それぞれの思惑
学校から帰ってきて、家の前をうろつく怪しい男がいるのを見つければ、幼い子供なら普通は何らかの反応をすることだろう。周りの人間に異変を報告するとか、怖がってその場を立ち去るとか。
しかし、実際そんな場に立ち会うこととなった中学生こと帆波は、そんな普通の反応を見せることなく――むしろ何の反応をすることもなく、無感動にそちらへ向かって歩いて行った。
「おじさん」
それどころか、ためらわず声を掛ける。
そこで声を掛けられた不審な男も、普通なら何らかの行動をするところだろう。その場を足早に立ち去るとか、子供の口を手で押さえつけ、連れ去ってしまうとか。
しかし怪しい男――ゴシップ記者の忍海は、声を掛けてきた帆波に対してニヤリと親しげ……かどうかはさておき、余裕そうな笑みを浮かべた。
「忍海玲弥。覚えてね、お嬢ちゃん」
「佐川帆波」
「はいはい、帆波ちゃんね」
「……こんなとこで何してるの、オシミさん。うちに何か用?」
「
帆波の発言に怪訝そうな顔をした後、忍海は何かに納得したらしく「なるほど」とうなずいた。
「佐川浩介……それが、あんたの親父の名前だったな」
「えぇ、そうよ。前に教えたでしょう」
「じゃあ佐川律子は、母親か」
「……そうよ、それがどうかしたの」
どうやらこの記者は、また何やら我が家の身辺を調べているらしい。
「父のことなら、もうとっくに終わったはずよ。なのに、それだけでは飽き足らず母親のことまで……まだ、うちに関して何か調べることがあるというの」
「……お嬢ちゃんには、関係のないことだよ」
「そう言ってはぐらかして、肝心なことを何も教えてくれないのね。だから、大人って嫌い」
帆波が発した子供じみた嫌味に、ふん、と忍海は鼻を鳴らす。
「どうとでも」
「ま、いいけど。どうせわたしには関係ないことだし」
「
気のない一言に、忍海はピクリと反応する。
――いくら仔細を知らなくても、自分の家族に何らかの危機が迫っているであろうということは、今のやりとりで十分すぎるくらい察することができるだろう。このよくできた、利口な中学生ならなおさら。
それなのに彼女は、本当に何も興味なさそうだ。感情の読めない無表情を湛え、まるで事務確認のように忍海との話を進めようとする。
初めて顔を合わせた時から奇妙だとは思っていたが、これは……。
「そんなことより」
あまつさえ、今までの会話を『そんなこと』の一言で片づける。
いったいどういうつもりなのだろう。そもそも彼女は、本当にごく普通の女子中学生なのだろうか。
忍海の不審げな感情などどこ吹く風と言ったように、帆波は自身の鞄をごそごそと探り始めた。「いいところでオシミさんに会ったわ」と、またよく分からない独り言とともに。
「聞きたいことがあるの。あなたなら、知ってると思って」
そう前置きされた、次の一言に――そして帆波が何の変哲もない通学鞄から取り出した物に、忍海は大きく目を見開いた。
◆◆◆
少し会わなかっただけにもかかわらず、目の前の恋人はなんだかやつれたように見えた。
「何か、悩みでもあるの?」
亮太が尋ねれば、「そんなことはないのだけれど」と以前と変わらないような声で答えが返ってくる。ただ、その視線は多少落ち着かないように辺りを彷徨っていた。
単純に仕事が忙しいのだろうと合点し、亮太は瑠璃の細い肩を抱き寄せる。漂う女らしい独特の匂い――おそらく、フェロモンを引き立てるコロンのようなものだろう――に、ずくりと下半身が素直に反応するのを感じた。現金なものだとは毎回思うが、それが男という生物なのだから仕方ない。
そんなことを考えながら、彼女の顔をこちらへ向けようと手を添えると……ふと、唇に目が行った。
彼女はオレンジのルージュを好んでつける。それはいつものことで、それこそが瑠璃らしいのだと当然のごとく受け入れているはずなのだが……今日は何故か、どうにも気になった。
目の前にあるはずのない、真っ赤な唇を思い出すからだろうか。あの、漆黒に映える瑞々しく白い肌に、まるで雪の中にポツリと咲く一輪の椿のような……ひどく鮮烈な、差し色。
そんなことを考えると急に、目の前のこの女性に触れてはいけないような……否、触れたくないような気がして、躊躇する。ふと口元から目を離せば、瑠璃の瞳は虚ろにホテル街に続く雑踏を映していた。
「瑠璃?」
声を掛ければ、びくりと大げさに反応する肩。安心させるようにもう一度優しく抱き寄せて、唇を重ねようと顔を近づけたところで、まるで彼の行動を阻止するように「あら」と覚えのある言葉がかかった。
日付が変わるまでにはもう間もないという夜遅く、人気がなくなってきたとはいえ、公共の場である駅のホームならばこういうこともある。特に動じることもなくゆっくりと亮太が顔を上げれば、目の前には黒いワンピースを着た美しい女性が立っていた。
「新藤さん」
その存在に少し照れたように、亮太が頬を掻く。
「いや、お見苦しいところをお見せして」
「いいえ」
穏やかに微笑む彼女――香澄は、緩慢に首を横に振った。
「こちらこそ、何だかお邪魔してしまったみたい」
野次馬根性っていうのかしら? つい、声が出ちゃって。
ふふふ、と口に手を当ててしおらしく笑う。白い手と真っ赤な唇のコントラストを見ていたら、下半身の熱がさらに増した気がした。
正直、もう辛抱がならなくなってきた。今すぐにでも瑠璃を――正直な話、もうこうなったら、女であれば瑠璃以外でも全然いいのだが――連れて、ホテルに行きたい気分だ。しかし香澄がいる手前、そんな行動に出るわけにもいかず、亮太は内心悶々としていた。
そのとき香澄が不意に、亮太の下半身辺りを掠めるように流し見た。自然な仕草だったので、亮太が気付いたかどうかは分からないが、瑠璃はその視線の流れをしっかりと、逃すことなく完璧に目撃した。
しっかり反応しているらしい彼の股間を見て、次に瑠璃の顔を見て……ニヤリと、勝ち誇ったような笑みを浮かべたのを。
まるで、彼の性欲をここまで駆り立てたのは誰なのか、全て分かりきっているかのように――……。
瑠璃はますます怖くなる。偶然か必然か、それとも相手によって仕組まれているのか、こんなところで恐れていた彼女の姿を目にして。さらにあの、挑発するような笑みを浮かべて。
瑠璃が
まさに白旗を上げざるを得ないような、状況。
「……っ」
再び震え始めた瑠璃の身体は、無意識に動いていた。ありったけの力で、亮太の腕に取りすがる。
「まぁ」
それさえもまるで滑稽だと言いたげに、香澄は笑った。
「あんまり邪魔しちゃ、今度こそ彼女さんに怒られてしまうわね」
では、宮代さん。またいずれ。
にっこりと笑って、香澄は二人の前から立ち去っていく。瑠璃にはその堂々とした姿が、宣戦布告と同時に放たれた勝利宣言のように見えた。
遠ざかる漆黒の後姿を、亮太が呆然と眺めていると、ぐっ、と腕に重みが増した。瑠璃が、取りすがる亮太の腕にさらに力を込めたのだ。
その刺激にようやく我に返った亮太は、油をさす前のロボットのような動きで、瑠璃を見下ろした。
「……亮ちゃん、お願い」
消え入りそうな声。
そっと耳をすますように、オレンジがかった唇に耳を寄せれば、亮太の存在にホッとしたように、けれど微かな震えを伴いながら、彼女は続けた。
「あの女には、もうこれ以上近づかないで」
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