繋がりゆく縁
叔母の律子からかかってきた自宅の電話を、母がいないからと代わりに取ったのが間違いだったのだと、瑠璃はすぐに察した。
瑠璃が声を発する間もなく、相手が母だと信じて疑っていないらしい電話口の律子の声は高らかに、ぺらぺらと弾丸のようにまくしたてた。
『もしもしお姉さん? あのねぇ、昨日うちにとても素晴らしいお方が来られたのよ。ほら、前にお話したことがあると思うんだけどね。帆波ちゃんの学校に来られた先生。お姉さんも覚えているでしょう? 当然よね、忘れるはずないわよね。あんな魅力的な方……』
忘れるも何も、知ったことではない。十中八九誇張表現の含まれた話に出てきただけで、実際に会ったことがないのだから。話を聞いたという母もおそらく、覚えてはいないだろう。
『夫と同じ職業の方で、うちの娘を気に掛けてくださる。そしてこのわたくしともまた、お近づきになってくださる。果てには、我が家にわざわざ訪れてまでくださったのよ……あんなにも素晴らしい方が、昨日、わたくしの作った手料理を食べてくださった! あぁ、なんて恵まれているの。この幸せを、お姉さんたちにも分けて差し上げたいわ。ねぇお姉さん、集会に参りましょうよ。いつもお断りになるけど、ね。ぜひ、一度行ってみましょうよ。きっと有意義な時間を過ごせるわ。よかったら、瑠璃ちゃんも一緒に誘って』
息つく暇もなく、こちらが口を挟む余裕さえ与えないおしゃべり。その内容は百パーセント自分勝手なものばかりで、こちらの話は一切通じない。
まだ終わりそうにない話を聞き流しながら、そういえば、と瑠璃は思う。
以前、TVワカツキの吉村紗織とかいう女子アナの不倫が報道された時、一部ではその相手についてまことしやかに噂が立っていたっけ。
確か、その相手は……。
律子はその件について耳にしたことがあるのか、それは分からない。しかしおそらく、きっと……いや、間違いなく信じてはいないだろう。自分の都合の悪いことは、知らぬ存ぜぬ。昔から律子叔母は、そういう人間だ。
――りっちゃんは、昔から夢見がちなところがあってね。
母親はよく、瑠璃に対して嫌そうな顔で話す。まるで妹のことが、嫌いで仕方ないとでもいうように。
――自分がこうと信じたことは、絶対に曲げない頑固な子。都合の悪いことは、たとえそれが正解であったとしても、信じようとしないの。
――だから、
『……聞いていらっしゃる? お姉さん』
「律子叔母さん」
ようやくこちらに話を振ってきたらしい律子に、瑠璃は淡々と答える。
「瑠璃です」
『え? あら。瑠璃ちゃんだったの。もう、それなら早く言ってくれればよかったのに、いやねぇ。フフフ……』
甘ったるいおばさん特有の声が、不快で仕方ない。
そんなこちらの気も知ることなく、姉だとばかり思っていた相手が実は姪であったことも、彼女は特に気に留めることはないらしい。誰でもいいから、話を聞いてほしかっただけだろう。
『ところで瑠璃ちゃん。今の話、聞いていたでしょう。昨日うちに来られた、美しい方のお話よ。どれだけ美しい方か、お教えするわ』
いいえと言っても、きっとこの叔母に通じることはない。だから瑠璃は、あえて黙っていた。
彼女の沈黙を是と捉えたのか、それとも返事などどちらでもいいのか、律子はなおも機嫌良さそうに、鼻歌でも歌いだしそうなほど甲高く澄んだ声で話を続ける。
『瑠璃ちゃんにも、お姉さんにも、一度お会いしてほしいほどだわ。本当に、どこぞの美術館に飾ってあるような天使の絵より天使たりうるあのお姿。いつも身に纏っていらっしゃる、黒いワンピースはまるでヴェールのようで、伸びる細い手足は白魚のように滑らか。対照に真っ赤な唇は、くらりとするほど官能的。それもまた、いいじゃない。神に祈りを捧げる時の、一挙一動はまさに美しく、彼女こそが神に選ばれた唯一の存在でありうる……』
相変わらず聞き流そうとしていた、瑠璃の耳に、一つ引っ掛かるワードがあった。今、何と言っただろう。
……黒い、ワンピース?
『お名前がまた、よくできたほどお綺麗なの。新藤香澄さんという方よ。新たな藤に、香り澄む。なんて清らかな……』
――新藤香澄です。
ネオンきらめくホテル街の中、今は亡き男と腕を組んで、にっこりと挨拶を交わした女の姿を思い出す。
黒いワンピース、白い肌。真っ赤な、唇。
あの日恋人の隣に当然のごとく並んでいた瑠璃に対し、ひんやりとした無表情をよこしてきたあの女。別の日には違う男と、腕を組んで歩いていた。あの、女……。
――ガンッ、
受話器を取り落とし、床にぶつかる無機質な音が響く。なおも漏れ聞こえる声は、こちらの動揺を気に掛けることもきっとないのだ。
震えが止まらない。まだ、寒い季節というには早すぎる。背中に冷や汗の伝う感覚が、事態の奇妙さを物語っていた。
「新藤、香澄……」
自身の恋人である亮太に接近しているとみえる、あの女。それがどうして、叔母に……叔母一家に、取り入ろうとしているのか。
たった一人の生身の女に対して、畏怖を感じるのは馬鹿馬鹿しい。そんなの、彼女を以上に崇拝する律子と同じだ。
そうは思いながらも、迫ってくる恐怖に耐えることはできそうになかった。
◆◆◆
夜も更けた頃。すっかり店仕舞いも終えた、フラワーショップ吉村の奥にある吉村家の自宅。どこもかしこも真っ暗だが、一部屋だけは未だにぼんやりと明るかった。
住み込みで働く男性店員は、既に別室――真っ暗な空間のうちの一室で眠りについている。花屋の朝は早いのだ、これが当然なのだろう。
さて。
唯一明かりのついた部屋――古い電気スタンドが一つ灯る和室の、畳の上に直に敷かれた、黄ばんだせんべいのような布団。あってもなくても変わらないような薄さの板みたいな枕に、白髪まみれの頭を乗せ、痩せこけ乾いた身体が力なく横たわっている。
しゃがれた声が、枕元に正座する、たおやかな身体つきをした若い女の名を呼んだ。
「紗織や、紗織……」
店頭に立つときにはいつも身に付けているエプロンを既に外し、パジャマ姿の女は甲斐甲斐しく母の身体を柔らかいタオルで拭いていた。紡がれる名に反応し、「なぁに、母さん」と柔らかい声で問う。
くぼんだ目をさらに細め、しわくちゃの顔は歪んだ。口元が、何事かを伝えようと何度も動く。彼女は嫌な顔一つせず、ゆっくりとそこへ耳を寄せた。
「今日も、よく売れたかい」
「えぇ。休日だったからお客さんもいつも以上に来てくれたみたい……。わたしは今日、富広中学校まで注文された花を届けに出ていたから、店にはあまり顔を出せなかったのだけれど」
「そうかい、それはよかった……」
消え入りそうにかすれた声が安堵の色を灯す。苦しそうに何度か息をした後、母親は彼女の服の裾を引いてもう一度呼びかけた。
「……美織は、」
心臓が跳ねる。
あの日以来、呼ばれることのなくなった名だ。懐かしい響きのような気もするし、忌々しいような気もする。それは彼女にとって一番、身近だったはずなのに。
「あの子が、どうかしたの」
母親は彼女のことを『紗織』と呼ぶ。だからこそ、あえてそう答えた。いくら不特定多数の人間たちにとっては『吉村美織』であっても、母親にとって彼女は『美織』ではないのだ。
壊れてしまった彼女は、幻影を見ている。
「美織には……本当に、悪いことをしてしまった」
掠れた呟きは、確かにそう言った。
「お前を可愛がるあまり、美織のことを十分気に掛けてやれず……実質一人で花屋を切り盛りしてくれていたあの子に、毎日のようにきつく当たったのが、悪かったのかね」
そのせいで、
「だとしたら、後悔してもしきれないよ」
落ち窪んだ目もとに、じわりと涙が浮かぶ。思えば美織に対して、母親が思いやるような言葉を掛けたのは初めてだ。
「……今からでも、そうやって思えてもらえて。それだけであの子は、十分報われたと思うわ」
「そう、かねぇ……」
口から出まかせた慰めの言葉に、それでもホッとしたのか、母親はゆっくりと目を閉じ、眠りの体制に入る。
やがて穏やかな寝息を立て始めるまで、彼女はその枕元にずっと座り、母親のしわくちゃの手を握ってやっていた。
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