揺さぶり
「いらっしゃいませ」
フラワーショップ吉村ですっかり馴染みの顔となった、明るい髪の若い男性店員が、店に入ってきた香澄を出迎えた。その姿を認めると、顔見知りらしくニコリと笑って、「こんにちは」と親しげに挨拶する。
「こんにちは」
香澄もそれに返して、ニコリと人の良い笑みを浮かべた。
「今日、店長さんはいらっしゃらないの?」
「えぇ。昼から少し出てまして」
あまりに一瞬のことだったためか、男性店員は、自分の言葉によって香澄が怪訝そうに顔を歪めたことに気づいていないようだった。
「……最近、お店空けること多くなったわね。あの人」
少しトーンの落ちた声で呟くと、それほどあなたを信頼しているのね、と今度は明るく声を掛ける。男性店員は照れたように頭を掻いて「そうだといいんですが」と笑った。
「何か見て行かれますか。今朝仕入れたばかりのが揃ってますよ」
「じゃあ、少し見せてもらえるかしら」
「かしこまりました」
「――そういえばあなた、ボロボロの状態でこの店の前にいたところを店主さんに拾われたって聞いたけど」
「そうなんですよ。お恥ずかしい話なんですが」
「あなたみたいな、真面目で優秀そうな人が……何かあったの? 差し支えなければ、教えていただけるかしら」
客足が落ち着いてきた頃、世間話を投げかけるように香澄が問うてみれば、店員は困ったように、けれど嫌がるそぶりは見せぬまま、「実はですね」と自身について語り始めた。
「以前は、とある会社の社長秘書として働いていました」
その会社はかつて世間にも名を連ねていた大会社で、順風満帆だったものの、水面下では数年前から経営の方が徐々に傾き始めていたという。
そんな中、今年になって、社員の横領が発覚した。
「すぐにクビにしたんですが、今思えばそれがいけなかったのかもしれません。逆恨みした元社員が、帰りがけの社長を……」
そこで言葉に詰まり、店員はうつむいた。香澄は眉を下げ、同情するように彼の話に熱心に耳を傾けている。
はぁ、と大きな溜息を吐き、店員は続けた。
「もとは社長のワンマン経営でした。こんなにすぐに亡くなるだなんて誰も思ってませんでしたから、もちろん後継にと育てていた役員など誰一人なく……実のところ、役員など名ばかりで、上役は皆無能ばかりでした」
当然その後すぐ、会社は倒産の運びとなったそうだ。
「会社を辞めた後、知り合いに誘われて会社を立ち上げました。とは言っても、元手になるお金と名義を貸しただけですけど……倍以上にして返すから、と言われましたもので」
しかしそれがまた、何と言うかとんでもない会社でしてね……と、店員はやりきれなさそうに目を伏せた。
表向きは普通の流通会社だったのだが、裏では麻薬を始めとした取引で儲けていたのだそうだ。その知り合い自体がもともとキナ臭い人間だったというのだから、それについては自業自得ともいえる。
しかし、それほど彼は次の就職先に困っていたのだろう。このご時世、しかるべき資格を持っていたとしても中途採用は難しい。自身に変なプライド意識を持ち、職種の選り好みをしていたとしたらもっと厳しかっただろう。
――
「案の定、ものの数ヶ月で警察のガサ入れを喰らいまして……結局知り合いは逮捕され、間もなくその会社も倒産してしまいました」
「それはまた、不幸が相次いだわね……」
「そうなんです。私もまた、直接その会社の悪事に関係していたわけではなかったんですが、なにぶん会社の設立に協力していたものですから、当然警察に話を聞かれまして。まぁ、本当に何も知らなかったので、それ以上ご厄介になることはなかったんですけどね。その一件でさすがにちょっと、次の就職先を見つけるのが難しくなってしまいました。前職での貯金は立ち上げた会社の資本金にあらかた持っていかれましたし、期待していたリターンもなくなったので八方ふさがり。マンションの家賃を滞納し追い出され、ついに行くあてをなくして……」
ここの店長さんに拾われなかったら、私は今頃どうなっていたことか。
「感謝しないといけないわね」
「本当に」
眉を下げて笑う彼に、『高級そうなスーツを身に纏っていた』頃の面影は微塵もない。その明るい髪色も、心なしかくすんだように見える。
「すみません、誰かいませんか」
「はーい、ただいま」
店頭から聞こえてきた客の声掛けに、男性店員はこなれた仕草で駆け寄っていく。カッターシャツに黒いズボン、その上からエプロンを掛けた格好の彼は、今やすっかり花屋の一員として溶け込みつつあった。
「人を呪わば、穴二つ……」
――きっと自分にも、遠からずそうなる時が来るのだと。
伏せた睫毛に、ある種の憂いを抱えて。
◆◆◆
「佐川さん」
後ろから声を掛けられ、帆波は相変わらず無表情で振り返る。声の主はもうわかっていて、だからこそ――そんな素振りはおくびにも出さないものの――密かに胸を弾ませていた。
「何ですか、新藤先生」
声の主である理科教師・新藤香澄は人の好い笑みを浮かべている。いつもの通りだ……表面上は。
周りに誰もいないことを素早く確認する素振りを見せた彼女は、音も立てず帆波に近づいた。帆波はただ、その場に突っ立ったきり。けれど、その行動を拒否しようとすることもなかった。
屈んだ拍子に揺れる黒いワンピースと、整った顔が耳元に近づいた時、ふわりと甘い香りに混じって、ツンとした腐臭のようなものが鼻をついた。気のせいかと感じるほど一瞬のことだったのだが、帆波がそれを感じ取らないはずはなく。
美しい花が、一部分だけ枯れて腐っているかのような――……。
すっかり覚えたその匂いとともに、帆波は思い出した。
――人の大事なものを傷つけ奪った、愚かな奴らのことよ。
それは以前『人間失格とは何か』と尋ねた時に、恐ろしいほどの朗らかな笑みを浮かべて答えた彼女の台詞だ。
『愚かな奴ら』が誰のことを指すのか、帆波は薄々気づいている。
そのために彼女は、自分を――自分たち家族を、利用しようとしているのだということにも。
そしてその利害が、近いうちに一致することになるだろうということにも。
発展途上の中学生らしく、ふくふくとした小さな耳たぶに、真っ赤な唇が近づく。漏れる吐息のこそばゆさを感じながら、帆波は囁く彼女の甘ったるい声を聞いた。
「この間は、本当にありがとうね」
「あれでよかったんですか」
「えぇ、もちろん」
ゆるりと、口角の上がる気配。無邪気な笑みなのか、妖しげな笑みなのか、顔が近づきすぎていて帆波からは見えない。
自殺したアナウンサーの実家である、花屋で起こった出来事を、帆波は今も鮮明に覚えている。交わした会話も、一字一句漏らすことなく。
彼女の『協力者』となりえたことに、その闇に一歩近づけた気がしたことに、帆波はほんの少し誇りを感じていた。
けれど。
ここからが本題というように、声色は少し低くなった。
「あなたのお母様にもね、お世話になっているのよ」
「……」
帆波を纏う空気が、変わった。
いつも無表情な彼女だから、周りは気付かないだろうが、分かる人間には明らかにそれと分かるほどの変化だ。
多分香澄にも、分かっている。分かっていて、言葉を切らないのだ。
意地が悪い、と帆波は思った。なんだか、子供扱いを受けているようにも思えてしまう。口には、出さないけれど。
「あなたも知っているでしょう。近くでやってる宗教の集まりで、知り合ったの。とても優しそうで、素敵な方ね」
帆波は答えない。ただ、感情の読めない鉄仮面のような顔で、耳元の言葉を聞いているだけ。
「お父様である佐川先生にも、本当に色々とよくしてもらって。素敵なご両親に育てられて、羨ましいわ。きっと、仲睦まじいご夫婦なのでしょうね」
どんどんと、冷めていく胸の内。
もともとそんなに感情の機微を持たない帆波だが、こんなにもぽっかりと心が空っぽになる感覚は滅多になかった。
そうやって胸に空いた隙間を再び埋めようとするかのように、香澄の言葉は続く。
「それでね。今度、お宅にお邪魔させて頂くことになったのよ。お母様が、腕によりをかけてお料理を作ってくださるんですって。楽しみだわ」
「……それを何故、わたしに?」
「どうしてって」
堪えきれず言葉を零した帆波に、すっと顔を離した香澄が妖艶に笑う。少なくとも、教師が生徒に向けるような健全な笑みではない。
知っていたとしても、帆波は気付かないふりをした。
「あなたのおうちに上がらせてもらうんだから、そういう大事なことは本人に言っておかなきゃいけないに決まっているでしょう? 変なことを言うのね」
まるで、
「……」
ふい、と帆波は横を向いた。
勘の良い大人にそれを悟られるのは、癪だ。いっそ誰も彼も、母親のような馬鹿ならいいのに。
ふふ、と香澄は笑った。
からかわれているようで、気分がいいとは言えない。けれどそれを出してしまうと自分がまだまだ子供なのだということを再認識してしまうから、絶対に表には出すまいとする。
「お話は、それだけですか」
「これから、急ぎの予定でもあるのかしら」
帆波はその問いに答えることなく、彼女の横をすり抜けた。追いかけてこようとする気配はない。それでいい、と帆波は思った。
自分が行動に出るのは、まだ先のことだと決めている。
いくらあちらが、すでに準備を整えようとしていたとしても。そのために、帆波の心に揺さぶりを掛けようとしていたとしても。
そんな容易い罠に、引っ掛かってなんかやるものか。
その目的が一致するまで、待つのだ。ただ、ひたすらに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます