第12話 薔薇とトゥルペ

 自室でアマリアたちが盛り上がっている頃、レティーツィアとディートハルトはのんびり散歩を続けていた。しばらく歩いていると、見慣れた愛らしい花がレティーツィアの視界に映る。


「デーレンダールはエスカロナより寒いですけれど、トゥリパンの花は咲いているのですね」

「トゥリ……ああ、トゥルペか」


 レティーツィアの発言にディートハルトは静かに頷くと、色とりどりの花が咲き乱れる花壇に近づいた。彼はその中から赤いトゥルペを選ぶと、懐から出したナイフを当てる。ティーカップのようなふわりとした形の花は、ディートハルトの手からレティーツィアの手へとそっと移された。


「……やる」

「まぁ、ありがとうございます! 嬉しいです。大切に飾りますね」


 手渡された一輪の花を、まるで宝石のように大切に両手で捧げ持つと、レティーツィアはひどく幸せそうに微笑んだ。事実、とても幸せだった。普段なかなか会えない夫は、それでも時間を作っては花を片手に会いに来てくれるし、今もまた、彼女の好きな花を贈ってくれる。


 けれど、いつだってレティーツィアの幸せな時間は長くは続かない。


「陛下!」


 やわらかなテノールの声が、花を揺らして二人の間に割り込んだ。顔を上げると、常にディートハルトの側に控える騎士が走り寄ってくるのが見える。


「イーヴァ」

「陛下、お寛ぎ中申し訳ありません! ですが、至急宰相閣下がお越しいただきたいと」


 かすかに眉を顰めたディートハルトに、騎士はこげ茶色の髪の毛を乱して頭を下げた。


「それは今でなくてはいけないのか」

「アンスランより書簡が届けられました」

「……わかった。イーヴァ、姫を頼む。姫、申し訳ない」


 かつての敵国──今でも友好国ではない──からの書簡が届いたとの知らせに、ディートハルトは硬い声でいらえを返すと、レティーツィアを騎士に託して城内へ戻って行く。

 一方残されたレティーツィアは、淋しい気持ちをその艶やかな唇の中に押し込めると、ディートハルトから贈られたトゥルペの花で隠した。本来なら一礼して、笑顔と共に送り出すべきだとは思ったが、それを実行できるほど彼女は大人ではなかった。


「王妃陛下、参りましょう」

「はい……あの」

「申し遅れました。私は第一近衛騎士の、イーヴァイン・ヨハネス・エイセル・ブラーシュと申します」


 イーヴァインは、にこりと人好きのする笑顔を浮かべると、綺麗な騎士の礼を取る。片膝を突いたイーヴァインに手を差し出したレティーツィアは、ため息を飲み込んで微笑みを返した。がっかりしたのは本当だが、ほんの少しでも夫婦の時間を持てたことは幸いだった。

 手にした赤い花を心の支えにして、レティーツィアは歩き出す。


「今日は散策日和ですね、王妃陛下」

「はい、ブラーシュさま」

「ブラーシュで結構です。または、イーヴァインと。ああ、でもそちらは陛下に睨まれてしまうかな」

「ディートハルトさまが?」


 思いがけない話に目を見開いたレティーツィアがおかしかったのか、イーヴァインは楽し気な笑い声を響かせた。


「そうですよ。先程も、王妃陛下の御手を預かる際、陛下に睨まれましたし」

「そう……でしたか?」


 たしかに硬い声を出していたが、そんな様子を見せていただろうかと、レティーツィアはディートハルトのことを思い返す。背中を向けていたディートハルトの表情まではわからなかったが、イーヴァインの言葉が本当だったらいいと、額面通りに受け取ることにした。

 散策を続けるかと尋ねられたが、レティーツィアは首を横に振る。ディートハルトがいないのに、外を歩く気持ちにはなれなかったのだ。それに、まだ本調子でない身体で長時間外を出歩くのは、さすがにきつかった。


「あら、イーヴァインじゃないの」


 自室へ戻ろうと、イーヴァインにエスコートされて歩いていたレティーツィアは、突然かけられたその声に足を止めた。なぜならそれは、この国の王妃たる彼女が頭を下げるべき数少ない相手の声だったからだ。


「アルベルティーナ王太后さまにおかれましては、ご機嫌うるわしゅう」

「まぁ、かしこまらなくてもよろしくてよ。レティーツィア様、おひとり?」


 スカートをつまんで挨拶するレティーツィアに、アルベルティーナ王太后は手にしたレースの扇で一煽ぎすると、満足そうな笑みを浮かべた。彼女に会うのは結婚式以来だったが、相変わらず若々しく、ディートハルトのような大きな子どもがいるようには到底見えなかった。


「いえ、先程まではディートハルト陛下がいらっしゃいました」

「そうなの。仲がいいならばよろしいわ。あの子はなにを考えているかわからなくてね。困ったものだわ。こちらもなかなか会わないものだから、本当にどうしているのかわからないのよ。レティーツィア様、いつも二人で散歩を?」


 五年ほど前から、アルベルティーナはエッフェンベルク領にあるアベーユ離宮へ隠棲している。アベーユ湖を一望できるその離宮は、彼女がエッフェンベルク公爵令嬢であった頃、よく遊びに行った別荘を改築したものだった。五年前に引っ越してから、彼女がデーレンダール城に戻ったのは、数えるほどしかない。それこそ、先王アウグストの葬儀と、王太子ディートハルトの即位式のときくらいである。

 久しぶりの王宮ということもあり、アルベルティーナは侍女を数人連れて散策にいそしんでいたのだと、レティーツィアへ楽しそうに語ってみせた。


「それにしても、レティーツィア様。あたくし、そなたに言いたいことがあったのです」


 パチン、と音を立てて扇を閉じると、アルベルティーナは琥珀色の双眸を眇めてレティーツィアを見据えた。


「はい、なんでしょうか」

「あたくし、聞き捨てならない話を聞いたのだけれど?」

「! 王太后陛下!」

「おだまり、イーヴァイン。そなたに発言を許した覚えはありません」


 絹の手袋に包まれた掌をリズミカルに扇で叩きながら、アルベルティーナは残念そうに溜息をついた。

 聞き捨てならない話。そんなものは部屋にこもりがちのレティーツィアのところには届いていない。一体どういった話なのか。途方もない不安に襲われながらも、レティーツィアは義母の言葉を待った。


「レティーツィア様」


 自分の言葉を遮ろうとしたイーヴァインを閉じた扇で制すと、アルベルティーナは再び口を開く。


「今、後宮を治めるのは、王妃たるそなたの仕事です。ご存じでいらっしゃるの? あの女のこと」

「……あの」


 その刺々しい物言いに、レティーツィアは肌を粟立てた。これはいけない。聞いては──駄目だ。

 ただ、聞きたくはなくとも、アルベルティーナは待ってはくれない。


「ああ汚らわしい! なぜ下賤な娼婦などを、あの薔薇の宮に住まわせるのだか! あの宮は、陛下が晩年を過ごした場所ですよ、イーヴァイン!」


 アルベルティーナの怒りは、レティーツィアを通り越してイーヴァインに飛び火したようだった。


「王太后陛下! 落ち着いて……!」

「うるさいですわ、イーヴァイン! その様子だと、レティーツィア様は知らなかったようですわね。まったく、存在を隠すくらいなら、初めから囲わなければよいのです! 正妃を娶る前に愛人を囲うなど、あの子はそういったところばかり父親に似て……! イーヴァイン、そなたもブラーシュ侯爵家嫡男として恥ずかしくないのですか! いち早くディートハルトを窘めなさい! あたくしは、今回デーレンダール城ここに戻った際、薔薇の宮にあんな女がいると知って本当に驚いたのですよ!」


 眼の前で歯噛みするアルベルティーナの姿を、レティーツィアはまるで遠いところの出来事のように眺めていた。急激に身体が冷えていく。初めての夜から現れない夫。レティーツィアのところに来ない彼の行先は──薔薇の宮、だったのだろう。


「いいですか、レティーツィア様。側妃を選ぶのは他の人間たちですが、いったん後宮に入ったなら、その管理は王妃の務めです。ディートハルトがあの女を追い出さないのならば、そなたがその権限の下、ただちに放逐なさい。王の血を下賤な血と混ぜるなど、言語道断。ただちにあの娼婦を追い出しなさい! 由緒あるアウデンリートの王の側に娼婦が侍るなど、あってはなりません!」


 はらりと、レティーツィアの手から赤い花弁が風に舞った。

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