1.自分、私、どうする
1話
石川県加賀市の南部にある霞ヶ丘町。山林が多く、加賀市の中でも山沿いに所在するこの町には、古くから山と隣接するように建てられた高校があった。
その高校の名前は霞ヶ丘高等学校。普通科と家政科の2つの学科があり、3学期制度であるこの高校は、今年の2005年の7月でちょうど100年目を迎えようとしていた。
そんな霞ヶ丘高校は、加賀市の霞ヶ丘町の中でも山林の多い場所に建てられた学校である。また、人の住む町から山に上ろうとする場所に位置していたという問題もあった。つまり、霞ヶ丘町に住む地元の人間以外は通いにくい場所に建てられていることになる。
それでも、隣町からわざわざ霞ヶ丘高校に通う高校生はいた。その高校生の一人が、今日も実家から汗水垂らしては自転車を漕いでいる。45分もかけて家から学校まで通っていた。
「……あぁっ、もう! なんでこんなに、暑いんだ!!」
自転車のペダルを足で踏ん張って漕ぎながら、男子高校生は照りつけるような光を浴びせてくる太陽に向かってそう嘆いてみせる。
今日は6月6日。ちょうど高校で衣替えの移行期間が始まる日であった。週末明けである月曜日の今日、自転車を漕ぐ男子高校生もさっそく半袖のカッターシャツを着ている。
「こんなことなら、水筒持ってくれば良かったな」
体から流れていくように出ていく汗。失われた水分を補給しようと男子高校生は自転車のカゴに入っているペットボトルの麦茶を一口飲む。
だが、その表情は険しい。麦茶を飲んで喉が潤っても、気持ちの部分ではあまり潤わないでいる。
「ん?」
男子高校生が自転車で向かっている先に、白い傘が見えた。今日は晴れなのに、傘を差して歩く高校生がいる。そして、近づくごとにはっきりと見えてくる半袖のカッターシャツと制服のズボン、それにカバンや靴。それらが男子高校生にとって、よく見知っているものであることに気づく。
自転車に乗っている男子高校生は日傘を差している高校生のすぐ後ろまで行くと、ついて行くように自転車のペダルを漕ぐ速さを落とした。
すると、後ろからずっとついて来る自転車の音を聞いて、日傘を差している高校生は後ろを振り向く。
「おっ、やっぱ
霞ヶ丘高校へと繋がる道路の1つ。日傘を差してはその道路を歩く人物は、自転車に乗っている男子高校生の一番の友人である。名前は“
自転車に乗る男子高校生とは同じクラスメートでもあり、入学して最初に話しかけた同学年の男子。半袖のカッターシャツが似合う友人が、堂々と日傘を差して歩道を歩いていた。
「なんだ、誰かと思ったら
「なんで日傘なんか差しているんだ?」
「日焼けしたくないからさ。太陽の直射日光を浴びるのは肌に悪過ぎる」
日傘を持ちながら、宇垣は面倒そうな表情を浮かべて肩をすくめた。
それに対して、自転車に乗っている男子高校生は不思議そうに宇垣を見つめる。名前は“
不思議そうに見つめたのは、目の前の友人がまさか肌のことを気にしているなんて思っていなかったからだ。
「そういうの気にする? 別に俺達若いから良くね?」
「そりゃあ、政はもう手遅れだから良いだろうけど」
「はぁ? 手遅れってどういうことだよ」
「だって、政はもう小麦色だろ? 自分の肌は白色だからね。気をつけないとすぐに政みたいに焦げちゃうよ」
「あははっ、そんな簡単に焦げるわけないだろ!」
宇垣の発言に、相田は笑い飛ばすように答える。
相田は中学の頃、野球部であった。炎天下の中、外でよく部活をしていたため、腕や顔などをよく日焼けしていた。そのせいもあってか、肌の色が年中ずっと小麦色のままになっていた。
それに対して宇垣は、中学の頃は書道部であった。運動全般が苦手なのもあり、知り合いの先輩に誘われたからという理由で書道部に入部し、屋内で過ごすことが多かった。また宇垣自身も、ある出来事をキッカケに紫外線を気にするようになった。そのため、高校生になっても肌が白いままなのであった。
「てか、男だったら肌くらい焦げていたっていいじゃんか」
「今は良くても、将来大人になってから苦労するのさ」
「そんな未来のこと言われても……大人になるまでには回復するんじゃね?」
「人間、負ったダメージは蓄積するものだよ。自然回復なんてものを期待するより、何も負わないように対策と予防をするのが一番さ」
「そんなこと言われてもなぁ……」
相田は宇垣の言う言葉に表情を曇らせる。宇垣の言葉を聞いて、何か腑に落ちないものを感じ始めていた。
相田も自分の母親が日焼け止めのクリームを塗ったりしているのをいつも見ている。それに、紫外線とか日焼けを気にして予防しようとする人もいることも理解はしていた。
ただ相田にとっては、それは女性が気にすることであり、若い男性が普段から気にするようなことではないと思っていた。それだけに相田は、宇垣が日傘を差してまで日焼けを避けようとする行為があまり理解できないでいる。
「それに、もう後悔だけはしたくないからね」
「え、後悔って?」
「昔、海に行ってさ。肌を露出していたのもあって、自分を焦がしてしまったんだよ」
「ああ、なるほどな。だいぶ焼き過ぎちゃった感じか」
「あれは今まで生きていて、最高に辛かった」
中学の頃、宇垣は部活の仲の良い先輩に海に誘われて、肌をだいぶ焼いてしまったことがあった。その時に、尋常じゃない痛みと痒みを知ったうえに、皮がむけるという衝撃の体験をしたことがあった。それ以来、宇垣は海には行かなくなった。
だが、大概の人間は日射病や熱中症、日焼けや熱による火傷などを経験し、そこで初めて太陽の恐ろしさを痛感することになる。痛感することで、人は嫌でも身に染みて覚えて、忘れないようになる。
だからこそ人間は、自然や病気などの脅威を実際に経験して分かっている人間と分かっていない人間とでは、価値観や生き方が大きく異なってしまう。それこそ経験したことで、今までの生き方が変わってしまうと言っても過言ではない。
宇垣は遠い目をしながら、そんな昔の自分の過ちを思い出していた。
そんな宇垣を見て、相田はなぜ宇垣がそこまで日焼けを嫌がるのか納得する。その理由が日焼けによるものならば、日焼けを避けようとするのも分からなくないからだ。
「じゃあ、長袖着ればいいのに」
「……えっ? あっ!!」
「え?」
宇垣は手に持っていたカバンを落とし、少し口を開けたまま立ち止まった。そんな宇垣の様子に驚いて、相田も自転車をとめて、降りる。
「お、おい。どうしたんだ?」
「ん? い、いや、何でもないよ?」
「いや、明らかにおかしいだろ」
「そ、そんなことはないさ。へ、へへへ……」
「もしかして、長袖を着ればいいってことに気づいてなかった?」
宇垣は落としたカバンを拾いながら、相田から目を逸らす。視線を斜め下に向けて微妙そうな笑みを浮かべている。そんな宇垣を見て、相田は自分が今言ったことが本当なんだと確信する。
「え、マジで?」
「良い着眼点を持っているじゃないか。やっぱ政は肌が焦げているだけあるね。なんていうか、ウーロン茶みたいな渋みを感じるよ」
「それ、褒めてないだろ!! あと、お茶に例えてもわけわかんないぞ!!」
笑みを浮かべる宇垣に対して、相田は呆れてしまう。まさか、宇垣がそんなことに気づかないとは思わなかったからだ。
「しかし、朝は長袖を着用しつつ、学校の中で半袖に着替える。なるほどね。そこは盲点だったよ」
「日傘なんか差しているから、そういうところを見落とすんじゃないか。傘なんて邪魔なだけだろ?」
「そんなことない。日傘は楽だよ? 日焼けを防止するという点においても長袖より優秀だしね」
「それは、そうかもしれないけど」
「なにより自分は白くありたいんだよ。心も体も全部、白くなりたいと思ってるから」
宇垣の話を聞いて、相田は思い返してみる。
相田と宇垣が出会ったのは2ヶ月ほど前の入学式の日。あれから今日までの2ヶ月間、相田は宇垣がどんな物を持っていたのかを見ている。筆箱、カバン、携帯電話など。どれも白色が基本となっている物がほとんどであった。
相田は今まで宇垣が何故そんなに白っぽい物が多いのかあまり気にはしていなかったが、宇垣の言葉を聞いてその理由に納得した。
「とは言っても、いっそ焦がしたり、染まったりした方が楽だろうなーとは思うけどさ」
「そうだな。何にも気にせず、思うがまま行動するのはたしかに楽だわ」
「でもね、やっぱり後のことを考えたら……うん。やっぱり無理かな」
「ま、それもそうか」
相田は自分とは違って、宇垣が気楽に日焼けできないのはなんとなく理解できた。今までやり通してきたことを、簡単に覆してしまうのは難しい。面倒だから予防するのをやめたいという気持ちはあっても、今までの頑張りを無駄にするのには多少なりとも気持ちがいる。
そこらへんは相田と宇垣とでは性格が異なっている。相田はやり通して来たものを捨ててしまうほど、その場のノリや直感で決めてしまう。というよりも、直感的に思ったようにやっているからか、やってきたものに思い入れはあまりない。継続力はなく、目新しいものに惹かれ、思ったことをやりたいようにする。それが相田の性格であった。
「とりあえず、自転車置いてくる。先、行ってて」
「うん、玄関で待ってるよ」
相田はそう言って、自転車にまたがってペダルを漕いでいく。宇垣もいつものように玄関へと向かって歩いていった。
× × × ×
宇垣は、玄関の外で相田が来るのを待っていた。
だが、険しい表情を浮かべる。日傘を差しながら、外を照らす太陽を睨むように、日傘越しから太陽を見る。
「……暑いなぁ」
そう呟いて宇垣は開いていた日傘を閉じると、太陽の光と気温の暑さから逃れるように、玄関の中へと入っていく。
宇垣は知っている。日光に当たらないからといって、紫外線を浴びていないわけではないことを。壁や床から反射して当たる紫外線もまた、肌には毒であることを。焼いてしまえば、焦げてしまえば、治るのは容易ではないことを。
「ん?」
宇垣は、玄関を越えた先にある掲示板に視線を向けた。履いていた靴を下駄箱に入れ、学校指定の内履きに履き替えた後、掲示板に貼ってある1つのポスターを見つめる。
そのポスターを見つめては、宇垣は目を奪われたかのように、その場に硬直してしまう。宇垣は不思議に感じつつも、幸福感を抱いていく。
「……なんて」
宇垣が見ているものが、見ている視線の先が、ポスターの何なのかは誰にも分からない。分かるのはきっと、宇垣自身。それは、自分である自分自体でしか他にない。
ただ、宇垣は幸せそうな表情で、ずっと見つめる。目を逸らすことなんて、出来ないでいる。
「なんて綺麗なじぶんなんだ」
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