4.愛憎
きっと、誰にもわからない
――シロツメクサの花言葉:私のものになって、復讐
「こんにちは、瞬さん」
香澄が事務所を訪ねると、その主である弁護士――八神は、ソファに悠々と座っていた。ふわりと、珈琲の香りが鼻先を掠める。
窓際に置いてあった、二輪の黄色いカーネーションは、既に片付けられた後のようだ。どうやら、今回もちゃんと無事に
「やぁ。思ったよりも、あっさりとした終わりだったじゃないか」
八神は香澄が来たことに気づくと、テーブルに置いてあるカップをそっと持ち上げてみせた。
「君も飲むか?」
「えぇ……と、言いたいところだけれど」
いつもと様子が違うことに、一つだけ気付いた。
ふ、と八神の膝元に視線を落とす。黒い毛並を、簡素な男の手がするりと撫でた。『それ』は夢見心地といった様子で、気持ちよさそうに身じろぎをする。
香澄が「それはなぁに」と聞こうとする前に、先手を打った八神がいつもよりことさら柔らかく笑った。
「拾ったんだ」
可愛いだろう、と嬉しそうな声。八神の膝の上で、小さな黒兎がくぅくぅと眠っている。首元や足のところどころに、包帯が巻かれていた。
「火傷を負って、倒れてたんだよ。可哀想に」
「……引き取るの?」
「そのつもりだよ。なんせ、身元が分からない」
なんて言い訳をしているが、こちらが何と言おうと、きっと最初からそのつもりなのだろう。八神も長いこと独り者である。きっと、家族が欲しいのだ。もちろんそのこと自体に反対はない、が。
「名前は、どうしようかな。女の子だから、可愛い名前がいい。一緒に考えてくれるか?」
「そうね……」
少しの間考え、ふと思い出して一言。
「すずらん、なんてどうかしら」
「そりゃあいいね。可愛い名前だ」
きっとこの子も気に入るよ、とクスクス笑う様子は、すっかり父親の顔だ。呆れた顔をしつつも、香澄もふんわりと優しく笑った。
「花瓶、使ってもいいかしら」
すっかり新しい家族に夢中な八神へ問うと、さほど聞いていないらしく「いいよ」とあっさりした答えが間髪入れず返ってきた。しかしすぐその違和に気づいたらしく、少し間があった後に「……ん?」と低く唸る声がする。
「もう、花はすべて枯れたんじゃ?」
シズルのためにあつらえた花が、朽ちるのをすべて見送った。あれが――黄色いカーネーションが、最後だったはずだ。
黒兎から目を離し、心底不思議そうに香澄を見る。八神の言った意味を汲み、なおも彼女は妖艶に笑った。
「もう少しだけ」
洗って乾かしていた花瓶……ではなく、何故か香澄は小さなアロマポットを手に取り、そこに水を溜め始めた。いやに手際のいい様子を、八神はぼんやりと眺めていた。
「いつも行く花屋、潰れちゃったのよね。店員さんがみんないなくなっちゃって、お世話していた隠居の女性は身寄りがなくなったものだから、施設にいるそうよ」
大変ねぇ、なんて他人事のように言いながら、手は快活に動いている。
「梅雨だったら、その辺に咲いているから楽なのだけど。もう秋だから……手に入れるのが大変だったわ」
活けた花を、いつものように窓際へ。綿毛のような形をした小さな花は愛らしく、赤と白が混在して咲いている。
「はい、これ」
「シロツメクサ、かい」
「そうよ。……よろしくね、瞬さん」
八神には、今回用意された花が一体何を表しているのかわからない。『復讐』は――『彼』に対する香澄の弔い合戦は、もう終わったはずなのに。
それでも、彼女が今回の件に関して、詳細を語ることはなかった。
結局「よろしくね」と念を押すように言い残した後、香澄は帰っていった。
八神の愛しの黒兎は、まだ昼寝から目覚めない様子。
しかし、それはさておき、である。
八神の意識は、既に香澄が置いていったシロツメクサへと移っていた。
疑問符が浮かぶ八神の脳裏に、ふと一つの可能性がよぎる。
この事務所の下の階には、税理士事務所がある。そこで働き、八神自身も――副島の一件以来は少々疎遠になったものの――顔を合わせたり、仕事で関わったりすることの多い、税理士補助の青年。
確か香澄と同年代くらいであり、彼女と二人で話しているところも何度か見たことがある。香澄が、珍しく嬉しそうにしていることも知っている。
本人が口に出して言ったことは一度もないが、あの青年はどうやら、香澄のお気に入りらしい。
……が、だからと言って『彼』とは、そして香澄自身が企てた復讐とは、何の関係もないはずだ。
ぱっと浮かんだ可能性を、八神は首を振ることでたちまちに消し去る。
ようやくお目覚めか、八神の動きに反応して小さく声を上げた膝元の黒兎に、「夕飯はどうしようか」と笑いかけた。
そうだ。さすがに、話が飛躍しすぎている。
香澄が『彼』のためではなく、あの人のよさそうな青年のために、単独で動こうとしているなんて。
香澄の纏う『闇』に、宮代亮太が関わる余地などないはずだ。
いくら、●●●●●●だとしても。
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