第18話 その花の名は
「少し、我々は席を外しましょうか」
レティーツィアとディートハルトの間に割って入ったのは、ゲオルグのそんな言葉だった。それが合図だったかのように、扉の前で番をしていたイーヴァインがアリーセを迎えにやってくる。
「レティーツィア様。本当にお騒がせしてしまって申し訳ございませんでした」
「いえ……アリーセさま。わたくし、あなたにお会いできてよかったですわ」
去り際、アリーセはもう一度陳謝の言葉を述べ、来たときと同じようにイーヴァインに連れられて去って行った。ふわりと香る薔薇の残り香は優しく控えめで、去って行った女性の人柄を思わせる。今まで想像できない程の苦難の道を歩いてきただろうに、暗い翳は彼女のどこにも見当たらなかった。
「では、陛下」
アリーセとイーヴァインが去って行ったのを見届けたゲオルグは、ソファから立ち上がると、意味ありげな笑みを浮かべてそう告げた。
「イーリスの花を貴方に。国王夫妻の仲が安泰であることを、我々臣下は望んでおりますよ」
「うるさい、ゲオルグ。わかっているから皆まで言うな」
「ヘタレたら黄色のクリュザンテーメとネルケを花束にして送りつけますからね?」
うるさそうな様子を見せるディートハルトに笑いをこらえながら、ゲオルグはレティーツィアたちに一礼を残し、自身も退室していった。
そして室内に残されたのは、ディートハルトとレティーツィア夫婦と彼女の侍女たちだけだった。廊下で警護をしているフランツィスクスはそのまま廊下にいるのか、室内には入ってこない。
「レティーツィア」
ゲオルグが退出するのを見届けても、しばらく沈黙を保っていたディートハルトだったが、どうやらなんらかの決心を固めたらしい。真剣な面持ちを見せるディートハルトに、レティーツィアは息を呑んだ。
「聞いてほしいことがあるんだ」
怖いくらいまっすぐな青い瞳。射すくめられるような気分で、レティーツィアは言葉の続きを待つ。
「誤解を生むようなことをしてすまなかった。あまりに浅慮だったし、きみに対して不誠実だった」
「いえ……まさかそういうお話だとは思いませんでしたけれど、教えていただけてよかったです」
まさかの出自に困惑したことは隠して、レティーツィアは微笑んだ。しかしレティーツィアの笑みを見たディートハルトはかすかに顔をしかめる。
「その……完全に誤解が解けていないような気がするんだが、どうだろう」
「そんなこと……」
レティーツィアは笑みを消さずそっと首を振った。けれども、その態度がディートハルトの疑念を後押ししたのか、彼はかすかに開いていた妻との距離を縮めようと一歩踏み出した。
だが、気圧されるようにレティーツィアは一歩後ずさる。そんな夫婦の様子を見ていたアマリアとロサは、たしかにディートハルトの言うように、両者の間にはまだ誤解というか、わだかまりが残ったままなのを悟った。
「レティーツィア様」
我ながら差し出がましいと自嘲しつつ、アマリアは主に呼び掛けた。さきほどのゲオルグも同じ気持ちだったのだろうか。
そしてそう思ったのはアマリアだけではなかったようだった。ロサもまた、退出のためにティーカップを片付け始めている。誰も彼も、この愛すべき主たちがまとまってくれることを祈っているのだ。あとは、それを当人たちが話し合うだけなのだと、アマリアは思う。
「私たちも一旦下がらせていただきますね。ご用事がありましたら、お呼びつけくださいませ」
「アマリア!?」
「では、陛下、あとはよろしくお願いします~」
「ロサ!? ま、待って……」
「きちんとお話合いくださいませ」
「待てません~。お邪魔虫は去るのみなんですよ~」
息の合った侍女コンビには歯が立たず、レティーツィアはディートハルトと二人、部屋に取り残されることになった。扉の前にはフランツィスクス、隣室にはアマリアとロサが控えてはいるのだが、それでも室内にはディートハルトしかおらず、逃げ場はどこにもない。
(ど、どうしましょう……)
アリーセの正体が明らかになった今、特にディートハルトに問い質すことなどないというのに、一体全体この状況はどうしたことだろう。「誤解が完全に解けていない」、そうディートハルトは言っていたが、他に誤解していることがあったというのだろうか。
困惑しきったレティーツィアの脳裏に、先程の意味ありげなゲオルグのセリフがふと蘇った。
──イーリスの花を貴方に。
──黄色のクリュザンテーメとネルケを花束にして送りつけますからね。
(花)
真剣なディートハルトの眼差しの向こうに、今まで贈られた様々な花たちが透けて見えた気がした。
トゥルペ、エールトベーレ、フリーダー、リナリア。シュティーフ、ネルケ、ファイルヒェン……。
どの花も、レティーツィアの宝物だった。可愛いだけでなく、大好きな人から贈られたものだったからだ。
(そうだ)
アウデンリートは北国だ。温暖なエネストローサと違っていつでも容易に花が手に入るわけではない。あの花々は、単に手紙の添え物ではなく、まさしく“レティーツィアへの贈り物”だったはずだ。
「レティーツィア……」
ディートハルトの低い声がレティーツィアの名を呼んだ。
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