第10話 秘された薔薇
「──なんですって!?」
アマリアは、声を上げてから慌てて自分の口を押えた。さすがに初夜と違ってレティーツィアの寝室の隣にいるわけではなかったが、それでも知らされた事実が重すぎて、声を潜めることしかできなかった。
「ロサ、それは……本当に間違いないの? その、たとえば聞き間違いということは?」
万が一の可能性に賭けて問いかけると、力なくロサは首を振って見せた。
「いえ……複数の証言が得られました。間違いないかと」
「これは陛下……リカルド陛下は知っておられるのかしら」
「わかりませんけど……ご存知なのになにもおっしゃらないのも不自然かと」
「そうよね……さすがに、正式に正妃様を迎える前に
王たるもの、継嗣を持つためにも、側室を作るのは咎められることではない。
実際レティーツィアの母親であるフローリカ妃も、正妃オルタンシアが崩御したため、繰り上がって正妃となった人だ。自身が愛妾を持っているため、エネストローサ国王は側妃を持つことにとやかくは言わないだろう。
だが、それでも婚前に愛人を囲うことは褒められたことではない。法律として定められているわけではなかったが、暗黙の了解として正妃を決めた後に側妃を、という流れになっている。ディートハルトの行動は、それに反したものだった。
「まさか、王宮の奥に愛人囲ってるとか、思いもしませんでしたね……」
青天の霹靂といった様子で、ロサは呟いた。アマリアは、ため息を以ってそれに応える。
ロサがアウデンリートの王宮で拾ってきたのは、ディートハルトが即位と共に愛人を作ったという、頭の痛い話だった。“薔薇の君”と呼ばれるかの人は、自分の置かれた場所をわきまえているのか、はたまた王太后となった先王の妃・アルベルティーナを恐れているのか、普段はほとんど表に出てこないという。
だが、元は高級娼婦だったという“薔薇の君”に関しての噂は、驚くほどたくさん手に入った。中庭の薔薇園の奥に建てられた、先王が晩年を過ごした別棟をわざわざ与えられたのは、かの君が閨で強請ったせいだとか、若き王はその美貌に骨抜きになって、毎日足しげく通っているとか、洗礼名もなかったほど貧しい生まれだったかの君に、王が自身の名から洗礼名を与えたとか、それはもう枚挙に暇もなかったし、また、そのすべてはレティーツィアには知られてはいけないことだった。
「国家問題になりますよね、きっと」
「それもそうだけど……姫様には、秘密にしないと。どうあっても、知られてはなりません」
幼い頃から婚約者を慕っているレティーツィアには、絶対この存在のことは秘密にしよう。アマリアとロサはそう約束した。
◆
まばらにしか会えない夫に、レティーツィアは気落ちしていた。どれだけ仕事が忙しいのだと自分に言い訳をしても、会えないつらさは募るばかりだ。
そうなると、自然と部屋にこもりがちになるレティーツィアの食欲は、下降するばかりだった。元がそう食べる方でない上、運動量が減り、気鬱にため息をつくばかりの日々では、食が進むとも思えない。
“薔薇の君”の噂から遠ざけるためには、出来る限り王宮内や中庭はあまり出歩かない方がいいと思っていたアマリアたちだったが、部屋に籠っていてばかりでは、これまた心配になる。
エネストローサにいた頃は、日々自分専用の庭を弄り、中庭を散歩するのが日課だったレティーツィアから外を取り上げるのは、酷なことだった。故国を離れ、一国の王妃となったからには土いじりは望めなかったが、せめて散歩ぐらいはと、アマリアたちはレティーツィアを外に連れ出すことにした。薔薇園の方へ行かなければ鉢合わせることもないだろうと、そう思っていた。
しかし、アマリアたちの誘いを、意外にもレティーツィアは断った。学ばなければいけないことがたくさんあるから、というのがその理由だった。
実際、レティーツィアは勉強に追われていた。エネストローサにいた頃も王妃教育はなされていたが、アウデンリートに来てもそれは続いているどころか、さらに厳しくなっていた。
けれども、王太后アルベルティーナの指示というその教育に、レティーツィアをはじめ、彼女のまわりの人間は異を唱えることはできなかった。王が亡くなるとともに離宮へ移ったアルベルティーナだったが、王宮におけるその権力はまだ健在だったのだ。
だが、日々窶れていく王妃の話は、どうやらディートハルトの耳にも入ったらしい。しばらく訪いが途切れていた王は、その日、慌てた様子でレティーツィアのもとへとやってきた。
「食が進んでいないと聞いたが──大丈夫か」
想い人の訪れに、その日のレティーツィアは笑顔だった。だから一見元気そうには見えるのだが──それでも、少し痩せたように思える。
心配そうな表情を浮かべるディートハルトを、もてなしの準備をしながらアマリアは観察した。「いけしゃあしゃあと、よく言う」とは思ったが、それは口にはしないし、できるはずもない。
「大丈夫ですわ、ディートハルトさま」
「今日から、エネストローサ風の食事に切り替えるよう、伝えておいた。気が回らなくてすまない」
「まぁ! お心遣い、感謝いたしますわ。嬉しいです。でも、アウデンリートの料理もおいしいですわよ」
異国の料理が口に合わないのかと思った様子のディートハルトは、レティーツィアの言葉を額面通りに受け取りはしなかった。
「これを。その、キュルビスクーヘンは、姫がお好きだったと思うのだが」
姫、と呼ばれて、かすかにレティーツィアの瞳が揺らいだ。だが、彼女は笑顔を保ったまま、ディートハルトが持ってきた籠を受け取る。上にかけられたレースを取ると、ふわりと優しい匂いが漂った。
「ありがとうございます。今、キュルビスの季節じゃないですのに、わざわざ作ってくださいましたの?」
「貯蔵庫にあった」
香ばしく焼けた生地の間から蜜色が覗いているお菓子は、たしかにレティーツィアが好きなものだった。以前手紙で書いた覚えがあったが、ディートハルトはそれを覚えてくれていたらしい。
「嬉しい。すごく嬉しいです」
「喜んでもらえたなら、よかった」
嬉しそうなレティーツィアの声に、ぼそりとディートハルトは応えを返した。表情からはなにを考えているのかは読めないが、もしかしたら照れているのかもしれなかった。
ディートハルトが持ち込んだお菓子だったせいか、レティーツィアはいつもより口にした。それでもその量のささやかさは、ディートハルトの目を引いたらしい。
「よければ、この後少し庭を歩かないか」
躊躇いがちな誘いだったが、レティーツィアには十分だった。パッと顔を輝かせると、華やいだ声を上げる。
「いいんですの!?」
「ああ、夕刻までは少し──余裕がある」
「でも、ディートハルトさまもお疲れのようですわ。嬉しいですけれど、お休みになられては」
ディートハルトの凶相に拍車をかけていると思われる目の下の隈は、結婚式のときにはなかったものだった。あまり寝れてはいないのではと、自分のことを棚に上げてレティーツィアは心配する。
だがレティーツィアの心遣いを、ディートハルトは静かにはねのけた。疲れてはいないと言い切られてしまうと、それ以上休息を勧められず、レティーツィアはディートハルトにエスコートされて散歩にでることとなった。
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