嫌な見覚え
自室でノートと教科書、さらに分厚い参考書を開き、それらを左肘で踏んづけるように帆波は頬杖を突いていた。明らかに、勉強しようという姿勢ではない。
右手にはペンでなく、黒い小さな機械のようなものを持っている。
「……まさか、うちの学校にこんなものが置いてあるなんてね」
手の中のそれを退屈そうにいじりながら、溜息交じりに独り言を漏らす。
掃除の時間に職員室へ行った時、帆波は教師に頼まれ花瓶の水を替えたことがある。その時に、見つけたのだ。花瓶で隠れていた未使用のコンセントに、この盗聴器が刺さっていたのを。
ゴシップ記者の忍海と自宅前で鉢合わせたのは、ほんの数日前のこと。その時に帆波は、これが何なのかを忍海に聞いた。
忍海は驚いた顔をして、彼女にこう尋ね返してきた。
『何でこんなものを持っているんだ』
経緯などの詳細は、面倒だったので省いた。ただ拾ったのだとだけ告げれば、どこで? と意外にも突っ込んだことを聞かれたので、そこは正直に『学校で』と答えておいた。
全てを教える義理もなければ、嘘を吐く理由もない。忍海があの日、帆波に全てを語らなかった理由とさして変わりはしないだろう。
さて、それにしても、だ。
「何でこれが、学校なんかにあったんだろ」
まさか、学校がこんなものを取り入れるはずがない。現に掃除をしながら職員室のコンセントをあらかた調べてみたが、他に盗聴器らしきものは見つからなかった。別の教室などを掃除した生徒や教師からも、そんな声は上がっていない。もしそうなら、今頃学校で騒ぎになっているはずだ。
単純に校内の様子を知りたいと思うのなら、監視カメラがあれば事足りる。なのになぜ、わざわざこんなものを……。
思い当たる節を探す回想の中でふと、帆波は気付く。
学校に飾っている花は、確か毎回、富広の商店街随一の花屋から仕入れていると言っていた。
そして花瓶が置かれた位置、つまり盗聴器の刺さったコンセントがあった場所のすぐ傍。そこにあるデスクを使っているのは、確か……。
「……なるほどね」
合点がいったとみえ、帆波は満足そうにうなずいた。
そして以前、律子から花屋にまで使いを頼まれた日があったことを思い出し、おもむろに椅子から立ち上がる。
あの日、家に帰ったら母はテーブルに手紙を置いて出掛けていた。鍵は、かかっていなかった。
つまり予想が確かなら、おそらくあの場所以外にも――……。
「だったら明日、
嬉しそうな独り言。
盗聴器はコンセントから外れているため、当然彼女の呟きを他の誰かが聞くことはなかった。
◆◆◆
近頃、週に一度は香澄が家へ来るようになった。
とはいっても毎回妻の律子が勝手に連れてくるのであって、決して佐川が望んでそうしているのではない。……恐らく、娘の帆波が関わっているわけでもないだろう。
来るのは休みの日――それも宗教の集会がある日がほとんどで、昼食を共に摂り、リビングで律子とお茶をしたり、帆波に勉強を教えるなどした後、夕方頃に帰っていく。
その時佐川はできるだけ、家にいないようにしていた。律子がうるさいので、昼食時だけは仕方なく一緒にいるのだが。
正直、最近の佐川に対する校内の風当たりは強まってきている。そんな中でこのように誤解されるようなことがあっては、教頭候補と言われるほどのベテラン教師である佐川の進退も、どうなったものか分からない。
それに……偶然とはいえ、一度でも彼女のことを同僚教師ではない『生身の女』として見てしまった経緯がある。別に意識しているとかそういうわけではない(つもりだ)が、表向きは平和である自身の家庭に彼女が入り込んでくるという環境は、どうにも奇妙極まりない。
律子は完全にあの女に心酔しきっている。その崇拝ぶりはいっそ気色が悪いと言っても差し支えなく、この間など律子の姉から『どうにかしてくれないか』と佐川の方に連絡があったほどだ。
それでも律子に対して強く言えずにいるのは、いつまでも自身の殻に閉じこもり続け、未だ少女のように理想を追い求め続ける妻を、哀れに思う気持ちが少なからずあるから。
また佐川自身、校内で会話を交わすことが多くなってきたこともあり、彼女に対して徐々に心を開きつつあることを自覚している。少しずつではあるが、彼女の存在を許容し始めている自分がいるのだ。
一方、娘である帆波の心情だけは、唯一分かっていない。
相変わらず必要なこと以外はどうとも言わないし、喜怒哀楽を表に出すこともない。そもそも何が気にくわないのかは知らないが、佐川と口をきこうとする素振りを全く見せないのだ。
理解しようとこちらがどれだけ歩み寄っても、あちらから一方的に突っぱねられてしまうのだから始末に負えない。
空っぽのガラス玉のような、それでいて何もかもを見透かしているとでも言いたげなあの瞳が、我が娘ながらたまに怖くなる。
昔から律子による英才教育の片鱗はあったものの、以前の帆波はもっと子供らしく、無邪気で活発だった。佐川にもよく懐いていたし、他の子よりむしろ笑顔の多い子だったはずだ。いつからあんな、感情を持たないロボットのようになってしまったのだったか……。
……まぁ、失った過去のことなど憂いても仕方ない。
それにしても、だ。
このままいけば、香澄に佐川家が乗っ取られるのも、時間の問題かもしれない。それに対する危機感は、何故かさほどないけれど。
その日も佐川家には香澄の姿があり、律子は意気揚々と朝から張り切っていた。いつものように四人で昼食を摂って、その後佐川は学校に仕事が残っているからと偽って家を出てきた。
どれほど噂が立とうとも夫の不倫をかたくなに認めようとしないほど、律子はおめでたい性格だ。そんな妻に対して嘘を吐くことなど容易いもので、繰り返しているうちにいつしか佐川からは罪の意識というものが消滅していた。
帆波は相変わらず家族のことに関心がない様子で、佐川が出掛けると言っても『行ってらっしゃい』の言葉どころか、こちらに視線一つ寄越してこなかった。
その代わりに客人であるはずの香澄が一言、
『行ってらっしゃい。お気をつけて』
そう微笑む姿に、何故かどきりとしたのを覚えている。妻に言われたってそんな動揺を感じることはないのに(当然だ)、やはり彼女の存在は佐川家にとってアブノーマルだと思うのだが、誰かにそう言ってもらえると嬉しくなってしまうのも本音で。
つい心からの笑みを浮かべながら『行ってきます』と答えてしまったのを、家族である二人は――いや、律子はどう思ったのだろう。
そんなことをぼんやりと考えながら、佐川は車を運転する。学校へ行くと言ってしまった手前、しばらく戻ることはできないが、別に休日にまで特別やらなければいけない仕事があるわけでもないし、第一居場所がない。
どこへ行こうかと、あてもなく車を彷徨わせていると、ふと駅から商店街までの道筋を歩く男女のカップルを見つけた。
しばらく会ってはいなかったが、女の方には見覚えがある。律子の姉の娘……つまり、佐川から見て姪っ子にあたる瑠璃だ。
どちらも私服姿で、男性の腕に瑠璃が腕を絡ませ、仲睦まじそうに歩いている。距離が遠いので、表情などの細かい部分までを伺い見ることはできないが、きっとどちらも幸せそうに微笑んでいるのだろう。
何の変哲もない、光景。
追い越しざまに佐川は思わず、キッ、と甲高いブレーキ音を立て、車を停めてしまった。幸い後ろにつっかえる車の姿はなかったが、運が悪ければ衝突事故を起こしてしまっただろう。
しかし当の佐川に、そんなことを気にする余裕はなかった。
姪の瑠璃ではなく、何故かその恋人らしい男の方を見て、佐川は驚愕に目を見開いた。まさか、どうして、と震える唇はひどく狼狽したように動く。
「……シズ、ル?」
なんで、あんなところに。
だってあいつは、もう――……。
――プーッ!!
あまりの衝撃に意識が遠ざかりそうになったところで、後ろから来たらしい車のクラクションが鳴り響いた。佐川は大げさに飛び上がる。危うく、バックミラーに頭をぶつけそうになった。
「おいっ、邪魔だよ!!」
窓を閉めているためにほとんど遮断されたものの、後ろのドライバーから怒鳴り声が上がる。佐川は諦めたようにゆっくりと、車を発進させた。
いつの間にか件のカップルは佐川の車を追い越し、とっくに姿をくらませていた。幻だったのだろうかと思いながらも、動悸を止めることはできない。外はまだまだ残暑厳しいとはいえ、車内にはクーラーがかかっている。それさえも効果をなしえないほど、佐川は汗をかいていた。
今の精神状態でどこへ行くこともできないと悟った佐川は、しばらくどこかの駐車場に車を停めて休むことにした。
そのまま気を落ち着けようとして長い物思いにふけってしまい、結局一日を無駄に過ごしてしまったと気付いた時には、既に日は落ちて真っ暗になっていた。
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