4話

 霞ヶ丘高校の校舎裏。そろそろ授業が始まろうとしている時間なのもあってか、生徒も教師もそんな場所を通る人はいない。

 そこに、相田と宇垣の2人はいた。


 宇垣は言った。笑みを堪えるような、口元が引きつったような、なんとも不気味な表情で。

 “愛すれば殺してしまう”という、非人道的な言葉を宇垣は相田に告げた。


「……は?」


 宇垣の言葉を聞いて、相田は思考を停止してしまう。理解出来ないということよりも、理解したくないという想いが強く表れている。頭の中で宇垣の言うことの意味を深く考えることが出来ない。そんな状況に相田は陥っている。


「わけわかんねぇよ。殺す、ってどういうことだよ?」

「だからね、椎名さんを愛してしまえば、自分は椎名さんを殺すことになってしまうんだ」

「そうじゃない。なんで殺すんだって言ってるんだ!」

「それは、殺したいからだよ」


 相田は宇垣の諭すような態度に苛立って、声を張って言い放つ。

 分からない。分かりたくない。分かるとしても、考えたくない。それが相田の頭の中で、浮かび合った言葉。愛せない理由が、殺してしまうからなんていう理由。そんなもの、相田にとっては考えたくもないことであった。


 人を殺したくなる気持ち。人を殺す時の感情なんてものは、怒りや恨み、負の感情で湧き起こるものだと相田は知っている。

 だけど、宇垣は愛すれば殺してしまうと言った。宇垣にとって愛することとは人を殺すもので、人を不幸にしてしまうものであると。愛すれば、その人を殺したくなるものであると。


「なんで殺したい? なぜ、殺したくなるんだよ!?」

「好きになれば好きになるほど、その人を愛したくなる。愛したくなれば愛したくなるほど、その人を殺したいほど愛したくなる。その湧き上がってくる愛情と殺意は、溢れたら止められないんだ」


 疑問が頭の中でいっぱいになり、戸惑い始める相田。宇垣に問いかけるように、殺したくなるという理由を聞いた。しかし、その答えは相田にとって理解しがたいものであった。


 気に入る。好きになる。そうなればなるほど、人はそれに夢中になる。愛したくなる。

 でも、もし人がそんな想いが行き過ぎてしまう状況に陥ってしまったら、どうなるだろうか。理性が働けば、きっと止まることは出来るだろうが、それが出来ない場合。愛したいという想いが強くなり、感情が強くなればなるほど、愛情は溢れて止めどなく流れ出してしまう。

 つまり宇垣は、誰かを愛そうとすると、理性が働かないほど愛したいという感情が溢れてしまうということ。その結果、その感情が殺したいほどのものへと変わり、誰かを殺してしまうことを告げていた。


 宇垣は真面目に相田の目を見て言う。達観した表情で、まるで経験したことのあるような言い方に、相田はよりいっそう困惑してしまう。相田は右手で頭をかいては、地面を見るようにうつむいてしまう。


「なんだよそれ? 分からない。分からねぇよ、そんなこと!」

「そうだね。残念だけど、恋愛を知らない今の政には、自分の気持ちは分からないだろうね」


 残念そうに、哀れむように、宇垣は相田を見下すように言った。相田には理解できないのだと、悲しげな目を向けている。

 それが、相田の気に触れた。宇垣が相田に向けた表情も言葉も全てが、困惑している相田の神経を逆なでにしてしまっていた。


「涼平、俺をバカにしてんのか!? ふざけんじゃねぇ!!」


 相田は頭に血がのぼって、宇垣の胸倉を掴むようにカッターシャツを右手で掴んで引っぱる。

 理解出来ないのは、恋愛をしてこなかったから。それだけ未熟であるから。自分よりも政が劣っているからだと。相田はそう言われている気がして、無意識に力が入ってしまう。


「政、痛いから。手を離してくれ」

「なんで、なんでおまえが……椎名さんを」

「だからね、椎名さんを殺さないためにも、政のためにもだ。自分は椎名さんの告白を断ったんだ。仕方がなかったんだよ」

「…………は?」


 相田は目を細めて、表情に怒りの感情を強く表していく。

 相田は許せなかった。好きな椎名を泣かせておいて、宇垣の言い放った言葉が許せない。

 宇垣が椎名さんの告白を断ったのは、相田のため。椎名さんを泣かせてまで断ったのは、椎名さんと相田のためだったから。だから仕方がなかったのだと。そんな人のせいにするような理由で告白を断ったことを、相田自身が許せるはずがなかった。


「仕方ない、だと!? 涼平、おまえっ!!」


 相田は今にも殴り掛かりそうに、拳をつくって力を込める。

 その瞬間。学校の授業のチャイムが鳴り響いて聞こえ始める。チャイムの音で相田の腕は止まり、硬直する。そのまま静止していると、殴られると思って目を閉じていた宇垣が、その様子を見て口を開いた。


「離してくれ政。殴ったところで、意味なんかないんだ。それに授業が始まる。早く授業に行かないと」

「………ぐっ!!」


 相田は歯を噛みしめて、辛そうに表情を歪める。

 宇垣の言う言葉は、殴ってしまえば、人間として、友人として、取り返しのつかないことになること。また、宇垣を殴ったところで何も変わらないということ。そんな意味が宇垣の言葉には含まれていた。


 それでも相田は、殴りたい衝動が、握り締めた拳の力が、体内に滞在していた。どこにも行き場がないように体の中に留まって消えない。しばらく堪えた後、宇垣を突き押しては、校舎の壁を拳で叩くように殴る。


「先に、行ってくれ。俺は、後で行くから」

「……分かったよ」


 相田は怒りを抑えるように、痛みに堪えるように、そう言って顔を伏せる。その様子を見て、宇垣は軽く頷くと、相田を無視するようにその場から立ち去る。

 宇垣がその場からいなくなったあたりで、相田は膝を地面につき、校舎の壁に両手の指を突き立てながら崩れ落ちた。


「……いってぇよ、くそっ! なんで、なんで……こんなことに」


 相田は目を閉じ、両手を強く握り締め、認めたくない現実に抗うように心の中で葛藤する。


 なんて理不尽なんだ。自分がみじめに感じる。

 ただ、宇垣を許せなかった。だからこそ自分が悔しかった。

 この現実、認めたくない。でも、抗ったところで現実は変わらない。


 そんな心の葛藤が、相田の胸を締め付けていく。ぎゅっと心臓を握られるように胸の中が痛くなって、左胸を右手で抑える。

 相田は目を開いて地面を見つめた。段々と視界がぼんやりとにじんでいく。そこで、目の中に涙がたまっているのが分かり、左手で涙をぬぐった。


「こんなのが、友情っていうのか? こんなのが……恋愛だっていうのかよ」


 自分が今まで信じてきた恋愛は、思い描いていた恋愛は、こんなものじゃない。宇垣の言うことも、宇垣が行った行為も、絶対に友情なんかじゃないと。何もかもが間違いで、嘘であると。相田はそんな想いを抱えて、地面に向かって言葉を吐き出す。


 しかし、この世界は理想や空想、フィクションとは違う。相田の目の前で起きたことは、嘘偽りのない現実である。

 椎名が宇垣に告白したことも。椎名を殺さないために、相田と椎名のために、宇垣が告白を断ったことも。そして、椎名が涙を流して傷ついてしまったことも。全て、現実の世界で起こった出来事であった。


 何も受け入れられないまま、相田は校舎の壁に背中を預けて座る。涙が渇いた瞳で、右手の甲を見つめる。皮がむけ、血が流れ、赤くにじんだ手は今も痛みは消えない。


 消えない心と体の痛みに堪え、物理的な痛みに意識を向けながら。相田はその日、保健室にて過ごしたのだった。




    ×     ×     ×     ×




 宇垣が椎名に告白を断った日。相田と宇垣でトラブルがあった日から、3日が経った。

 あれ以来、相田は宇垣と会っていない。というのも、相田が宇垣に会わないようにしているわけではなく、会えていないという方が正しい。


 あの出来事の後、相田が教室に戻った時には、宇垣は学校にはいなかった。すぐに早退して、帰ってしまったという。

 それ以来、宇垣は学校をずっと休んでいた。理由は病欠であると担任の教師から聞かされる。だがその間、宇垣から相田に連絡はない。相田もまた、宇垣に連絡を取ることはなかった。


 今日は7月22日金曜日。今日の終業式が終われば、明日から夏休みが始まる。そんなわけで、霞ヶ丘高校の生徒達は待ち望んでいた夏休みに意気揚々としていた。

 時計の針は3時半を過ぎ、太陽の日差しも弱くなってきた頃。相田が図書室で夏休みの宿題を開いている最中、近くに誰かがやってくる。


「あ、相田くん」

「え?」


 相田に声をかけたのは、椎名しいな 智華ちか。相田が好きな女子であり、宇垣に告白をしてフラれたという彼女。その椎名から、相田は声をかけられた。

 相田が教室でのHRが終わったのは12時半過ぎ。つまり、用事のない生徒達が帰り始めてから3時間ほど経った今、宇垣と椎名は学校の図書室にいた。そして、椎名は小声で可愛らしく相田に質問する。


「なんでここに?」

「えっと、とりあえず宿題を片づけようかなと」


 相田がここにいた理由は、単にエアコンの冷房がかかっていて涼しかったから。この時間までいたのは、今まで学校の手伝いをさせられていたためである。そして、家の鍵を忘れた相田は、親が帰るまでの時間を潰すためにこの図書室で簡単な宿題を済ませようと長机に座ったところだった。


「椎名さんこそ、なんでここに?」

「私は、クラス委員の仕事があったから。今やっと、終わったの」

「クラス委員の仕事?」

「そうそう」


 椎名は可愛らしい声でそう言うと、少し苦笑いを含んだような微笑みを浮かべる。隣のイスに座り、相田との距離を近づける。

 相田は、椎名がいつも大変そうにクラス委員の仕事をしているのを知っている。だけど、今日は1学期最後の日。終業式を終えたのに、まだクラスの仕事があるなんて、相田には不思議で仕方がなかった。


「今日、終業式だったのに、そんな仕事あったの?」

「今週は宇垣くんが休みだったでしょ? だから、仕事が重なっちゃって」

「ああ、そういうことか」


 相田はそこでやっと納得する。宇垣がしなかった仕事の尻ぬぐいを、椎名がしていたというわけだった。それだけに、相田はいつも以上に椎名が可愛そうに感じてしまう。


「けっこう大変なんだな、クラス委員って」

「ううん、そんなことないよ。2人でやれば大変じゃないから」

「……そうなんだ」


 頷きながら、相田はそれ以上何も言わなかった。

 2人でやれば大変じゃない。だけど、宇垣が手伝わないから、何もしないから、椎名が大変になる。それを知っているから、何も言わずにいた。


「相田くん、ちょっといいかな?」

「うん? どしたの?」


 耳元で内緒話をするかのように、椎名はより小さな声で相田に言う。そのせいで、相田はついドキッとしてしまい、心臓の鼓動が少し早くなる。


「相田くんに聞きたいことがあるんだけど……」

「聞きたいことって?」

「それでね。ここだとちょっと話しにくいから、場所変えない?」

「うん、いいよ」


 相田は机の上に広げた宿題をカバンの中に片づけ、椎名と一緒に図書室を出る。


「中庭のベンチでもいい?」

「俺は構わないよ。でも、あそこってたまに人が通るよ?」

「この時間帯なら、あんまり来ないかなって。みんな帰っちゃってるから」

「それもそうか」


 2階の図書室から階段を下りて、中庭までやって来る。中庭の校舎近くのベンチがちょうど日蔭になっていたため、2人はそこに座る。


「それで? 聞きたい話って?」

「えっとね。宇垣くん、今どうしてるか知ってる?」

「え?」


 椎名の急な質問に、相田は戸惑う。椎名が相田に聞きたいことというのは、宇垣のことであった。


「その、病気って聞いたから。私、ちょっと心配で。それで、相田くんは知らないかなって」

「えっとその……涼平とは連絡とってないから。正直、わかんないんだ」

「あ、そうなんだ……そっか」

「うん、ごめん」


 相田はなんとなく謝った。謝ることでもないのかもしれないが、椎名の聞きたかったことに答えられなかった。そんな想いから、つい謝ってしまう。


「ねぇ、相田くん。もしかして私のこと、宇垣くんから聞いた?」

「えっ、いや、その……」


 椎名が何のことを言っているのか。相田は聞かずとも、宇垣に告白したことなんだと察してしまう。それだけに、どう答えればいいか。どう反応して答えればいいのか分からず、言葉を濁す。


「俺、椎名さんが泣いているの見たから。つい涼平に聞いてしまって……」

「……そっか、そうだよね。私が泣いてたところ、相田くんに見られちゃったもんね」

「なんか、ごめん」

「そんな、相田くんが謝ることじゃないよ?」

「いや、でも……」


 でも、相田は謝りたかった。なんか、謝らなければいけないような。そんな気がしていたから、相田は座ったまましっかりと頭を下げて謝った。


「私が宇垣に迷惑かけちゃったからいけなかったの。私って、いつも宇垣くんに迷惑かけてるから」

「……いや、そんなこと。ないと思う」

「ううん、私が不甲斐ないから。だから、宇垣くんに頼ってばかりになっちゃうし、クラス委員の仕事も上手くいかないし。全部、私のせいだよ」

「……ちがう」


 相田は思った。椎名さんの言うことは、間違っている。本当は違うんだと。彼女にそう言いたい。それを言わなければならない。いいや、言うべきなんだ。

 そんな思いが、相田の表情を真剣なものへと変えていく。


「違う! 椎名さんのせいなんかじゃない。悪いのは、涼平なんだ!」

「そんな、宇垣くんは悪くないよ。私が悪いから、宇垣くんが困ってしまうの」

「いいや、椎名さんは悪くない。悪くないんだ。涼平が、あいつが椎名さんを……」

「相田くん、私を庇わなくてもいいんだよ。私のせいなのは事実だから」


 優しくも辛そうに微笑みながら、椎名は相田の言葉を返す。そんな椎名の表情を見て、相田は余計に胸を締め付けられる。言葉も気持ちも止まらなくなる。相田の中から湧き上がる感情と想いが、熱くなり、強くなる。


「それでも、椎名さんはいつも頑張っているじゃないか。涼平の分まで頑張ってるの、いつも頑張ってるの、俺ずっと見てたから」

「……え?」

「だから、椎名さんは悪くないんだ。悪いのは全部、涼平なんだ!」

「…………」


 相田の言葉を聞いて、椎名はうつむいた後、手の平で口元を隠す。左手は膝の上に乗せ、強く握り締めては震えていた。


「なんで? なんで、そんなこと……」

「だって俺……」


 椎名の声は、涙を堪えているかのように震えていた。苦しそうな表情で、相田を見つめる。

 そんな椎名を見て、相田は言ってしまう。今思ったことを、今感じたことを、胸の中の想いや感情を乗せて、言葉にして言った。


「椎名さんのことが、好きだから」

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