父も困った様子で笑って、そりゃ無料だよと言ったし、店の常連である学生達も、自分が食す、ノーマルサイズの、ラーメン・餃子・炒飯のセットを見せて、この何十倍もあるんだぞと言って聞かせても、少女は、食べられる、もし駄目でもお金だって持っているの一点張りで、根負けというより、だったらやって見せろという、腹立たしいに近い感じで親父が言い放ち、少女の挑戦が始まった。

 最初に箸が伸びたのは餃子だった。皿に盛られた膨大な数の内、二つを一度に摘み上げ、酢:醤油:辣油=5:2:1にしたタレに、広範囲が付くように、けれど餡に沁みぬ様に短く浸して口に運ぶ。熱がる素振りも見せず、五〜六回咀嚼して飲み込む。これを十回程繰り返して尚、五分と経過していない。餃子の数に換算すれば既に二十個が、少女の小さく細い体に吸い込まれている。その頃にはもう少女に冷笑を向ける者もなく、驚きと同時に高揚にも近い空気が店内に出始めていた。

 挑戦開始から二十分。まだ制限時間の三分の一を経過しただけだ。にも関わらず、当初、山どころか山脈の様に、テーブルからはみ出さんばかりに並んでいた料理は既に半分近くが少女の体に溶けて消えていた。それだけでも店内の誰しもを驚かせるに値する事実だが、圧巻だったのは、むしろその後だった。

 「さ、そろそろエンジンかけて行っちゃうかなぁ!」

 そう言い放つと、少女は使っていた箸を水平に口に咥え、もう一本箸を割って左右の手に、二刀流よろしく二箸流に構えた。

 そんな事が可能なのか。常連客達も、店の親父もが固唾を呑んで少女が動き出すのを待った。


 ラーメン、餃子、ラーメン、餃子、右手の箸を小指と薬指で保持してレンゲを持っての炒飯、ラーメン、炒飯、餃子、餃子、餃子、ラーメン、ラーメン、炒飯、炒飯、炒飯、ラーメン、餃子、ラーメン、餃子、餃子、餃子、炒飯、炒飯、水、ラーメン、ラーメン、餃子、ラーメン(麺が無くなる)、ラーメンスープ、ラーメンチャーシュー、ラーメンチャーシュー、炒飯、炒飯、ラーメンスープ、餃子、餃子、ラーメンスープ、餃子、餃子、餃子、炒飯、炒飯、炒飯、炒飯、炒飯、ラーメンチャーシュー、ラーメンスープ、炒飯、餃子、餃子、炒飯、炒飯、餃子、炒飯、餃子、炒飯、ラーメンスープ、炒飯、炒飯、餃子、餃子、餃子・・・


 大食い番組などが隆盛な昨今、様々な「技」を持つ選手が居るが、なるほどどうして、二刀流というのは見た事がない。西洋式にナイフとフォークを使う食事もある訳だから、左右の手から交互に口に運ぶというのも決して無理な話ではない。それも今回の様に複数の大皿から食事を取る必要があれば、むしろ合理的ですらある。しかし最大にして最も難易度の高いのは、むしろ嚥下にこそあるだろう。口に放り込むだけなら出来ても、少ない咀嚼回数で飲み下す事が出来なければ、ただただ口内に溜まっていく一方になり、口の容量以上に皿から料理が減ることは無い。しかし少女の頬は、口に入れた直後こそ膨れはするものの、咀嚼の度に見る間にしぼんで次の一口が来るまでには、きれいサッパリ空っぽになっている。

 しかし、そんな超人的とも言える妙技は、そう長くは続かなかった。少女の胃に限界がきた? 違う。むしろその逆だ。麺や具を平らげきったラーメンのスープをも飲み干し、餃子を最後は三個まとめて食した少女は、両手の箸だけをテーブルの隅に置き、残り僅か(とは言え、通常メニューの半人前以上の量がある)となった炒飯にトドメを指しにかかる。

 そもそも両手で料理を口に運んで居たわけだから、当然と言えば当然の話、器を持ち上げ口に付けてガッつく様な食べ方を少女は一度もしていない。優雅という言葉さえ当てはまる。だから炒飯の最後の一口であっても、米粒をレンゲで集める為に片手で皿を持ち上げる程度の事はあったが、終始、そのスタイルを崩さぬまま、脅威のチャレンジメニュー、六人目の、そして史上最速の完食達成者になったのである。ちなみにタイムは、四十八分「約」四十秒だった。少女の食べっぷりに高揚しきっていた店の親父が、ストップウォッチのボタンを押し忘れたのだ。

 歓声に包まれる店内、挑戦開始前の非礼を詫びる親父、あまりの盛り上がりに何事かと店を覗いた通行人。それらを尻目に少女は言った。

 「食後のデザートは、杏仁豆腐が良いわ。あ、大盛りでね」

 その後、客達からは握手を求められ、親父からは完食認定証を贈られ、店内掲示用の写真を撮らせてくれと頼まれた少女は、写真かぁ、と独りごちたが、終いには

 「まぁ良いわ。綺麗に撮ってね」

 と言って、ピースサインと笑顔を向けた。

 その途端、少女のカバンの中から音楽が流れた。

『DESTRUCTIVE POWER』。プロレスラー高山善廣の入場曲だ。それもNO FEAR時代のアレンジの掛かっていないオリジナル版。

 「あ、ごめん、ちょっと待って」

 なんと少女の携帯着信音だった。似つかわしくないにも程がある。

 スマホ画面に目を落とし、発信者の名前を見た瞬間、少女の顔付きが変わる。

 脅威の大盛りチャレンジメニューに相対している時の、楽しげとも挑戦的とも取れる、けれど料理に対する真摯さを忍ばせる表情とは違う。完食後、常連客達や店の親父に対して、滝の様な汗をかきながら向けた、満足と一緒に盛り上がった仲間達への感謝の笑みとも違う。そう、言うなれば「スイッチが入った」様な真剣さ、物理的な力として感じる程にピリリと刺さる様な空気を纏った声色だった。

 「桐ヶ谷とうがやです」

 そう相手に対して発した、最初の一言以外は、概して「ええ」とか「はい」、「了解しました」といった言葉だけで、誰を相手に、どういった話をしているのか、まるで周囲には分からない。しばらくそうした通話をしていた少女だったが

 「分かりました、急行します」

 と言って電話を切った。

 心配、というか、何事が起きたのかといった風で、対応に困っていた親父に少女は、心底申し訳無さ気な声色で、眉を潜めながら微笑んで言った。

 「親父さん、ごめん。もう行かなきゃ。すっごく美味しかったから、また来るね。写真はその時に。杏仁の代金、これでお願い」

 少女の手には、滅多にお目にかかる物ではない、マスターカードのブラックカードが揺れていた。


 少女、と物語の便宜上そう書いていたが、そんな歳ではない。齢二十八を数えるれっきとした大人だ。本人が電話口で名乗ったとおり、桐ヶ谷という。フルネームは桐ヶ谷 香澄。電話をしてきたのは彼女の上司である男で、緊急事態の発生を伝え、現場への速やかな移動を通達してきたのだ。

 香澄は中華料理店を出た後、足速に近所のコインパーキングに向かった。そこには彼女の愛馬が止めてある。そう、愛車ではなく、愛馬。詰まるところ、フェラーリである。F12ベルリネッタ。8600rpmの回転速度から生み出される300km/hを優に超える最高速度を打ち出す史上最速の跳ね馬である。無論、通常時に公道でそんな速度を出す程、香澄は馬鹿ではない。しかし職務にあれば、そして上司から緊急事態を告げられた今ならば話は違う。コインパーキングを出て、何本か路地を曲がって幹線道路に出た所で、パトランプを屋根に載せ、三速から流れる様なクラッチを繋ぎ、一気に六速にシフトレバーをぶち込む。無論アクセルはベタ踏み、パトランプが昼にも尚眩しく光って回り、大音響が周囲を支配する。

 今居る阿佐ヶ谷から事案が発生した現場までは一般車でも渋滞さえなければ、高速を使って三十分といった距離だ。しかし、香澄の跳ね馬ならものの十五分だ。無論、他の車両を避けて疾走する超絶ドライビングテクニックあっての話ではある。

 香澄の運転技術は生半可ではない。国際B級ライセンスを保持していると言えば、少々ありがちに聞こえるかもしれないが、実の所、その敷居は非常に高い。まず国内のB級から始まりA級に昇格するライセンスが前提になる訳だが、これは割と楽に取得できる。合格率は九十パーセントとさえ言われ、趣味で自動車を運転する一般人でも取れるレベルだ。しかし問題はC級から始まる国際ライセンスの取得難易度にある。

 国際C級ライセンスは、JAF主催によるレースを二回以上完走する事で取得できる。仮にもレースと冠したイベントであり、ドライバーが単身、普段乗っている車で「出たいでーす」と言って、出られる訳ではない。バックアップをするチームありきでエントリーし、それなりの金子を費やして完走、及び入賞を目指すのだ。それだけでも既に個人の趣味の範疇を越えている。無論レース中のアクシデントにより、完走できない事だってある。そういったハードルを越えた完走という結果を二回、それも申請から一年以内に出さなければならない。更に香澄の持つ国際B級ライセンスともなれば、申請から二年以内に、全日本選手権やそれに類する各国の国内トップレースを実に五回以上完走しなければならず、そこまで到達できる者は一握りといった数になる。ちなみに、その先になるA級ライセンスはB級ライセンス保持を前提に出走できる五戦以上の継続したレースで総合五位以上の成績を収める事で取得できる。具体的に言えばフォーミュラー・ニッポン総合五位以内に相当し、更に戦績を重ねる事で、F1ドライバーの資格であるスーパードライバーライセンスに辿りつく事が出来る。つまり、F1を見ていてしょっちゅうマシンを壊してリタイアする、アイツやアイツ、それからアイツなども決してヘタクソなどではなく、むしろ物凄いドライビングテクを持った人達なのだ。


 青梅街道から二十号を抜け、渋谷から首都高四号に上がろうとした香澄の跳ね馬に、フェアレディZの警察車両が張りついた。

 「赤いフェラーリ、停止しなさい。速度超過、危険運転、更には赤色回転灯の無許可使用です」

パトカーから停止命令が出たが、香澄は意に介さず、そのままETCレーンに向かう。停止命令を無視された形になったパトカーも、管轄じゃない等と杓子定規な事を言っている場合ではない。何せ時速三百キロの暴走車だ。一般車に危険が及ぶ可能性もあるし、そのドライバーは危険ドラッグなどの服用の疑いさえある。何より、ノーリアクションで停止命令を無視された事に個人的感情としてもカチンと来ている。

 ハンドルを握る警官が、助手席に居る相方に、ETCを抜ける為に一時的に速度を落としたフェラーリのナンバーの確認と、本部への照合を短く指示する。

 ナンバーの照合結果はすぐに返ってきた。しかし、その声はいつものオペレート担当の女性の声ではなく、如何にも現場で叩き上げましたと言わんばかりの男の野太い声だった。

 「公安の坂上です。照合のあった車両、永田町ナンバーというのは本当ですか?」

 「交通機動隊所属、仲村巡査であります。間違いありません。永田町、ヒトマルマル、あ」

 仲村と名乗った巡査がそこまで言った時、無線の相手である坂上という公安捜査官が遮って返す。

 「結構です。対象車両は追跡の必要はありません。ただちに警戒を解き通常警らに戻ってください。」

 「ちょっと、そりゃ無いでしょう、対象は時速三百キロで暴走中です。このまま放置すれば一般車との重大事故の恐れさえあります。そもそも、この速度、尋常な精神状態だとは到底思えません。何か違法性のある薬物の服用だって疑わしい。これを放置せよと言われるんですか、捜査官どのは!」

 それまで運転に集中していたハンドルを握った警官が割って入る。

 「失礼、官職と姓名を」

 坂上から短い返答がすぐに入る。

 「交通機動隊巡査長、木本です」

 「木本さん、巡査長ですか。ふむ、まぁ良いでしょう。官職で差別するつもりはありませんが、与えられる情報量の差、というのもありますので、巡査長の職責を持たれる方になら、良いでしょう。現在、そちらで追跡されている車両は、内閣情報調査室の所有車両です。おそらく運転者は桐ケ谷香澄副室長。国際B級ライセンスを保持する凄腕の捜査官です。彼女が運転して居る限り、滅多な事で事故には発展しない。また、赤色回転灯を使用していると言う事は、内閣情報調査室の緊急事案に対していると見るのが妥当です。したがって事態によっては我々公安の外事や、そちらの機動隊などにも別命があるやもしれません。それまではなにとぞ事を荒立てぬ様。市民にいらぬ不安を与えてしまう恐れがあります」

 内閣情報調査室。耳にした事はある。警察とも公安とも異なる総理大臣直属の捜査組織だったはずだ。いわゆる日本の諜報部だ。

 女王陛下にジェームズボンドが居た様に、国政の最高権力者と諜報員というスタイルは日本でも同様というわけだ。

 「…わかりました。追跡を中止します。」

 「木本さん!? 納得できませんよ、あんなの誰がどう見たって危ないに決まってるじゃないですか!」

 一瞬の逡巡の後に 坂上に従った木本に仲村が抗議を試みようとしたその時、当該の暴走車、つまりは香澄の運転するフェラーリが、進路を首都高臨海副都心の出口に向かって行くのが見えた。

 「いいか、仲村。俺達の仕事はとりあえずここまでだ。確かにあの走りは危ない。だけどな、多分だが、この程度の危険なんて目じゃないぐらいの任務ってのが、あれを運転してる奴にはあるって事だ。こそばゆい言い方だが、お前や勿論俺だって持ってる正義も、奴さんの正義も、やっぱり同じ正義だって事なんじゃねぇかな?」

 その言葉に何らかの納得を得たのか、仲村の滾った感情は、三百キロの高速チェイスから惰性走行に移った自らの乗る最新鋭のパトカーの様に、ゆるゆると下がって行った。

 夏休みを満喫するべく、有明方面へと向かう車列は、何事も無かったかのように平穏だった。


 異様な光景だった。

 内閣情報調査室室長、元町壬午もとまちじんごに先んじて状況を知らされていたとは言え、観覧車が地面を転がっている様は、目の当たりにすると我が目を疑う程に異様だった。

 しかし中には乗客が取り残されているし、その転がるルートには悉く破壊が齎されている。日本国家の人民の生命と財産を守る。それは我が身に課せられた職務であり責務、そして生き甲斐なのだと香澄はおぞける肌を抱いてマリーンシティホイールを見やる。

 突如スマホが着信を告げる。元町だ。

 「はい、桐ケ谷です。ちょうど現着した所です。対象も視認しました。」

 「どうだ、止められそうか。乗客を殺さずに。」

 「非常に難しいと感じました。現在は惰性によって転がっていますが、その進行方向は海です。なんとかして方向を変えてやならいと、乗客は溺死します。」

 「方向を変える?」

 「はい、来る途中に考えていたのですが、例えばガムテープを床にボーリングの様に転がしたとします。ボーリングのレーンの様に磨きあげられた床なら直進するなり、アンジュレーションや投擲時の回転のかけ方で曲がる程度の事はありますが、ただの床なら、そこに凹凸があれば、それによって投げられたガムテープは方向を変えます。」

 「なるほど。起き石をしてやる事で、あの観覧車を被害の無い場所へ誘導しようと言う事か。」

 「簡単に言えばそうなります。ただ、現状として、どこに向かわせれば良いかは私の一存では決めかねます。室長、もしくは総理の指示を頂ければと思います。」

 「自分はともかく、総理の意思というのは、いささか難しいだろう。何せ内閣あっての政府であり総理だ。一刻を争う現状に対してポンと結論が出るとは思えない。仕方ない。後で総理には自分から事後報告するとしよう。ベイブリッジを通過させて、都心部へ誘導、しかる後に安全の確保ができた近隣の公園などで対象を停止させよう。」

 「了解しました。まずは起き石になり得る物をサイズ、形状、硬度を加味して試して行きます。」

 「分かってるとは思うが、対象への接近は相当な危険を伴う。くれぐれも気を付けてくれ。」

 「了解です。室長は、総理への報告と、想定しうるリスクへの対処を願います。」

 「こちらも了解だ。では、通信終了。」

 沈黙したスマホを二~三秒見つめていた香澄は、マリンシティホイールを仰ぎ見る。

 「…置き石ねぇ。何が良いのかねぇ…」


 事案発生一日目、午後三時二十七分。香澄が現着した十五分後には、レインボーブリッジの完全封鎖が完了していた。

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