教師の娘と夢見る少女

 九月とはいえまだまだ夏の暑さが残る今日この頃。二学期が始まって間もない、富広中学校の一教室では……。

「新藤先生」

 シンと沈黙の漂う授業中、流れるように化学式を説明する声を遮るように、挙手をする女生徒が一人。

「どうしたの、佐川さん」

 教師――新藤香澄がふわりと微笑みながら尋ねると、指名された女子生徒――佐川帆波は、表情を崩さぬまま淡々と黒板に向けて指をさした。

「今書いてらっしゃる化学式なんですけど、そこの部分はOじゃなくてCだと思うんですが」

 指された先を目で追った香澄は、あらっ、と素っ頓狂な声を漏らした。

「ホントだわ、ごめんなさい。いやねぇ、これじゃあ何ができるんだかわかんないじゃないの」

 ふふふっ、と茶化したように笑う香澄に、黙っていた生徒たちの間になんとなく流れていた緊張がフッと解れる。

「せんせぇ、しっかりしてくださいよ」

「疲れてんじゃないですか、先生?」

「もぉ、そんなことないわよっ。確かにちょっと抜けてるかもしれないのは、認めるけれど……なんちゃって。さ、無駄話はおしまいよ、みんな。授業に戻ります」

 ほんの少しざわめきの残る教室内の空気をものともせず、香澄は何事もないかのように続きを話し始める。

「さすが、学級委員長だな」

「佐川さんは優秀だねぇ」

「あたし、全然分かんなかったよ」

「オレも」

 小声で交わされる会話を気にした様子もなく、帆波は無表情のまま、几帳面に線の引かれたノートに化学式を書きこむ。

「まぁ、お父さんがあの佐川先生だからな」

 とある生徒の言葉に、帆波は一瞬その動きを止めた。

「今話題の、佐川先生なぁ」

 授業中だということを忘れているはずはないだろうけれど、この年頃の子供はどうにもませている。耳年増、とでもいったところか。まぁ大方、親からの情報を聞きかじっただけで、詳細なんて何も知らないんだろうけど。

 とある女性アナウンサーの不倫が取りざたされたのは、ちょうど夏休みが始まる直前の頃だ。一部ではその相手が、佐川なのではないかという噂――まぁ、事実なのだが――が立ち始めていた。

 そのことを、彼らはどのように受け止めているのか……娘としては気になるところだろうが、残念ながら帆波に興味はない。

 帆波たち学生が何食わぬ顔でいつも通りに過ごしていた夏休みの間、校内では校長たちがそのもみ消しに躍起になっていたことだろう。次期教頭候補だなんて期待されている学年主任が汚されるなど、学校にとってもあってはならないことなのだ。

 そう。そもそもあの男は、この程度のことで廃れるような人間ではない。初めから知っていたが、帆波は敢えてその行動に出た。

 これは、ほんの布石。あの男もじわじわと追いつめられてはいるようだけど、こんな程度じゃまだまだ。

 やるならもっと、徹底的に・・・・

「だってオレ、聞いたもん。佐川先生ってあの有名な、吉村アナウンサーと会ったことがあるんだろ? 俺たち庶民とは住む世界が違うよ。根本的にさぁ、頭の出来が違うんだって」

 どこか嫌味のこもった声に、だよね~、などと盛り上がり始める一部の生徒たちを「こらっ、私語厳禁よ」と香澄が優しくたしなめる。

「罰として加藤かとうくん、この化学式解いて」

「えぇっ、何で俺なんすかぁ」

 帆波の伏せられた瞳が、先ほどの会話でたちまちスッと温度をなくしたことに、気付く者はいなかった。みんなそれぞれおしゃべりに夢中だったし、何より帆波は、もともと表情の変化に乏しいので、わかりにくいのだ。

 そのため周りからは、『父親のマイナスな噂が流れても気に留めない、学級委員の優秀な女子生徒』という受け取り方をされている。

「それからこっちの問題は相川あいかわくん、次の問題は市村いちむらさん、解きに来なさいね」

「オレ? ひどいよ、新藤先生」

「何であたしまでぇ?」

「あなたたちが余計なおしゃべりしたからでしょ。ほら、三人とも文句言わずに早く来る!」

「「「えー」」」

 そしてそんな生徒たちとの会話の間に一瞬だけ、帆波に興味深げな流し目を向けた香澄のことにも……。


「――新藤先生ってさ、いっつも黒い服着てるよな」

 給食の味気ないコッペパンをかじりながら、一人の男子がふと思いついたように話題を振った。

「そういえば、黒以外の服着てるとこ見たことないかも」

「ピンクとか似合いそうなのに」

「ねぇ」

 同じ班の子たちが、口々に乗ってくる。

 服のセンスがないから誤魔化してんのかな、とか、今度アドバイスしてあげよう、などといった中学生らしい単純すぎる会話を、帆波は一人黙々と食事を摂りながら聞いていた。

 帆波はあの漆黒を、単純に美しいと思う。

 あたたかで柔らかく、朗らかで接しやすい人柄にもかかわらず、時折どこかに落とされた影が見える。その姿は、摘み取ろうとしてもどんどん手から遠ざかっていく、孤高な花のようで。

 むしろ、他の子たちが言うような――ピンクなどといったふざけた色の召し物は、あの人に似合わないような気さえした。

 新藤香澄は、漆黒であるからこそ輝く。

 その心に抱えているのであろう、何らかの闇があるからこそ美しい。

 ……そんなこと、みんなの前では決して口に出さないけれど。

 咀嚼のためよりも喋りのために動く、周りのみんなの口。彼らよりとうに早く給食を食べ終えた帆波は、いつものように鞄から文庫本を取り出すと、机の下でひっそりと広げた。

 同世代の子たちは、この姿を見て、やはり委員長は違うと褒めそやすのだろう。真面目で品行方正な、優等生の鑑のような子だと。

『わたしの気持ちなど、何一つ知らないで』

 この日常を、評価を、いっそ一気に打ち崩してしまおうか。時折退屈すぎて、そんな衝動に駆られることもある。

 けれども、今は……。

 心に燻る感情の波をぐっと抑え込み、帆波は今日も、文章ばかりが並ぶ小難しい本に目を落とす。

 平和な中学生たちの幼いざわめきを、クラシックのごとき安らかさを伴うBGMとして。


    ◆◆◆


 ここ最近の佐川は、あからさまに帰りが早くなっていた。

 騒ぎになった件の不倫相手は、この間自殺したばかりだという。地方でのニュース番組ではもちろん、全国放送のワイドショーでも、彼女の死について連日報道されている。それは、帆波も何度か目にしたことがあった。

 その死に佐川が関係しているのだということも、もちろん知っている。そもそも、そうするように仕組んだのは――……。

「近頃は、パパも出張が減ったのね」

 不穏な噂に耳一つ貸さず、なおも夫の潔白を信じて疑わない。そんなおめでたい妻こと律子は、久しぶりに三人で食卓を囲むことがそれほど嬉しいのか、鼻歌を歌いながらキッチンに立っている。

「繁忙期は過ぎたからなぁ」

 帆波の斜向かいに座る佐川は、また適当なことを言っている。それで納得するというのだから、律子の頭がどれだけ単細胞なのかよく分かるだろう。

 帆波は、何も言わない。基本的に無口だが、彼女は父親が家にいると、まるで置物のようにじっとして、空気にでもなったつもりで一切の存在を消すようにしている。

 有り体に言えば、この父親と話をしたくないのだ。

「休みの日も取れそうだし、今度家族でどっか行くか」

「いいわねぇ。帆波ちゃん、どこ行きたい?」

「……別に」

 浮かれ気味に弾む母親の声に苛立ちながら、帆波は淡々と夕食に手を付けていく。さっさと食べ終わってしまうと、ごちそうさまと言うこともなく、椅子を引いて立ち上がった。

「帆波。何か言うことがあるんじゃないのか」

 父親の声掛けにも、一切反応はしない。まるでそこに、誰もいないかのように振る舞ってみせる。

 無言で部屋へ引き払って行く我が娘の背中に、佐川は一つ溜息を吐いた。

「どうしてあの子は、あんな風なのかね」

「きっとお部屋で予習でもするのよ。熱心でいいことじゃない」

 苦々しげな佐川に対し、律子は我が子の出来のよさに酔いしれているかのように、うっとりとしている。娘に模範的な優等生という立派な肩書さえあれば、それ以上のことは何も望まないようだ。

「しかしあんな風に、可愛げがないのも考え物だぞ」

 一方教育者として、また親としての自覚が芽生えているのか、娘の未来を案じている様子の佐川。

「昔は、もっとよく笑ったり泣いたり、はしゃいだり、可愛い子だったのに」

「……そうね」

 佐川がその話をすると、律子はいつも軽く目を伏せる。

「休みのたびに家族三人で遊びに行ったり、食卓の場も明るくて。……やっぱり、俺が忙しいせいなんだろうか」

「あなたのせいじゃないわ」

 責任を感じているらしい佐川を、律子はいつものように断じる。それからそっと手を組んで、祈りの言葉を捧げるのだ。

「神様はわたくしたちに対して平等に、幸せと試練を与えてくださるの。わたくしたち三人の末永い幸せのために、ほんの少しの・・・・・・犠牲が生まれてしまった。悲しいことだけれど……それで末永い幸せを保証してくださるというのなら、安いものだと思わなくて?」

 ミュージカル俳優よろしく、大仰な動きで神棚へと赴く律子の背を、佐川は苦虫を噛み潰したような渋い顔で見ていた。

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