跡形もなく壊してあげる

 ぱちり、火の粉がはじける音が、どこか遠くに聞こえる。

「帆波ちゃん、とにかく逃げましょう」

 ほとんど錯乱状態になりかけている律子が、突っ立っている帆波の腕を引く。が、帆波は頑としてそこを動こうとしない。

「帆波ちゃん!」

「……ねぇ、先生」

 母親の存在を無視し、帆波は声を張り上げ語りかける。未だ繋がったままのスピーカーから、『なぁに、帆波さん』とのんびりした声が答えた。

「これでもあなたは、わたしの家族がうらやましいなんて言うの?」

 これまでの無気力そうな、感情のこもらない言葉とは違う。まるで、舞台上で役者が感情豊かに台詞を吐くときのような、堂々とした――しかし、どこか哀愁を帯びた物言い。

「この人たちは、知らないの。五年前のあの日から、今まで、わたしがどれほど苦しんだか……この人たちの仕打ちに、わたしがどれだけ心を痛めたか。そのせいでわたしが、どれほど多くの感情を、叫びを、捨ててきたか」

 そう。五年前の、あの日だ。

 まだ何も知らない、無邪気で笑顔の絶えない小学生の子供だった頃。帆波は母親と手をつなぎ、若槻市街まで買い物に来ていた。

 忘れもしない。デパートやスーパーマーケットなどが立ち並ぶ場所から、ホテル街に続く路地裏。少し近道をしようと、そこへ足を踏み入れようとしたのが間違いだった。

 そこで、見てしまったのだ。

 父親が知らない女を――そこにいる、身の程知らずの女を壁に押し付け、熱烈に口づけを交わす場面を。

 普段パソコンや赤ペンなどに触れる、清廉で上品で、一種の憧れさえ抱いていた、美しいその指が……大胆にあいた女の白い胸元を、爬虫類のようにねっとりと這う場面を。

 帆波は気分が悪くなって、思わず駆け出した。そして人目もはばからず、道の真ん中で吐いてしまった。心配して駆け寄ってきてくれた周りの大人たちにも、上手く甘えることはできなくて。伸ばされた誰かの手を振り払い、錯乱して泣き叫んだ。

 そのあとのことは、覚えていない。

 気付いた時には、病院で点滴を受けていて。涙目の母親が、帆波の手を握り締めていた。

 もちろん母親だって、同じ場面を目撃していたはず。だが、あまりに帆波自身のショックが大きくて、母親がどう反応していたのかは、見ていないし知らない。

 それをいいことに、だ。

『帆波ちゃん、疲れていたのね。体調悪いのに、連れ出してごめんね』

 そう言って、笑った。何事もなかったかのように、完璧な笑みを湛えて。

 昔は大好きだった、あの甘い声が。とろけるような笑顔が。それから、一瞬で大嫌いになった。

「……そうだ、全部あんたのせい」

 キッ、と父親を睨みつける。かつて憧れていたたくましい背中も、頼りがいのある笑顔も、優しい手も、今となっては全部汚らわしい。

「あんたが、その女と不倫なんてするから。わたしは幼い心を傷つけられ、こんなに可愛げなく成長した。お母さんは自分の殻にこもって、意味の分からない宗教に縋って、自分だけの理想郷を作り出し……ただの少女趣味が拗れた、気味の悪い、不愉快極まりない女になった」

「帆波ちゃん……?」

「嫌い、嫌いよ!! 全部、何もかも。そんな男、欲しいならくれてやるわ!! お父さんも、お母さんも……わたしたちの家庭をぶっ壊したあんたも、自分は違うみたいな顔して結局ただの女でしかなかった新藤先生も、散々騒がせといて勝手に死にやがった市村緋夏も、くだらないいじめに加担した奴らも、役に立たない担任も、そんな奴らに踊らされるわたし自身も。みんな、みんな、この炎で焼き尽くされて。朽ち果ててしまえばいいんだわ!!」

 一息で叫びきり、はぁ、はぁ、と汗だくで息を漏らす。もうこの家に、酸素はほとんどない。黒い煙が上がってきて、それをまともに吸い込んだせいで、思い切り咳き込んだ。

 疲れ切って抵抗もなくなった帆波を、律子が抱きしめる。

「ごめんね……帆波ちゃん。ごめんね」

 そこまであなたを追いつめていたなんて、知らなかった。こんなの母親失格よ、ね。

「ずっと、幸せな家庭を持つのが夢だった。優しい夫と、優秀で可愛い子供……ずっと、幸せなままでいられると思っていた。時が経つごとに少しずつ、理想とかけ離れてきていることを分かってても、それでも幸せだと思いたかった。幸せでいられれば、神様はずっとわたしたちを守ってくださる。何か悪いことがあっても、神様がいつか必ず救ってくださる。そう思わないと、生きていられなかった……」

 でも、間違ってたわね。

「そんな男に引っかかった時点で、わたしはとっくに幸せから遠ざかっていたのよね……もう、いいわ」

 ふ、と悲しげな笑みを浮かべる。

「香澄さん、まだ聞いていらっしゃるかしら。これが、わたしたち家族の罰だとおっしゃるのなら、わたしたちは快く受け入れます。短い間でしたが、お世話になりました」

 受話器の向こうから、答えは返ってこない。もしかしたら、もう通話は切れているのかもしれない。

 紗織は嬉しそうに、高笑いした。ガソリンが入っていた空のタンクを捨て、心底幸せそうな顔で佐川の腕を引く。カンッ、と携帯電話が落ちて、画面が割れた。

「よかったわね、浩介さん。行きましょ。帆波ちゃんも、律子さんも、あたしたちを認めてくれたのよ。ね? まだ間に合うわ。ここから逃げ出して、二人でどこかへ……」

 言い終わるか終わらないかのうちに、佐川は取られた手を思いっきり引いた。受け身を取る体制になっていない紗織は、あっさりと佐川の方へ倒れこむ。身体が近づいたのを見計らい、佐川は紗織の身体を引き倒し、力を込めてその細い首を絞め始めた。

「っ……こ、うすけ、さん」

 うっ血した顔は、幸せオーラを放っていた先ほどまでの表情と一変し、驚愕と絶望に変わっていく。

「お前のせいだ。今まで、全部上手くいってたのに。お前があの日、近づいてさえ来なければ……俺も、妻も娘も、そしてシズルも、みんな幸せなままでいられたのに!!」

「ぐ、っ」

「どうせこのまま生きてたって仕方ないんだから、帆波のお望み通り、このまま死んでやるよ。ただし、道連れだ。お前も、その腹の中のガキも、みんな道連れにしてやる……」

 完全なる責任転嫁である。

 この期に及んで我が身可愛さのために愛人を、そしてその中に宿る新しい命を殺そうとする主の姿を、妻と娘は冷めた目で眺めていた。

 パチパチと、火の粉がはじける。辺りは、徐々に黒い煙で覆われてきた。

「熱いわね、帆波ちゃん」

「うん」

「苦しいわね。帆波ちゃん」

「う、ん」

「大丈夫、大丈夫よ。帆波。すぐに、楽になるから。ね……」

 母親に抱きすくめられたまま、帆波は身じろぎもしない。そっと閉じた瞳から、一筋の涙が伝う。

 火をまとった柱が、天井が、そろそろ倒れてくる頃だ。

 誰も、その場から動く者はいなかった。


    ◆◆◆


「富広で放火だって。怖いなぁ」

 新聞記事を読んでいた保阪が、やれやれと首を横に振った。

「なになに……火の回りが早く、住宅はほぼ全焼。焼け跡からこの家に住む夫婦と、身元不明の女性の遺体、さらにその傍にガソリンが入っていたと思われるタンクらしきものを発見。同居する中学生の長女は遺体が見つからず行方不明。さらにこの家の近くで、トイガンを持った少年を保護。少年は不自然な火傷を負っており、『ヒナツのかたき』などと延々呟きながらうろついていた。警察はこの少年が何らかの事情を知っているのではないかとみて、調べを進めている……と」

 唸りながら、保阪は新聞を閉じた。一番後ろのページに囲われた三面記事には、『花屋の隠居女性、男性店員を撲殺。持病の発作による錯乱か』とか『富広・中二女子自殺、いじめの事実明らかに。過去にいじめられていた女生徒が証言』などといった小見出しが書いてある。

「どうも謎が残るね。それにしても、最近物騒な事件が多いことだ」

「こないだは、富広中の生徒が自殺したって報道されてましたよね」

 聞いていた亮太が、ちょうどワイドショーが放送されているテレビを見て、どこか憎々しげに呟いた。

「虐待を受けていたって……」

「宮代、そういう話題だといつも不愉快そうな顔するよな」

 いじめや虐待などの事件に関して、亮太は人一倍敏感だった。そういった卑劣な手段を、好まないのにはもちろん理由がある。

「だって、許せませんよ」

 暗い瞳で、亮太は舌打ちをする。

「同じ目に遭って、死ねばいいんです」

「怖いよ宮代ぉ。もうちょっと平和に行こうぜ」

 保阪は相変わらず他人事だ。

 こういう事なかれ主義の平和な人には、こっちの気持ちなど何年経ってもわかりはしない。けれど、それでいい、と亮太は思う。

 当事者だけが、知っていればいいことだ。

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