6話

 宇垣の家のリビング。テレビの前のソファーに相田と宇垣の親戚である哲治は座っていた。

 2人は仲睦まじく、女の子向けのアニメを見ながら時間を潰していく。ただ、夢中になって見ている哲治とは裏腹に、相田は呆然とアニメを見ている。


「ねねぇ、ラブって何?」

「え? ラブ?」


 哲治はアニメに出てきた主人公の女の子の言葉を聞いて、隣にいる相田に問いかける。

 相田は急に話しかけられ、戸惑いながら考える。


「えーっと、ラブってのは愛だよ」

「あい? それって何? 強いの?」

「えっ、いや、その……」


 哲治の無垢な瞳でまじまじと見つめられ、相田はどう答えればいいのか考え込む。

 愛とは何か。以前までの相田なら、適当に愛について答えていただろう。でも、好きな相手に目の前で逃げられたことがあった今、愛に対して語れる心境にはなれないでいた。

 

「ごめん。俺もよく分かんないんだ。でも、強いとは思う」

「じゃあ、僕も欲しいな! 強くなりたい!」

「欲しい、か。なら、哲治くんは好きな子がいるのか?」

「うん、いるよ。僕ね、お姉ちゃんが大好き!」

「そうなんだ。じゃあ、もっと大好きにならないとな」

「え、なんで?」


 またしても、哲治は相田に疑問を問いかける。このままではきりがないなと思いつつも、相田はどう答えてやるべきか考える。考えては、相田なりに言葉にしていく。


「愛ってのは、好きになればなるほど頑張れるんだ。それで本気になって、強くなったり、今までの自分と変われたりすることが出来るんだよ」

「誰にも負けないくらい?」

「ああ、絶対に負けなくなるくらい強くなるぞ」

「悪いヤツも、殺せる?」

「殺せる? 殺せるっていうか、まぁ倒せるか。愛の力は本気になれば、なんだってできるからな」


 相田が自慢げにそう言うと、それを聞いた哲治はソファーの上に立ち上がった。すると口を開いては、喜んだように元気にソファーの上で何回も跳ねる。相田の言葉を信じ込んだのか、疑うことなく嬉しいという感情を体と動作で表現していた。


「じゃあ僕、お姉ちゃんのために頑張る!!」

「そ、そうか。きっとお姉ちゃんも喜ぶよ」


 隣で元気よく大声を出している哲治に、相田は苦笑いを浮かべて答える。現実はそう簡単にいかないことを、相田は数時間前に知っただけに、より笑みに苦みが増してしまう。

 でも、哲治の喜んでいる様子が相田の心を和ませていく。まるで自分が大人になったような気分になり、相田は苦笑いから自然と笑みへと変わっていった。


「おまたせ、政。なんか楽しそうだね」


 夕食の片づけを終えた宇垣が、2人の座っているソファーのそばまで近づいていた。2人の会話を聞いていない宇垣は、その理由を問いかけるようにそう言った。


「いや、この子とアニメの話をしてただけさ」

「なるほどね。それで、てつくん跳ねてたのか」


 宇垣は納得したように腰に手を当てる。哲治はアニメやお姉さんのことになると熱くなりやすい。そのことを宇垣は知っていただけに、今も哲治がその状況に陥っているのだと理解した。

 テレビから女の子の叫び声が聞こえると、哲治は硬直したようにテレビの方に視線を向ける。アニメが緊迫した場面なのもあって、目が離せないといった様子で見ている。

 そこで宇垣は、口を開いて提案を1つ告げる。


「とりあえず、自分の部屋に行く?」

「お、そうだな」


 待ってましたと言わんばかりに、相田は勢いよく立ち上がる。

 宇垣の部屋を見てみたいと思っていた相田は、宇垣がそう言ってくれることを待ち望んでいた。


「てつくんはどうする?」

「テレビ見てるー」

「なら、何かあったらお兄ちゃんの部屋に来てね」


 そう言って、宇垣は相田に視線を運ぶ。相田は頷くと、テーブルのイスの上に置いてあったカバンとお菓子の入ったビニール袋を持つ。宇垣も冷蔵庫の扉を開いて、相田が買ってきてくれた飲み物が入っているビニール袋を持ってくる。

 2人は用意ができると、リビングの扉を開いて宇垣の部屋へと向かった。




    ×     ×     ×     ×




 階段を上がってすぐ、相田はいくつかある部屋の中で一番近くの扉に視線を向ける。

 その扉に、縦長の木札が吊るしてあった。木札には“涼平”という名前が黒い墨で分かりやすく書かれてある。宇垣はその部屋の前までいくと、ドアノブに手をかけて相田に視線を向ける。


「ここが、自分の部屋だよ」

「初めてでも分かりやすいな」

「ふふっ、たしかにね」


 宇垣が笑うと、相田もつられて笑った。

 兄弟がいるわけでもないのに、部屋の扉に宇垣の名前の札があること。特に名前を筆で書かれてあるあたりが宇垣らしいなと、相田は思ってしまう。


「さあ、入って」

「ああ。お邪魔します」


 宇垣が明かりの点いていない自分の部屋へ入っていくと、相田も宇垣について行くように部屋の中へと入ろうとする。相田が部屋の扉を過ぎた辺りで、部屋の天井にある電灯が部屋の中を照らした。


「……ぇっ」


 相田は止まった。足だけでなく、目も、顔も、体も、思考さえも。相田の体の全てが、固まった。

 宇垣の部屋の中央にある電灯。部屋の天井から電灯が照らしたものは、宇垣と相田と学習机とベッドとタンス。

 そして、それらを凌駕するほどの『墨で文字が書かれた紙』である。


 部屋の壁のほとんどが紙で占めていて、その白い紙に真っ黒な墨で様々な文字が書いてある。それはまるで模様のようで、異様に書かれた文字は、何とも言えない奇妙さを放っていた。

 白と黒の色が存在感を露わにしているという部屋の内観。それが、宇垣 涼平という男の部屋であった。


「うん? どうしたの?」

「え、なんていうか……いや、その……」


 相田は必死に平静を取り保とうとする。なんとか頭から言葉を捻り出し、口から出していく。

 相田の中に芽生えた感情。それは狂気の混じった恐怖。異常を目にした相田にとって、気味の悪さや驚きによる感情よりも先に、人間としての恐怖を感じていた。


 しかし、相田は言い淀んでしまう。今、感じたものを宇垣に素直に言えないでいる。もし、それを言ってしまえば、自分は宇垣に対して、異常であることを言われるような。言ってはいけないことを言ってしまうような。そんな気がしていた。


「……ほんと、すごいとしか言えないだろこれ」

「まあ、そうだね。政がそう反応するのも普通と言えば普通だね」


 宇垣は笑みの混じった悲しげな表情でそう言った。その表情に、その言葉に、どういった意味が含まれているのか。相田は考えようにも、まだ理解することが出来ない。

 それでも、宇垣が相田を普通であると言ったことで、相田の思考と感情は普通になっていく。自分が感じたものは、自分の反応は、普通のことなのだと。相田はそう思えただけで、相田自身の中の自分というものを見失わずに済んでいた。


 ただ、相田の動揺はまだ完全に治まったわけではない。頭の中で浮かんだ疑問をそのまま言葉に変えていくことしか、まだ出来ないでいる。


「なんで、こんなにも習字の紙があるんだ?」

「趣味だって言いたいところだけど、本当はじぶんが書きたいっていう衝動を抑え切れないからかな」


 相田はとりあえずベッドに腰をかけながら、宇垣にそう聞いた。手に持っていた荷物を床に下ろし、宇垣に疑問を問いかけることで、相田の中の動揺は少しずつ和らいでいく。

 宇垣は学習机のそばにあるイスに座り、壁に張り付いた紙を見つめながら、少し小さな声でそう答えた。見えない悲しみを帯びたような声色。そんな宇垣の声を聞きながら、相田は首を傾げる。


「ん? それは趣味じゃないのか」

「ううん、趣味じゃない。趣味は本気で熱くなるものだから。これは熱くなった心を冷ますものだからね」

「冷ます? つまり、あれか? 字を書くと集中したりして、気持ちが落ち着いたりするっていうやつ」

「たしかに。気持ちが落ち着くのはそうだね」


 宇垣は相田の顔を見ず、淡々と相田の言葉を返していく。墨で文字が書かれた紙を触りながら、視線はその紙から離そうとしない。そんな宇垣の様子がなんとなく元気がないような、弱々しい雰囲気を相田は感じていた。

 そして、宇垣は悩まし気な表情を浮かべると、思い悩むようにやや下を向いてうつむく。


「でもこの……じぶんはね。書くことを趣味として認めたらいけない気がするんだ」

「なんでだよ」

「だって、“じぶん”は私を……いいや、自分を取り戻すことが出来るから。そう、本気で愛するしかないから」

「………え?」


 相田は分からないと思った。どういうことなんだと、言葉を続けようとした。だが、続けることが出来ないでいた。

 相田は目を逸らさない。目を逸らすことが出来ない。目の前にいる宇垣を、相田は自分の目で見つめる。


 宇垣はうつむいていた顔を上げていた。まっすぐ、相田を見ていた。目を大きく開き、喜怒哀楽のどこにも属さないような表情。力強い視線、真剣そうな真顔、宇垣の本気の表情を相田は目の当たりにした。

 相田は初めて聞いた。宇垣の本心だけが込められた素の声。この数ヶ月を一緒に過ごしてきて、ここまで本気であり、ありのままの宇垣の声を聞いたのは、初めてであった。

 そして、相田が耳にした言葉はまるで愛の告白のようで、その言葉には様々な想いと意味が込められていたように感じられる。


「政、これを見てよ」


 宇垣はイスから立ち上がる。さきほどまで見ていた紙。壁に貼り付けてあった、文字の書いてあるひとつの紙を手に取る。

 宇垣は立ったまま、その紙を宇垣は画びょうを取らずにそのまま紙を剥がして相田に見せた。


“春眠不覚暁 処処聞啼鳥 夜来風雨声 花落知多少”


 中国の詩人である孟浩然が書いたといわれる有名な詩のひとつ。ことわざにもなっている「春眠暁を覚えず」の起源だと言える詩である。

 その詩が書かれた紙を、宇垣は真剣な表情を変えないまま相田に見せつける。


「この、じぶんのやつ。綺麗だろ?」

「あ、ああ。そうだな」

「そうなんだよ。このじぶん、綺麗なんだ。うん、綺麗なんだよ!」


 相田の反応を聞いて、宇垣の表情はすごく歓喜に満ちたものに変化していく。

 逆に相田は何が何だか分からぬまま、呆然とした表情を浮かべていた。


「本当はこのじぶんを愛さなきゃいけない。いいや、愛してるけど、本気じゃない。本気になってしまったじぶんは、破れてしまうから」


 宇垣は自分で書いた紙を見つめながら、相田を無視するように黙々と語り始める。表情を豊かにしながら、気持ちが昂った様子で喋っている。


「分かってくれ、政。誰かを好きになってしまえば、その人を愛したくなるから、じぶんは書くんだ。じぶんを書くことで、愛せる対象が出来る。じぶんを愛したくなるから、じぶんを本気で愛する。愛するしかないから、じぶんを書くしかない。だから、趣味なんかじゃなくて、これは愛情表現なんだ」


 また、紙を見せつけるように相田の目の前へ持っていきながら、宇垣は訴えかける。これだけは分かってほしいと言わんばかりの宇垣に対し、相田は全く何も理解出来ずにいる。

 宇垣はたくさん言葉を並べてはいるが、相田はそれが話として理解出来ない。話の意味がひとつに繋がらない。結局、何の話がしたいのかさっぱり分からないのだ。だから、難しい表情を相田はずっと浮かべることしかできないでいる。


「あ、えっと、その……なんの、話をしてるのか。分からなくなってきた」

「何の話って……自分がなんでこれを書いているのかの話じゃないか。分からないの?」

「いや、分からない。結局、なんで書いているんだ?」

「だから、自分でじぶんを書いて愛するしかないからだよ」

「は、はあ!?」


 相田は宇垣が何を言いたいのか、余計に分からなくなっていく。意味の分からない会話に少しイラ立ちを覚え、相田の表情がさらに険しくなっていく。

 そんな相田の様子を見たからか。宇垣は学習机から下敷きのようなものをひとつ取り出す。その下敷きのようなものには、さきほどと同じ詩が書かれてあり、それを相田に手渡した。


「え、これは?」

「政には、前に話をしたよね。中学校の時の部活にいた、豊条月菜っていう名前の先輩。その豊条先輩が書いてくれたじぶん。まぁ、分かりやすく言うと習字のお手本みたいなものさ」

「その先輩が書いてくれたじぶんって何?」

「ん? あ、そっか。政は分からないでいたのか。だからさっきからおかしかったんだね」


 宇垣は何かに気付いたような表情を浮かべ、指をこすらせて音を鳴らす。何故、相田がさっきから難しい顔を浮かべていたのか。今になってやっと理解する。

 学習机の上に置かれたペン立てから鉛筆を手に取った宇垣は、ノートを取り出して何かを書き始める。


「てっきり、じぶんのことを分かってるつもりで話をしていたよ」

「いや、涼平のことは分かるよ? けど意味が分からないんだ。とりあえず、どういうことなのかを全部説明してくれ」

「ごめんね。じぶんっていうのは、まず文字の字に文字の文って書いて読むやつなんだけどね」


 宇垣はノートに何かを書き終え、それを相田に見せる。

 開かれたノートのページには、やや大きな字で「字文」と書かれてあった。分かりやすく隣に平仮名で「じぶん」とまで書いてあったが、相田は気にも止めずにそれを読み上げる。


「字文?」

「これは書道でいう、昔の偉人や書道家が書いた字の文のことなんだ」

「ああ、なるほど!」


 そこで、相田は目を細めて何回か頭を頷きながら両手を叩く。

 相田は宇垣とのさっきまでの会話で、何のことを話していたのかやっと理解する。どうしても分からないでいたものがやっと分かって、晴れやかな気分になっていく。


「つまり、ここにある紙に書かれたやつは全部が字文ってわけで、その先輩のお手本を見て書いたってことか!」

「うん。それでほぼ、合ってるかな」


 分かったように意気揚々と語る相田に、宇垣は苦笑いを浮かべて返答する。

 だが、相田は手に持った字文を見て、ふと疑問に思う。宇垣からもらった字文のお手本。下敷きのようにラミネートされたこれは、何故こんなにもボロボロで汚いのかと。


 お手本の字は確かにキレイではある。しかし、ラミネートで加工されたことによって墨汁を弾くであろうお手本が、様々な箇所から何回も折ったり曲げたりしたかのような傷がある。手か指を切ったかのような、何かを擦ったような、赤黒い何かが付着している。明らかに普通に使っていたら残らない汚れと傷。普通ではない汚れと傷が、相田の手元にあるお手本にはしっかり残っていた。


「でも、なんでこれ。こんなにグシャグシャで汚れてるんだ?」

「当たり前だろ? だって、本気で愛したくなるからじゃないか」

「え? もう一回言ってくれ?」

「まったく、仕方ないなぁ。ちょっとそれちょうだい」


 思ってもいなかった宇垣の答えに、相田はもう一度尋ねた。

 ところが宇垣は答えずに、相田の持っていた字文のお手本を手に取る。やれやれと言いたげな顔をしながら、さきほど見せてくれた字文の紙と字文のお手本を上下に重ねる。重ねたことによって、宇垣の書いた字文とお手本の字文との違いがほぼ無いことに気づく。

 まるで、本人が同じように書いてみせたかのように、その字文は似ていた。


「いつもね、これを下に引いて書いてるんだ。綺麗で素晴らしい豊条先輩の字文の上に、同じ字文を書く。真っ白な紙をひいて、真っ黒な墨で書く。これをすることで、愛することの出来る字文になれるんだ」

「愛することの出来る字文?」

「さっきも言ったじゃないか。自分は字文を愛するしかないって。誰かを愛したいっていう欲求や感情が湧き立つと、それを抑えるのに字文を書くしかないんだ。そのためには、豊条先輩の綺麗な字をたくさん書くのが一番良いんだよ」


 相田は宇垣の持っている下敷きが宇垣にとってはとても必要なものであることを理解する。

 だが、肝心の下敷きが何故そこまで汚れてしまっているのか。宇垣の言っている言葉は、下敷きが汚れている理由の説明になっていない。どうして汚れてしまうのか、何をしての汚れなのかが、理由が不明瞭のままである。


「つまり、たくさん使い古しているから、こんなにも汚れているわけか?」

「それもあるけど、つい感情が抑え切れず、愛の力が入っちゃうからだね」

「愛? 愛の力?」

「誰かを愛したいという衝動が強くなっている時は、書けばすぐに収まるわけじゃないからね。本気で愛したくなるわけだから、字文も本気で書かないといけない。たくさん書いて、本気で字文を愛するように書くわけさ」


 自分が書いた字文を見つめながら、過去を振り返るように語る宇垣。相田はそんな宇垣を見て、何も言わずにいた。ただ、黙って聞いていた。


「でもね、これだと自分の熱は消えない。愛したいという欲求も、殺したいという欲求も消えない。本気で愛して、本気で殺したい衝動は止まらない。先輩が書いた字文も、自分が書いた字文も、すごく愛したくて殺したくなるんだ! だから自分は……字文を……」


 宇垣は息を荒くしながら、湧き上がる衝動に堪えながら、紙とお手本を握る。握ったことによってお手本と紙は折れ曲がってしまっていた。

 それを見た相田は、そこで下敷きがボロボロに汚れている理由に気付いてしまう。今まで宇垣が言っていたことの言葉の意味を、ようやく理解した。


「こうやって、殺すしかないんだよっ!!」


 宇垣は握り潰すように両手で紙と下敷きを掴んでは、左右に引きちぎろうとする。指先にも力を込めながら、握るように、破るように、潰していく。

 だが、紙は破れても、ラミネートされた下敷きは破れない。グシャグシャに潰すように丸めては、床に落とす。

 そして、今度は紙をバラバラにしていく。紙をちぎっていく行為を、全力を出してはひたすら真剣に行っている。紙の全てが細々になるまで、宇垣は力を込めることを止めはしなかった。途中で力を緩めることは絶対にしないでいた。


 その一部始終を、相田は目を離さず、ただ見つめていた。何もせず、目を逸らさずに集中して見ていた。

 それは、宇垣が紙を粉々にする行為が全力で、真剣で、本能的なものであったと相田は感じたからだ。全く曇りのない、まっすぐな感情。打算や理屈の混じっていない、純粋な愛情表現。考えているわけではなく、本能的にしたいという欲求を思う存分している行動であることが、宇垣から伝わってくる


 ただ、その行為は決して、楽しいとか喜びとかそんな幸せを感じているものではないと、相田は宇垣の表情を見て思っていた。

 手元に何もなくなった宇垣は、荒かった呼吸を段々と落ち着かせていく。地面に落ちた紙の残骸を見つめながら、宇垣は熱くなっていた感情を冷ましていた。


「ごめん、取り乱しちゃったね。ほんと……酷いだろ」

「いや、その……えっと」

「いいんだよ政。自分はおかしいって、普通じゃないって。そんなの、分かってるんだ」

「…………」


 宇垣はずっと下を向いたまま、弱々しい声を出して話している。

 相田はそんな宇垣に、何かを言ってあげるべきだと思った。だが、結局は何も言えなかった。言えるわけがなかった。


 涼平はおかしい。涼平は普通じゃない。人として異常だ。相田はそう思った。

 だけど、それ以上に真剣であったこと。嘘でも偽りでもない、真実に満ちたものであったこと。涼平の気持ちは理解出来ないけれど、涼平が本気で苦しんでいるということ。それだけは、相田は心から理解出来た。


「本当は、何も愛したくないよ。本当は、何も殺したくない。字文を愛するなんて、しないで済むならどれだけ良いかと思う。でもね、どうしようもないんだ。これしか、字文を殺し愛さなきゃ、自分が自分のままでいる方法はないんだ」


 ずっと下を向いたまま、頭を抱え、絶望する宇垣を見て、相田は心臓を掴まれるように胸を締め付けられていた。


 相田は理解してしまった。宇垣が人を愛さない理由を。

 相田は分かってしまった。宇垣が過去に恋愛に対して後悔しているのは何故なのかを。

 相田は気付いてしまった。宇垣が抱えてきた「恋愛」というものの正体が、相田の感じた恐怖そのものであったことを。


 そして、宇垣の行動も言動も愛情も殺意も、何もかも全てが本気によるものであることを相田は知った。


 宇垣の知られざる真実を知った瞬間、相田に残ったものは決してさきほどまで感じていた恐怖ではない。

 宇垣のことを分かってあげようという、大事な友人のことを理解してあげたいという、そんな気持ちであった。


「とりあえず、飲み物もらってもいいかな?」

「……ぇ?」

「喉渇いたから、何か飲めるものが欲しいなって」

「あ、ああ。そうだな」


 呆然としていた相田は慌てて、床に置いたビニール袋を取り出し、中のペットボトルを探る。


「そうそう、涼平が好きなウーロン茶を買っておいたんだ」

「お、ありがとう。政にしては気が利くね」


 ビニール袋から大きいペットボトルのウーロン茶を取り出し、宇垣に手渡す。すると、宇垣の表情は明るくなる。さっきのことなんて、何も無かったように表情が緩んでいる。


「しかも、2リットルのやつを買うなんて分かってるじゃないか」

「涼平ならいっぱい飲むかなと思ったからな」

「そうだね。ありがたく全部もらっておくよ」


 宇垣は立ち上がり、大きいペットボトルを持ったまま相田の目の前を横切る。


「全部飲む気かよ! てか、どこに行くんだよ」

「どこに、ってそりゃあ冷蔵庫にこれ入れておかないと。だって明日から100ミリリットルずつ飲むんだからね。部屋に置いといたら、ぬるくなっちゃうじゃないか」

「どんだけちまちま飲むつもりなんだ。せっかくなんだから、俺にもくれよ!」


 相田が手の平を見せるように宇垣に突き出すと、宇垣は呆れた表情になって鼻から息を出す。


「まったく、政は仕方無いやつだなぁ……特別だよ?」

「それを買ってきた俺に対して、その言い草はおかしいだろ」

「ふふっ、まぁ冗談だよ。あ、そうそう、ケータイっと」


 ベッドのそばにある棚に携帯電話が置かれてある。宇垣は充電中の携帯電話を充電器から取り出して、ズボンのポケットに入れる。


「とりあえずコップに氷多めに入れて、少し水で割ってきてあげるから。ちょっと待っててね」

「ありがとう……ん? って、それ薄いウーロン茶じゃねぇか!!」


 相田のツッコミを無視して、宇垣は部屋から出て行ってしまう。

 しかし、扉の向こうから少しだけ笑い声が聞こえたので、相田も笑みを浮かべた。


 宇垣が部屋から立ち去った後、相田はベッドに腰をかけたまま、宇垣の部屋の中をもう一度じっくりと見回していく。

 そんな中、さきほど宇垣が散らかした紙が気になってきたのか、相田は紙を拾うことにした。


「ったく。涼平も仕方ないやつだな」


 相田は宇垣に対してぼやきながらも、細々になった紙をいくつか拾い集め、学習机のそばにあるゴミ箱に入れようとする。すると、ゴミ箱の近くにやや丸めてある紙が落ちてあった。

 相田は手に持っていた紙をゴミ箱に捨て、一緒に捨てようと落ちていた紙を拾う。しかし、そこに墨で何かが書いてあることに気付き、相田は興味本位で丸まった紙を開いていく。


「え? これは……」


 そこに書いてあったのは“絶対阻止”という文字。水性のりのようなものが付着し、所々に小さな穴が空いている紙に、相田が見た覚えのある文字が書かれてあった。

 それは明らかに、霞ヶ丘高校の玄関の掲示板に貼られてあったポスターの文字である。相田の好きな女優の宮越みやごし 菜月なつきが写っているポスターだけに、相田が忘れるわけがなかった。


 相田は少し考えるが、しばらくして考えるのをやめ、手に持っている紙を丸める。

 考えても意味なんて分からないし、今更どうだっていい。偶然かもしれないし、涼平は字が綺麗だと言っていた。単に字が綺麗だから、書いただけだろう。相田はそう思って、紙をゴミ箱に捨てた。


 宇垣がポスターの文字を書いた意味を分からぬまま。書いた理由を知らぬまま。相田は宇垣が落とした紙をまた拾い始めたのだった。

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