第17話 王女という立場と消せない過去

『父上はすぐにアリーセを保護するよう、ひそかにブラーシュ侯爵に命じた。それで動いたのが嫡男のイーヴァインだ。侯爵領であったバルツェルに家を用意して、アリーセを連れ出してくれた。だが……』


 ディートハルトは生真面目な表情を崩さずに、扉の前で直立不動の体勢を取っているイーヴァインを見る。

 それにつられるようにして、レティーツィアもそちらへ視線をやった。彼らを挟むようにして座るアリーセもまたイーヴァインを見ていたが、ゲオルグだけは素知らぬ顔でロサにお茶のお代わりを頼んでいる。


『あの場所から救い出されたとき、わたしは真実を知らされたの。でも、わたしが歩んできた道は消せない。その頃にはもう……わたしは店に出てしまっていたから。先王陛下は嘆かれていたと伺ったわ。でも、どうしようもなかったの』


 イーヴァインを見つめていたアリーセが、ぽつりと呟いた。ディートハルトほどではないが、流暢なエネストローサ語が彼女の口から出たことに驚いたレティーツィアに、アリーセはそっと口元を緩ませた。


『高級娼婦はね、最低でも三か国語は話せるように仕込まれるの。公娼や私娼と違って、高級娼婦わたしたちが売るのは身体だけではないから、アウデンリート語だけではダメなのね。アンスラン語にアイリッカラ語、ランドストレム語は話せるわ。エネストローサ語も、陛下のお相手がエネストローサの姫君だと伺って勉強したの』

『アリーセさま……』


 レティーツィアも、一国の姫君として語学の勉強は嫌というほどさせられた。大国に嫁ぐことが決まってから、正妃教育としてアウデンリート語以外の言葉もそれなりに仕込まれた。

 アリーセはなんてことのないように言うが、他国の言語を複数習得するのはかなり骨が折れただろう。見つかるのがもう少し早ければ、聡明な彼女を王女だと公表することになんの問題もなかったに違いない。

 だが、一度娼館みせに出てしまった後では、それは難しいことだった。過去を隠蔽いんぺいしたとしても、もしそれがバレてしまえば国の威信に関わる。突然現れた王姉は国内外で注目の的となるだろう。その出自を怪しんで過去を探る者も多いはずだ。


『本当は、きみが来るまでに片を付ける予定だった』


 ディートハルトの声音はとても静かで、それはすんなりとレティーツィアの心に届いた。


『アリーセを王女として公表するわけにはいかない。けれども、姉として幸せな未来をつかんでほしかった。アリーセとイーヴァインは想い合っている。だが、侯爵家嫡男であるイーヴァインに嫁がせるには、そのままではダメなんだ。どこかの養女とするにしても、そこにはきちんとした後ろ盾が必要で……ゲオルグがなると言ってはくれたんだが』


 そこまで言って、ディートハルトは一旦言葉を切った。少し逡巡するような様子を見せたが、じっと自分を見つめるレティーツィアの視線に気づくと、居住まいを正して再び話し始めた。


『父上が、最期に一目会いたいとおっしゃったんだ。だから薔薇の宮に連れて行った。最期の数日、父上は恋人の忘れ形見と過ごせて幸せそうだった。父上が崩御なされた後、王宮を去ろうとしたアリーセを引き留めたときに覚悟を決めた。過去にも、高級娼婦を愛人にした国王はいた。また、国王の公認愛妾が臣下に下げ渡され、正妻となった例もある。……今となっては他の方法もあったと思う。だが、そのときは思いつけなかった

。父上が崩御なされたとき側にいたアリーセの素性を誤魔化せなかったのは、俺の機転が利かなかったせいだ』

『陛下は悪くありません。原因はすべてわたしなんです、レティーツィア様。国王の崩御という特別な場に、身分もわきまえずしたわたしがいけなかったのです。今回、イーヴァからお話を伺って焦りました。本当にごめんなさい。もっと早く、誤解を解きに参ればよかった……』


 アリーセが深々と頭を下げたのに合わせ、「すまない」と謝罪の言葉を口にして、ディートハルトもまた頭を下げた。国王の謝罪に焦ったのはレティーツィアだけではない。彼女の背後を守るように立っていたアマリアとロサも困惑を隠せなかった。口を挟まなかったことが奇跡のようだと、アマリアは思う。


「ディートハルトさま、アリーセさま、お顔を上げてくださいませ」


 レティーツィアは、アウデンリート語でそう促した。


「お話はわかりましたわ。もう、十分に」


 アリーセはディートハルトの愛人ではなかった。それがわかっただけで十分だと、レティーツィアは考えていた。たとえ自分が愛されなくても、想い人に他の女性がいないということは幸いだと、彼女は自らを慰めた。

 レティーツィアは微笑を浮かべながらディートハルトの目を見つめた。誤解して申し訳なかったと謝るべきだろう、と思う。そう、誤解だったのだ。それなのに自分は取り乱して詰ってしまった。王妃としてあるまじき態度だ。大国の王妃ならば、愛妾の一人や二人、泰然と構えて受け入れなければ。ましてや愛妾それは誤解だったのだ。彼女アリーセは愛人でなく、義姉あねだったのだから。

 だが、うまく言葉が出てこない。理性で感情を抑えようとはするのだが、それが完璧にこなせるほどレティーツィアは大人ではなかった。情けないが、どうしようもない。揺れ動く感情に、レティーツィアは泣きたくなった。


「レティーツィア」


 幼き王妃の複雑な感情を読んだのだろうか。ディートハルトが眉根をかすかに寄せた。不快にさせたのだろうか、とレティーツィアはその様子に不安になる。離縁になるだろうか。いや、これくらいのことではならないはずだ。愛されなくとも、ディートハルトの第一の妃の座は自分のものだ。


「はい」


 意識して、彼女は微笑みを深くした。

 だが、続いて彼女に投げかけられた言葉は、ディートハルトのものではなかった。

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