その幸せは全て
「何やってるんだ!」
律子の手当てを大人しく受けていると、勝手口の方から、佐川と思しき声が聞こえる。手早く手当てを済ませた律子に手を引かれ、帆波はそちらへ足を進めた。
勝手口まで辿り着く前に、むわりと熱風が全身を包む。汗で張り付く服の感触が、帆波は不快だと思った。
「まぁっ、火事!?」
鈍感極まりない律子は、ここでようやく事態を察したようだ。
慌てて電話に向かって駆け出そうとする背中に、鋭い声が飛んだ。
「駄目よ」
本来ここにはないはずの存在に、律子は思わずといったようにぴたりと止まる。壊れたブリキ人形のように、鈍い動きで振り返った。
少しずつ勢いを増すオレンジの熱を背に、ぼうっと浮かび上がる、ガソリンを持った一人の女の姿。その横で、腰を抜かした佐川が指差しながら何やら叫んでいた。
「お前っ、し……死んだはずじゃ!!」
「確かに、吉村紗織は死んだわ」
奇妙に落ち着いた声で、女が言う。
「
タンクを手に、しっとりと微笑みを湛える女。それはかつて華やかな化粧を施され、堂々とした態度でテレビ画面に映っていたアナウンサーの女――吉村紗織に、酷似していた。
「名前を出して、自殺したと世間にいったん広めてしまえば、もはや世間的には死んだようなもの。たとえ本当に死んだ人間が、
そうだ、と帆波は思い出す。
以前流れたニュースで、確かに『アナウンサーの吉村紗織』が死んだという情報は、ゆるぎない事実として世間に植え付けられた。
ただ、後になってよく考えた時、奇妙に思ったことといえば……『自殺した』というだけでその死因が具体的ではなかったこと、そして葬儀が完全なる
つまり、関係者以外は誰もその遺体を見ていないのだ。
もし、その裏で何か工作があったとしたら?
本当に死んだのが吉村紗織ではなく、その関係者として幾度もメディアに顔を出していた、
姉が、妹に
「まさか、お前……!!」
すべてを悟ったらしい佐川が、狂ったように叫ぶ。その拍子に熱風を思い切り吸い込み、ゴホゴホと咳き込んだ。
「全部っ……全部、お前の仕業か、
「
クス、と女は――紗織は、笑う。
「あたしは、あなたを見守りたかった。愛している人だもの、当然だわ。だから、花屋という
「それだけ……?」
「でも、神様はあたしを見放さないわね。妹に裏切られた、哀れなあたしを救ってくれた……こうやって、
ついに、あなたをあたしだけのものに!
炎の光に、うっとりと恍惚の表情を浮かべた女の顔が浮かぶ。頬は上気していて、瞳はただ一点を――佐川のことだけを、見つめている。当の佐川は、気味悪そうに相手を見返していた。
「邪魔者たちって、まさかわたくしたちのことではないでしょうね」
二人の前に立つ律子の声は、気丈ながらも震えている。
「神が、あなたのような下劣な人間を救うわけがない」
その下劣さを反省し、悔い改めさえすれば、きっと本当に救ってくださる。神はお優しいから、今まさにあなたを待ってくださっているのよ。
「ね? さぁ、このようなことは今すぐおやめなさい。今からでも遅くないわ。主人は迷惑しているのよ。長いこと、あなたにずっと付きまとわれて……」
「付きまとう? 笑わせないで」
さっきから黙って聞いていれば、律子さん……あなたの台詞は、反吐の出るような綺麗ごとばかりね。
律子の語りなどどこ吹く風、といったように紗織は笑う。
「浩介さんは、あたしを抱いたのよ。あなたが、そこにいる女の子を――帆波ちゃんを、産むきっかけになった行為を。かつてあなたの清い身体に触れた、いやらしいその手で。彼はあたしにも、同じように、触れたの!」
「でたらめを言わないで!!」
二人の女の言い合いは、徐々にヒートアップしていく。
「主人が、あなたを抱いた? ふざけたことを。どうせ、低俗なゴシップ記者なんかに、あんな破廉恥な写真を売ったのはあなたなんでしょう」
「わざわざ自分の立場が悪くなるようなこと、あたしがすると思って? そのせいであたしはこんな目に遭ってんだから……あのね。あたしはね、誰にもわからないようにこの関係を育てて、いずれあなたから浩介さんを奪うつもりだったの」
「主人があなたなんかに心奪われるはずないわ。いい加減に目をお覚ましなさい。週刊誌に載ったあの写真に映っている、相手の男は全くの別人よ。うちの主人だなんて、真っ赤な嘘。まず根拠がないじゃない」
「根拠がある、って言ったら?」
ニヤリ、紗織は我が意を得たりと言いたげに笑う。
「何が言いたいの」
あまりに堂々としていたからだろう。律子の表情が、少し強張った。
「あなたしか知らないはずのこと、あたしもよぅく知っているのよ。これを聞いたら、認めざるを得ないはずだわ」
クスクス、愉快そうに笑う紗織とは対照的に、律子の顔はみるみる険しくなっていく。
「奥さんであるあなたしか、見たことがないはずのもの……あなたの中にしか入ったことがないはずの、あなたしか受け入れたことがないはずの
「だから何の、」
「浩介さんの『それ』はちょっとばかり特徴的なのよね……ほくろが、三つあるのよ。ちょうど、不等辺三角形を形作っているわね。ねぇ、あなたも知ってるでしょう?」
何を意味するのか、分かったらしい。律子の顔が、みるみる紅潮していく。
「そ、そんな破廉恥なこと!!」
「でも真実でしょう?」
「それは……」
律子が言いよどむ中、紗織はおもむろに自らの腹を撫でた。ゆったりとした服装のせいであまり目立たないが、言われてみれば彼女の下腹部はどことなくふっくらしているように見えなくもない。
「浩介さん。春ごろ、二人で旅行に行ったわね。その時の子が、中にいるんですって。ふふ……」
佐川がゆっくりと、目を見開いた。呆然としたように「そんな」とか「避妊はちゃんとしていたはずなのに」などと絶望に満ちた声でつぶやく。
対照的に、紗織はひどく幸せそうだった。
「避妊具、あらかじめ破っといてよかったわ。だってずっと、夢だったのだもの……ね、喜んでくれるわよね。帆波ちゃん。あなたの弟か、妹よ」
「……わたしには、関係ないでしょう」
そこで何故、こちらに話が飛ぶのか。帆波には分からない。この期に及んでも、当事者の一人であるという自覚はてんでないのだ。
「相変わらずね」と紗織は肩をすくめた。
「それにしても悪い人だわね、あなたのお父さんは。あたしというものがありながら、他に配偶者がいただけでなく、さらに昨日
「えっ……?」
辺りはすでに、火の海だった。
律子が何かを言いかける前に、みしり、と音が響く。焼けた柱がぐらついてきたのだ。
他の家族を押しやるように、紗織は勝手口から少しずつ家の中へと足を踏み入れてきた。自然と、帆波たちも中へ追いやられる形になる。すっかり腰が抜けたらしい佐川は、尻をついたままじりじりと後ずさった。
「そうよね? 香澄さん」
いつの間に取り出したのか、携帯電話を耳に当て、紗織は言った。繋がっているらしい電話の向こうから、嘲笑するような声が聞こえる。
『そうね。美織さんを通じて、常々聞いてはいたけれど』
「香澄さん!?」
スピーカーになっていたので、その声は帆波や律子、そして佐川にも届いている。律子が狂ったように叫んだ。
「どうしてここで、香澄さんが出てくるの!?」
『ふふ。確かに佐川先生のアレには、ほくろが三つあったわ。小さいのが一つ。大きいのが二つ。三角形の形に並んでいたわ。面白いものね』
「なっ……」
佐川がゆでだこのように顔を真っ赤にし、絶句した。
まさかこんなところで――妻と娘が聞いているところで、妻以外の二人の女性からそのような
帆波はようやく、今日一日常に佐川へと注がれていた、色気を含んだ不愉快な視線の意味に気づいた。そして――律子は、ほとんど気にしていない様子だったが――昨日、佐川の帰りがいつもより少し遅かったことも。
しかし、律子がそう簡単に認めるはずもない。
「香澄さんが、まさかこんな下品なこと……誰!? 香澄さんに成りすまそうなんて、なんて人間なの!!」
『誰、だなんて、ひどいわ律子さん』
電話越しなので少しばかり補正が入っているとはいえ、その声の主は間違いなく、先ほどまでこの家にいた人間――新藤香澄だった。
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