第3話 婚約者と期待と落胆
レティシアが婚約者であるディートハルトと会ったのは、その実、数えるほどしかない。しかも、そのほとんどが今よりずっと幼いときだ。宮廷画家が描いた姿絵は折につれ受け取っていたが、実際その姿を見るのは、婚約の決まった五年前が最後だった。
(いやですわ、姿絵よりももっとずっと素敵……)
通された部屋はディートハルトの執務室だったようで、彼はちょうどなにかの書類にサインをしているところだった。ディートハルトは羽ペンでさらさらとサインをした後、その書類に玉璽を捺し、その上に吸い取り紙を乗せると、ようやく顔を上げてレティシアを見た。
さらりとした硬質な黒髪にサファイアのような青い瞳。精悍な口元は凛々しく引き締められている。切れ長の目つきは少々きつかったが、彼に恋心を抱くレティシアには、その鋭い眼差しでさえうっとりする材料でしかない。
王太子だった婚約式のときとは違い、戴冠を済ませた今のディートハルトは、以前にはない貫禄のようなものを身に着けていた。二十五歳とちょうど脂の乗り始めた年齢も手伝ってか、はたまた恋愛フィルターがかかっているのか、なんだか色気のようなものも感じられて、レティシアは手にしていた扇で赤くなった顔を隠した。馬車を降りる前に身支度は整えたが、会う前に薄く施した化粧が剥げていないか確認すべきだったと、レティシアはひそかに後悔する。彼の前に出るに相応しい身なりだったろうか。がっかりされていないだろうかと、そこばかり気になった。
「レティ……シアか。はるばるよく来てくれた。式まで数日余裕がある。ゆるりと旅の疲れを癒してほしい」
身体に響くような低い良い声でディートハルトは言うが、言われた内容にレティシアは少しがっかりした。
それは、手紙のように「レティ」と愛称で呼びかけてくれるかと思っていたのがそのひとつだった。レティシアは式を終えた後はこの国の人間となるため、名前もエネストローサ風の「レティシア」ではなく、「レティーツィア」とアウデンリート風に改める。ディートハルトが名前を呼びづらそうにしていたのは、多分そのせいだった。
「ゲオルグ、姫を部屋へ案内してさしあげろ。余はエネストローサ王と話がある」
レティシアに休むよう告げると、ディートハルトは彼女の後ろに控えていたゲオルグに視線を移動させた。恭しくゲオルグが頭を下げると、ディートハルトは興味を失ったかのように再び目の前に積まれた書類の束に没頭してしまう。
手紙のやり取りで心の距離が近づいたと思っていたレティシアは、一言で終わってしまった邂逅に落胆した。毎回心づくしの花とプレゼントをくれる相手だから、ディートハルトにも歓迎してもらえると思い込んでいたせいでもあった。だが、思い返せば彼女の手紙に対しての彼の返答は、いつも簡潔にまとめられていたように思う。長文の自分の手紙に対して返された、短い彼の手紙。それは、彼と彼女の感情の差だったのかもしれない。
(いえ……でも、ディートハルトさまはお忙しそうでしたし、わたくしとゆっくり話している暇がなかっただけですわ。机の上の書類も、まるで山のようでしたし)
そう自分を慰めて、レティシアは手にしていた扇の柄をぎゅっと握りしめた。歓迎されていないとは思いたくなかった。たしかに文面は短かったけれども、その文章は気遣いにあふれていたではないか。
(そうよ、ディートハルトさまも「きみに会える日が楽しみだ」とお書きになっていらしたわ。大丈夫よ)
一番最後に受け取った手紙の内容を思い出し、レティシアは前を向くことにした。確証もないことをくよくよ考えていても仕方がない。数日後には彼の花嫁となるのだ。多少の誤解があっても、おいおい解消していけばいい。
ゲオルグの後を歩きながら、レティシアはそんなことを考えていた。
◆
次に案内された部屋は、とても可愛らしい部屋だった。まさにレティシア好みの調度品が品よく飾られている。壁紙もファブリックも、すべて彼女の好きな色合いで仕立てられていた。年頃の姫君にふさわしく華やかだが、けして派手すぎず、清楚な品を失わない上質な部屋だった。
「こちらは陛下が準備なされた、姫君のお部屋になります。あちらが侍女殿たちの控室に続く扉で、奥の扉は寝室となっております」
ゲオルグの説明を聞きながらも、レティシアの目は花瓶に生けられている花に吸い寄せられていた。窓際やテーブルの上など、可愛らしく各所に飾られた花々は、すべて彼女が好きな花や、またディートハルトがこの季節に贈ってくれたものと同じだったからだ。
(やっぱり、ディートハルトさまはお優しいわ)
ディートハルトの心遣いに嬉しくなったレティシアは、扇で口元を隠すのも忘れ、満面の笑みを浮かべてゲオルグと向かい合った。
「ディートハルトさまに、ありがとうとお伝えいただける!? わたくし、とても気に入りました。とても嬉しいわ」
「あ……はい、たしかにお伝えいたします」
さきほどの淡々とした邂逅は、仕事が忙しかったせいなのだと理解したレティシアは、一礼して去っていくゲオルグを幸せな気持ちで見送った。
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