**幕間**

第30話



【だれかのいつか(なんちゃって)】


 小さい頃は、ルリボシカミキリムシが好きだった。

 きれいな水色の体に、みよんと伸びた触覚の先まで続く、真っ黒の斑点。

 当時の自分が、その姿のどこをどうして気に入ったのかはよく分からない。だけど、こども用の大百科事典でその虫を初めて見た時、これが好きだと強く思った。

 色々なものが載っている大百科の昆虫ページばかり眺めている自分を、家族は「やっぱり男の子だ」と笑っていた。同じページにはカブトムシやクワガタのような人気者や、ルリボシカミキリに負けないくらい鮮やかな外国のチョウチョなんかも載っていたけど、それでも自分にとっては、そのカミキリムシが一等だった。

「男の子が好きなものなら、こっちはどうかな」

 祖父がくれた車の本は、自分よりそれに夢中になった、弟のものになった。

「やっぱり虫の方が好きなんだねぇ」

 祖母が買ってくれた分厚い昆虫図鑑は嬉しかったけど、ルリボシカミキリ以上に良いと思えた虫は、300ページを超えるその中にも見つからなかった。

「このまま虫博士になっちゃいそうな勢いね」

「大好きなものがあるのはいいことだ」

 そう言って笑う家族は、どうやら少し誤解をしていた。

 自分が好きなのはルリボシカミキリであって、虫全般が好きなのではない。

 でも、そのカミキリムシ以外の虫全般にはまるで興味が無かったかというと、そういう訳でもなかったため、わざわざその誤解を解こうとは思わなかった。

 

 七歳の誕生日プレゼントとして、自転車を買って貰えることになった。

 連れて行ってもらったホームセンターの自転車売り場で、

「どれがいい?」

「さぁ、好きなのを選んでごらん」

 そう尋ねられ、この場に来た時から目を奪われていた自転車に一目散に駆け寄った。

 水色の車体に、黒のサドルとペダルとタイヤ。

 そのさっぱりとしたカラーの組み合わせは、自分にとってルリボシカミキリの色にしか見えなかった。だから、絶対にこれがいいと、一目見た時から決めていた。

 多分、その時の家族は、自分がそれを選んだ理由には気付いていなかった。

 それでもその選択肢はなぜかとても喜ばれて、

「すっごくオシャレな自転車ね、カッコイイじゃない」

「うん、良いのを選んだなぁ」

 と、すんなり受け入れられた。

 そのまま問題無く購入となるかと思いきや、一緒に来ていた弟が泣き出した。

「ぼくも、じてんしゃほしい!」

 口ぐちに褒められる自転車を、兄だけが与えられる。

 そんな光景を目の前にしていて、どうしても我慢し切れなかったらしい。

 大きく肩をふるわせて泣く弟がその日に着ていたのは、自分のお下がりだった。泣きじゃくる弟を見ていると、なんとなく心がもやもやとして、困った顔で弟を諦めさせようとする母に、自分はいいから弟に買ってやってほしいと頼んだ。

「そうはいかないでしょ、あなたの誕生日プレゼントなんだから」

 母は困った顔をこちらにも向け、

「じてんしゃで、にいちゃんと走りたいの、いっしょに!」

 弟は手を伸ばして抱きついてきた。

「ほんとに仲が良いな」

「これはもう、買ってあげるしかなさそうじゃない?」

 大人たちの間でしばらくの問答はあったようだけど、結局その日、自転車は二台買われることになった。水色のものと同じ型の、色違いの黄緑色の自転車を買って貰い、弟はひどく御満悦の表情を浮かべていた。

「いい? ちゃんと大事にするのよ」

 母の言葉に、二人で揃って大きく頷いた。


 自転車を買ってもらってしばらくした日、弟と二人、留守番をしていた。

 こういう日は度々あって、そういう時にはほとんど家で大人しく過ごすようにしていた。弟には外で遊びたいという思いもあったようだけど、その日も相変わらず昆虫図鑑を開いている兄を、自分から誘い出そうとする気まではなかったようだ。

「にいちゃんがいちばん好きな虫ってどれ?」

 それまで読んでいた本を横にずらして、こちらに寄ってきた弟が尋ねた。

 こいつだよと指差したのは当然のごとくルリボシカミキリで、

「この黒いぶつぶつのあるやつ?」

 弟の訝しげな声色と斑点の表現に、思わず笑った。

 お前はこいつ嫌い? と尋ねると、弟はぶんぶん首を振った。

 そして、嬉しそうに、

「これ、にいちゃんのじてんしゃとおんなじ色だ」

 と、笑った。

 他の家族には気付かれなかったのに、弟はすぐに思い当たったのだ。

 そのことに少しびっくりして、それから、ものすごく嬉しくなった。

「にいちゃんのじてんしゃ、ぶつぶつ足したらもっとおんなじになるかな」

 だからその時の自分は少し浮かれていて、普段なら思うだけで実行しないようなことに取り掛かってしまったんだろうと思う。

 弟の言葉を聞いてすぐに、マジックを持って庭先に出た。

 二台並べて停めてある自転車の、水色の方を少し動かした。弟と一緒にその自転車の前にしゃがみ込み、きゅぱっとマジックのキャップを外して、それから。

 新品の自転車に「ぶつぶつ」を付け足すことに、躊躇いはなかった。

 しかし、意気揚々と始めたものの、すぐに頭を悩ませることになった。

 チェーンをカバーする箇所のような平面はまだしも、曲面を塗るのは難しい。なかなか思ったように上手くいかない上に、黒い斑点を増やせど増やせど、これこそルリボシカミキリ、というような感じも出てこなかった。

 やっぱりあの体の形や触覚が大事なんだろうかと考えている自分をよそに、

「にいちゃんの終わったら、ぼくのもやろうね!」

 きゅいきゅいとマジックの音を立てる弟は、とても楽しそうだった。

 やがて、始めから色の薄かった弟のマジックが出なくなり、弟は替わりのペンを探してくると行って一度家の中に入っていった。

 母が帰ってきたのは、その入れ替わりくらいのタイミングだった。

「なにしてるの!」

 目を吊り上げた母のそんな顔を見るのは久しぶりで、その顔を見た瞬間から、自分のしたことは母にとっては良くないことだったのだと分かった。

 その場で叱られていると、玄関から涙目になってこちらを見ている弟に気付いた。

 こちらが気付いたことで弟は慌てて出てこようとしたが、母に見つからないようにこっそりと、家に入ってろ、とジェスチャーを送ると、口をぎゅっと結んでその通りにした。

「どうしてこんなことしたの」

 やがて声を荒げるのをやめ、母が尋ねた。

 かっこよくなると思った、という答えは、母を納得させることは出来なかった。

「それで、どうだった? かっこよくなったの? ちゃんと見てみなさい、お母さんは前のままの方がずっとずっとカッコイイ自転車だったと思うよ」

 その後に続いた、

「こんな点々なんてつけて」

 という非難は、自分の大好きな虫を否定されたように聞こえた。

 自分は、ルリボシカミキリみたいにしたかっただけなんだ。

 本当は、母にもその気持ちを分かって欲しかった。

 でも、結局仕上がりは上手くいかなかったし、確かに斑点を増やす前の自転車でも自分は充分気に入っていたし、その気に入っていた自転車に余計なものを付け足したというのは紛れもない事実だったため、母に向かってごめんなさいと頭を下げた。

 マジックを握りしめたまま部屋に帰ると、体育座りをしていた弟がパッと顔を上げた。

「ごめんね。にいちゃんだけ怒られて、ぼく怒られなくて、ごめん」

 顔を真っ赤にした弟は、ぼろぼろと涙をこぼしていた。

 自分がやり始めたことなのだから、自分が怒られるのは仕方ない。ぼくもやる、と言った弟を止めず、マジックを二本準備したのも自分だ。だから弟は悪くない。

 それなのに、自分は弟を泣かせてしまった。そう思うと、母に怒られていた時よりも悪いことをした気分になった。

 それからも泣き続けていた弟が、ふと、こちらを見上げて言った。

「ぼくのじてんしゃもぶつぶつ描いたら、おかあさん、また怒るかなぁ」

 怒られると思う、と頷くと、弟はぐしゃりとますます顔を歪めた。

「じゃあぼくの、かっこいい虫のじてんしゃじゃないまま? にいちゃんのとちがう、ただのじてんしゃ?」

 にいちゃんといっしょがいい、と泣きじゃくる弟に、しばらく考えた。

 そしてぱらぱらと図鑑を捲って、目当てのものが映るページを見つけると、兄ちゃんはこいつもかっこよくて好きだよ、とそのページを差し出した。

 細長くて黄緑色の虫が、威嚇するように二つのカマを高く掲げている、そのページ。

「カマキリ? にいちゃん、カマキリ好きなの?」

 弟でも、庭や公園でよく見るその虫の名前は、さすがに知っていたらしい。

 こいつにはぶつぶつ無いだろ、お前の自転車はカマキリの自転車なんだよ。

 だからあのままぶつぶつ無いのがいいんだ、と言うと、最後にひとつ涙を落したきり、弟は笑顔に変わった。図鑑を勢いよく指差して、声を上げる。

「カマキリ、ぼくも好き! ぼくのもおんなじ、虫のじてんしゃ! にいちゃんがカミキリムシで、ぼくのがカマキリ! どっちもかっこいいね!」

 それを聞きながら、偶然こっちも一文字ちがいだな、と思っていた。

 自分と弟の名前も、『カミキリ』と『カマキリ』のように一文字ちがいなのだ。

 その発見を教えてやる前に、ねぇにいちゃん、と弟はぱちりと瞬きをした。

「カマキリとカミキリムシって、どっちがつよい?」

 その時の自分にはその答えは分からなくて、そして自分もその答えが気になってきて、すっかり泣きやんだ弟と二人していろいろと予想を立てた末に、今度一緒に大きな図書館に行って調べてみようと約束をした。

「にいちゃん、そんとき、じてんしゃで行こうね」

「そうしよっか、晴れてたらね」

 そんな具合に、自分と弟は、本当に仲の良い兄弟だった。


 せめて自分の中でだけでも、なんちゃって、は付けたくない。

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