第6話 初めての夜と二人の距離

 アマリアとロサが隣室に下がると、部屋にはレティーツィア一人となった。途端にしん、と静まり返る部屋は、なんだか質量を増したようだ。元から広い部屋だったが、何故だかさらに広く感じて、レティーツィアは天蓋付きの豪華な寝台の上でひとりため息をつき、慌ててかぶりを振る。いけない、重い溜息をついては、幸せが逃げて行ってしまう。

 好きな人にようやく嫁げたのだ。今の自分は誰よりも幸せだ。不安になることなど、きっとない。あるはずがない。そう言い聞かせ、レティーツィアは無理やり笑顔を浮かべた。ディートハルトの瞳、声。それを思い浮かべれば、きっと笑えるはず……。

 だが、彼女の脳裏に浮かんだのは、冷たく鋭い夫の眼差しだった。彼女とほとんど言葉を交わすことなく、淡々と式典を進めるだけの態度だった。


「ディートハルトさま……」


 知らず、レティーツィアは呟いていた。不安を解消するにも、ひとりでではできそうにない。ディートハルト本人と言葉を交わしたいと、切に願ったのが通じたのか、しばらくすると、部屋の扉が無造作にノックされる。侍女にしては乱暴なそれにびっくりして顔を上げると、扉を開いて現れたのは、彼女が誰よりも会いたいと思っていた夫、その人だった。

 単身現れたディートハルトに、まさか共も連れずにやってくるとは思っていなかったレティーツィアは、かける言葉を失っていた。ディートハルトの方も無言のまま部屋に入ろうとし──少し躊躇う様子を見せる。


 寝台の上と扉の前でしばし言葉もなく見つめ合った二人だったが、先に視線を外したのはディートハルトの方だった。


「あの……」


 いつまで経っても部屋へ入ろうとしないディートハルトに、自分が招かないせいかとレティーツィアは意を決して話しかけた。心臓がものすごい勢いで跳ねている。緊張して冷たくなった指先を握りこみ、レティーツィアはディートハルトを見つめて言葉を続けた。


「ディートハルトさま、春先とはいえまだ夜は冷えますし、どうぞ中へ……」


 部屋には、侍女が熾していってくれた暖炉の火が赤々と燃えている。だが、部屋は人肌が恋しくなる程度には寒かった。レティーツィアとて、寝る前に飲んだグリューワインがなければ早々に布団にもぐりこんでいると思う。特にアウデンリートはエネストローサより北にあるため、比較的暖かい国で育ったレティーツィアには、季節が逆行したような気さえするのだ。

 レティーツィアに促されて、ディートハルトは無言のまま部屋の扉を閉めた。言葉もなく入室したディートハルトはレティーツィアのいる寝台の方へ歩いてきたものの、目の前までくることなく、どうしたことか途中で歩みを止めた。


「ディートハルトさま……?」


 近づこうとしないディートハルトに、レティーツィアは不安になり声をかける。


「その……」

「はい」


 ディートハルトの耳障りのいい低い声に、思わず居住まいを正したレティーツィアだったが、二人の視線が絡むことはない。レティーツィアはまっすぐにディートハルトを見ているのだが、ディートハルトの方が微妙に視線を外すのだ。


「寒くはないか」

「はい、先程グリューワインをいただきましたの。だから平気ですわ。ディートハルトさまこそ寒くはございませんか?」

「俺は……慣れているから問題ない。エネストローサは暖かい国だが、アウデンリートは北国で寒い。身体を労わるように」


 朴訥な労わりの言葉が嬉しくて、レティーツィアは破顔した。一瞬にして不安は霧散する。あれこれ考えるより、ディートハルト本人と話せば心配することなどないのだと、このときはそう思えた。


「レティ……ツィアは、その」

「はい?」


 呼び慣れていない妻の名を口にしたディートハルトに、レティーツィアは笑顔を返す。たしかに彼女自身も自分の名が変わったことにまだ慣れていない。レティシアと呼ばれた方がしっくりくるが、ディートハルトもそうだったりするのだろうか。いや、面と向かって話したことは少ないので、まだ呼びかけ慣れてないというだけなのだろう。

 自分の中でそう結論付けたレティーツィアは、今度は寝台から降りてディートハルトを迎えに行った方がいいのだろうかと、そちらが気になりだした。なにせ、話し始めてからディートハルトは一歩も動かない。距離がある中での会話は、少しやりづらかった。


「…………」

「ディートハルトさま?」

「……姫、俺は少し仕事が残っているので、出直させてもらってもいいだろうか。風邪をひかぬよう、先に横になっていてほしい」

「え、あの」


 なにか言いかけたディートハルトだったが、そのまま言葉を途切れさせてしまったので声をかけると、予想外にいとまを告げられる。焦ったレティーツィアは声を上げたが、言葉にする前にディートハルトは部屋を出て行ってしまったのだった。

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