第5話 アウデンリートの稚き正妃

 アウデンリートの若き国王と、エネストローサの幼き姫君の婚礼は、つつがなく行われた。この日をって、レティシアは、エネストローサ王女「レティシア・イリス・キアリーニ・エネストローサ」ではなく、アウデンリート王妃「レティーツィア・イリス・エネストローサ・アウデンリート」として名を改め、生きることになる。

 誓約書にサインをする際には、さすがに少し手が震えた。先に書かれたディートハルトの堂々たるサインの下に、自分の少し歪んだサインが残されるのを見て、レティシアは自分の幼さを恥ずかしく思った。サインで緊張など、ディートハルトはしないに違いない。そう思わせるほど、両者の筆跡には差があった。

 婚礼が終了すると、次に待っていたのはレティシア、いや、レティーツィアの立后式だった。立后式を終えることによって、レティーツィアはディートハルトの妃というだけでなく、アウデンリートの正妃としての立場を手に入れることになるのだ。彼女が望んでいたのはディートハルトの妃という立ち位置だけだったが、エネストローサ王国の王女として望まれているのは、アウデンリート正妃という強い立場だった。


 立后式を終え、レティーツィアは夫となったディートハルトと共に、城のメインバルコニーへ向かった。バルコニーに立つと、城の中庭にひしめき合うアウデンリートの国民の姿が見える。彼らは、愛らしい若き王妃に歓声を上げた。人々にとっても、アウデンリートとエネストローサの婚姻による同盟は待ち遠しいものだったのだ。特に、先の戦争を経験した者にとって、それは著しかった。


「ディートハルトさま、これからよろしくお願いいたします」


 人々に手を振り返しながら、レティーツィアは隣に立つディートハルトにだけ聞こえる声で告げた。


「わたくし、頑張ります。皆さんに認めていただけるよう、この国の王妃として相応しいよう、頑張りますわ」

「…………ああ」


 レティーツィアの決意表明に、ディートハルトは小さな声でいらえを返した。だが、その青い瞳はレティーツィアの方を見ることはない。

 そんな夫の姿に、レティーツィアは戸惑いを隠せなかった。


 婚礼と立后式が終わると、次はお披露目のパーティだった。荘厳な式典と違い、こちらは幾分フランクな、そして華々しいものだ。参加する人々の顔も、笑顔で満ち溢れている。

 もちろん、主役であるレティーツィアも、笑顔を絶やさなかった。異国の地で、異国の言葉で、異国の人々と如才なく挨拶を交わす。それはまだ十五に満たない彼女にとってとても骨を折ることだったが、愛する人のためと、彼女は背伸びをして頑張り続けた。

 そんなレティーツィアの努力は、言葉を交わした人々に好印象を与えた。まだ幼いものの、努力家で、存在に華がある彼女は、大国の正妃として認められたのだった。


「陛下におかれましては、このような若く麗しい姫君を娶られて、羨ましい限りですな!」


 尖った鷲鼻を突き上げるようにして笑う老年の男に、レティーツィアは追従の笑みを浮かべた。

 ルートヴィヒ・マヌエル・ブロイアー・エッフェンベルクと名乗った男は、エッフェンベルク公爵という身分を持ち、また王太后の実兄であった。つまりはディートハルトの実の伯父だ。失礼があってはいけないと、レティーツィアは殊更気を遣う。使い勝手を確かめるような琥珀色の瞳が怖いと内心思ったが、そんな感情はおくびにも表さず、レティーツィアは対外的な笑みを浮かべ続ける。笑顔の練習は物心ついた頃から仕込まれただけあって、完璧な出来だった。


「あとは、一日も早くお世継ぎに恵まれることですな! 相手がエネストローサの王女ならば、なにも問題はありませんからな!」

「……そう思うのならば、早く終わらせていただきたい、エッフェンベルク公爵。いつまでもここにいては、余も妃も休めん」

「おお! それもそうですな!」


 延々と続けられるかと思った会話は、ディートハルトの助けによって切り上げる方向へ向かった。かなり酔いが回っている様子のエッフェンベルク公爵は、ひどく満足げな笑い声をあげると、国王夫妻の側に控えていた二人の騎士にぞんざいに手を振った。


「陛下は早く妃殿下と二人きりになりたいそうだぞ、そなたら、早く仕切らんか」


 エッフェンベルク公爵のあけすけな言い方に、ディートハルトが凍り付くような眼差しを向けたものの、狷介な老公爵は甥の視線を意に介さず、ニヤニヤと下卑た笑いをレティーツィアへと向けた。


「では、老人はここでお暇させていただきますよ。一日も早い朗報を期待しておりますぞ」


 周りの人間にも下がるように言いつつ退出していく老公爵に、レティーツィアは完璧な笑みを送り、またディートハルトも凍てつく眼差しを送り続けた。


          ◆


 エッフェンベルク公爵が去った後、しばらく周りの人間と歓談を続けたレティーツィアだったが、老公爵の指示でいったん下がった騎士たちによって披露宴の終了が告げられたため、ようやく自室に下がることを許された。


「さすがに疲れたわ……」


 腹心の侍女であるアマリアとロサだけになって初めて、レティーツィアは疲労を口にした。人前ではアウデンリート語で話していたレティーツィアだったが、故国の人間だけになった今はエネストローサ語に戻っている。


「レティシア様~、グリューワインをどうぞ。あたたまりますよ~」

「ありがとう、ロサ!」


 湯を浴び、寝支度を整えた彼女に、ロサが運んできた温かい飲み物を手渡す。嬉しそうに笑うレティーツィアを、アマリアは穏やかな笑みを浮かべて見つめた。


「姫様、いえ、妃殿下。お疲れのところ申し訳ありませんが、多分もうしばらくしたら陛下がいらっしゃると思います」

「ディートハルトさまが!?」


 ロサから受け取ったグリューワインに口をつけていたレティーツィアは、ディートハルトの名前を聞いて顔を輝かせた。この一途さが愛おしいと、アマリアは敬愛する小さな主について思う。エネストローサにいたときから、レティーツィアの毎日はディートハルト一色だった。ディートハルトが恥ずかしく思わない完璧な妃となるため、それこそ血のにじむような努力を続けてきたことを、一番近くにいたアマリアは知っている。


「私とロサは隣室に控えております。明朝は起こしにはまいりませんので、ゆっくりお休みくださいませ」

「姫様はいつも可愛いですが、今が一番お綺麗ですよ~。自信をもって頑張ってくださいね!」


 深々と頭を下げるアマリアの横で、のんびりとロサが笑う。対照的な二人の侍女に、レティーツィアもてらいのない笑顔を浮かべたのだった。

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