絡みつく黒い蜜

 はぁ。

 それと分かるほど大げさに、佐川は溜息を吐いた。

 吉村紗織に関する一件があってから、校内では――主に同僚教師たちの間では、佐川に対してどことなく、腫れ物に触るような態度が取られるようになった。

 もちろん二人の不倫がはっきり認められたわけではなく、人違いだと言い逃れることだってできた。事実、夏休み中にこの一件で呼び出しを受けた時にも、言い訳を並べて難を逃れたのだ。この時ほど、キャリアと信用を積み重ねておいてよかったと思ったことはない。

 しかし、今のこの空気は少々、やりにくい。

 周りが取る佐川への態度もそうだし、噂を聞きつけたPTAの内部には、辞職を求める声も少なからずあるという。その影響か、学年主任でありながらその立場も名ばかりとなり、最近は授業以外の仕事をほとんど他の教師に回されることが多くなった。

 有り体に言えば、迫害されつつあるのだ。

 家に帰っても、何かよく分からない神とやらに祈りを捧げる、明らかに気の触れた妻と、愛想の欠片もない娘がいるだけ。正直言って気味の悪い空間でしかなく、癒しも何も得られないし……。

 人目を気にしながらも長年不倫関係を続けてきた、紗織がいなくなったという事実が、意外と痛かったことに今更気づく。

 だからといって、彼女のために今の生活を捨てることなど、今でも考えはしない。遅かれ早かれ自分はこの選択をするべきだったのだし、それこそが最善だったのだ。

 それに、そもそも相手をしてくれていたのは彼女だけではないし……。

「どうしたんですか、佐川先生」

 何かお悩み事でも、と心配そうに顔を覗き込んでくるのは、同僚教師の新藤香澄。新任とはいえ、もともと朗らかな性格らしい彼女からは当初から緊張のようなものなどうかがえなかったが、徐々に職場に慣れてきたらしく、こちらへ話しかける態度が以前より気安くなってきたように感じる。

 今や、臆することなく佐川へ気軽に話しかけてくれるのは、この女教師だけだ。事情を知った上であえてこうしているのか、それとも何も気にしていないのかは知らないが。

 佐川もまた、少しずつその態度を軟化させてきていた。何を考えているのかわからず、妖しげにさえ見えた当初の雰囲気は、もうほとんどない。近頃ホテル街に行くことはないし、彼女のあられもない姿を想像してしまうことがなくなったからだろうか。

「いや……」

 ちょっと疲れてましてね、と曖昧に答えれば、香澄はますます気がかりそうに眉根を寄せた。

「あまり、御無理なさってはいけませんよ。仕事ばかりはよくありません。たまには気分転換でもなさらないと」

「……そうだね」

 香澄の言う通りだとは思いつつも、今の佐川には気分転換のための環境すらない状態だ。どうしたものか……と考えていると、不意に香澄の顔が佐川へと近づいた。

 ふわりと、何かの香りが鼻を掠める。

「思い詰めないでくださいね」

 間近にある、真っ赤な唇から紡がれる甘い声。タイミングを計ったかのように、頭上ではチャイムが鳴り響いた。

 どきりと心臓を高鳴らせる間もなく、彼女はすぐにパッと佐川から離れる。チャイムの音に反応したかのごとく、彼女は「次、授業が入ってますので」とにっこり笑って職員室を出て行った。

 人もまばらになった職員室で一人、佐川は頭を抱える。

 これまでのこと、そしてこれからのこと。様々な出来事により、既にキャパオーバー寸前となっていた彼は、気付いていない。

 この時点で、既に自分が狙われる存在になっていたことに。


    ◆◆◆


 その日は顧問先へ赴き、事務所には寄らずそのまま直帰する算段になっていた。

 ちょうど富広町の住宅街を通った時、儚げにはためく黒いワンピースを見かけた。見覚えのあるそれに、亮太が思わず「あ」と声を上げると、気付いたらしい向こうがこちらを振り返って柔らかく笑う。

「あら宮代さん。ずいぶんと、久しぶりにお会いしましたわね」

「新藤さん。こんな時間に、珍しいですね」

 確か香澄は中学の教師だと聞いている。平日の今頃ならまだ学校にいるはずだろうと、教職に詳しいわけではない亮太でもすぐに考えることができた。

「えぇ」

 そうですよね、と小さく笑って、香澄は続ける。

「今日はちょっとどうしても行かなきゃいけない集まりがあって。お昼で早引けさせてもらっていましたの」

「ということは、この辺りに住んでいらっしゃるんですね」

「そうなんですよ。……宮代さんこそ、この辺りにいらっしゃるのって珍しくないですか?」

「顧問先からの帰りなんです。おっしゃる通り、いつもはこの辺りって来ないんですけど、今日は事務所に寄らないで直帰することになってるので」

「税理士さんも大変ね」

 自分はあくまで税理士『補助』であって、まだ税理士になったわけではないのだが、そこまでの説明はめんどくさいので流しておく。その辺りの事情をよく知らない人間に話したところで、覚えてもらえないことは経験上よく分かっているのだ。

 近況を軽く話しながら、亮太は彼女を改めて真正面から見つめた。

 何度か顔を合わせているにもかかわらず、ここまで印象の変わらない人も珍しいと思う。亮太にとって彼女は最初から、美しく、妖しく、時に可愛らしく、そしてどこか謎めいているのだ。

 ただ、ほんの少しだけ哀れだとも思う。

 自分が出会ってからの彼女は、せっかく巡り会った最愛の恋人を亡くし、仲良くしていた友人の身内にも不幸があって……きっと、何度も心を痛めていることだろう。

 そのせいか、黒い服に包まれた細い肩が、前に会った時より、またテレビでその姿を見た時より、さらに痩せているように見えた。

「お元気そうで」

 掛ける言葉を見つけることもできないままにそう言えば、香澄は眉を下げ、ほんの少し辛そうな笑みを見せた。

「えぇ……まぁ」

 周りは、いろいろと大変なんですけどね。

 自嘲的な笑みを浮かべた彼女に、亮太の胸はちくりと痛む。

 世間話をする程度の中でしかない亮太に、それ以上香澄の内部へ踏み込む権利などない。

「ごめんなさい」

 香澄自身も触れられたくないのか、そう言って軽く目を伏せる。睫毛の影が軽くかかった暗い色の瞳には、寂しさや儚さ、やるせなさなどの様々な負の感情と、ほんの少しアンニュイな雰囲気が垣間見えた。

「そろそろおいとまさせて頂きますね」

 言葉を探そうとして立ち尽くす亮太に、その隙さえ与えたくないとでも言いたげに、香澄の口からはポンと突き放すような一言。

 言い置いてすぐ、彼女は足早に亮太の前から去っていった。


 遠ざかる薄手の黒を眺めながら、考えてしまう。

 あの時……事務所のテレビで姿を見かけた時に、黒いワンピース姿がやたらと目についていつまでも頭から離れなかったのは。そして今、彼女のことがどうしようもなく気にかかってしまうのは。

 ただの、同情か。

 それとも……もっと別の、何らかの色が付いた奇妙な感情のようなものが、生まれつつあるのか。

 その時の亮太には、分からなかった。

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