それは純粋かつ邪悪
「こんにちは」
「こんにちは」
教師や上級生など、目上の人間と校内ですれ違う時には、ひと声掛ける。富広中学校のように比較的知能レベルの高い中学校でなくても、帆波のような優等生でなくても、まともな学生ならばそれは半ば暗黙の了解、ごく当たり前の習慣という認識だろう。
そんな、どこででも見られるような日常的風景を演じながら、帆波は今日も廊下を歩く。今はちょうど休み時間で、トイレから教室へ戻るところだ。
流れゆく人波を、特に何の感情もなく眺めながら歩いていると、ふと前方から歩いてくる一人の女子生徒を見かけた。
呆然としている。病気かと見紛うほどに、顔が青白い。完全に、血の気が引いている。……絶望の表情。
どうしたのかと声を掛けようと思った矢先に、それは見えた。
くったりと力を失った手が、持っているそれ。
無残に切り刻まれた布に、墨汁と思しき黒の染みが点々と。今やボロ雑巾のようになってしまっているそれは――見紛うはずもない。帆波自身も、同じものを持っているのだから。
富広中学校指定の、体操着。
おそらく持ち主は……そこにいる、顔面蒼白の女子生徒。
そこで、聡明な帆波は当然のように察する。もっとも、聡明でなかろうとも――帆波の母親のように、自身の気に入らないことを自然と目の前から排除するような、おめでたい脳味噌を持った人間でなければ――誰の目にも一目瞭然かもしれないが。
しかし、それにしても。
帆波以外にもこの廊下を歩いている者はいる。女子生徒とすれ違った人間は他にもたくさんいるだろうに、誰も気に留めないのは何故か。
されど帆波は不思議に思わなかった。そんなもの、答えは一つしかない。
この事実に、巻き込まれたくないからだ。
関わったら最後、次のターゲットは自分になってしまう。見て見ぬ振りをするしかないという、当然の心理。
だから、生徒たちは――時に教師さえ、知らない振りをする。その『事実』から、目を背け続ける。
その被害者と、そして加害者以外には、
――この富広中学校にも、『いじめ』は存在するということ。
◆◆◆
ザッ、というノイズ音の後、声が聞こえてきた。
女性の、鼻歌のような……讃美歌らしいメロディは少々調子外れで、あまり聞いていたい類のものではない。
それでも我慢していると、間もなくガチャリとドアの開いたらしい音がした。ぱたぱたと軽い足音がして、それを合図に鼻歌が止まる。『あら、おかえりなさい』と嬉しそうな、やはり不快な声が言った。
『着替えはソファに置いてあるからね。脱いだら制服を貸して。……あら、袖のところが何か汚れているわ。血かしら』
『クラスの子が鼻血を出したの。すぐ近くの席だったから、応急処置をしてあげた時についたのかも』
『あら、じゃあこれはその子の血なのね。よかったわ、帆波ちゃんが怪我をしたのじゃなくて……それにしても、やっぱりあなたは優しいいい子ね』
母親らしい女の言葉に答えることなく、学生と思しき少女は着替えを済ませているらしい。軽い衣擦れの音をさせ、手早く着替えたらしい彼女は足早に部屋へと戻っていったようだ。
『お休みの日になったら、一度クリーニングに出しておかなくちゃね』
それでもいつものことと、気にする様子はないらしい。
やがて再び始まる鼻歌。おそらくこの女性は、歌が相当下手だと思われる。そもそも声が気に入らない。その前に存在が気に入らないと言ってしまえば、それまでなのだが。
三十分ほどして、再びドアの開く音。今度は先ほどよりドサドサと何やら重みのある音とともに、『ただいま』と低い声がする。久しぶりに感じる彼の存在に、自然と頬を緩ませた。
あぁ嬉しい。ようやく、時間が取れた。
自身の立場を利用して口実を作り、公立中学校にうまく入り込み。さらに見つからないよう、一般家庭にまでこっそりと忍び込み。これでも結構苦労して、色んなところに盗聴器を仕掛けたのだけど、結局これまで色々と忙しくて、役に立てることができていなかった。
法事が終わり、仕事もようやく落ち着き。
周りから『たまには休みを取ったら』と勧めてもらえたことに、心から感謝する。これで、ようやく気兼ねなくゆっくりと聴くことができるのだ。
随分と時間が経ったので、気付かれた可能性も考えて複数取り付けた。しかしこの様子だと、ちゃんとバレずに成功したようだ。これまでの貯金のほとんどを崩して、盗聴器につぎ込んだ甲斐があったというものだ。
どうやら向こうでは、家族三人揃って食事をしているようだ。食器の当たるカチャカチャという安っぽい音と、ご機嫌そうな女の声がぺらぺらと何やらまくしたてている。その間に、ほんのわずか漏れ聞こえる、誰より愛しい男性の声に、そっと耳を傾けた。
その間娘は、一言も言葉を発しない。話を振られた時には簡潔に答えるが、自身から情報を発しようとする様子は少しも見当たらない。中学生のわりに無口で落ち着いた、最近としては珍しい子らしい。まぁ、学級委員を務めていると言っていたから、きっと優秀なのだろう。さすがベテラン教師の、あの人の娘だけのことはある。
さっさと食事を終えたらしい娘は、ごちそうさまと言うこともなく、カチャカチャと食器を片づけて自室へ消えてしまったようだ。それについて彼が苦言を呈するが、まるでその場にいないかのようにスッと、姿を消したらしい。
『まったくもう』と呆れたように溜息を吐く彼に、妻が相も変わらず朗々と、どれだけ娘が優秀であるかを語り出した。神に感謝しなければ、などとよく分からないことも言っている。毎度のことと聞き流しているらしい彼に、少なからず同情する。
今になって思えばあの人は、自身の家族について口にすることがほとんどなかった。まぁ、あぁいう時に家族の話をするのはいささか無粋というものだし、こちらも聞きたいと思ったことはないのだから、別に気にしてはいない。
ただ、初めて触れる空間の中でも、分かる。きっとあの人は、この家庭の中で、息の詰まる思いをしているに違いない。
あたしが、救ってあげなくちゃ。
これからの計画に関して一人、意識を巡らせていると、憎い女の声がふうわりと、穏やかに引っ掛かる言葉を発した。
『ねぇ。明日は、学校が早く終わるのでしょう』
『まぁな。昼過ぎには帰れるだろう』
『でしたら、また香澄さんをうちにお呼びしましょうよ』
当たり前のように発された他の女の名前に、ズキリと胸が痛む。それも、聞き覚えのある名前。
自分の存在だって、奥さん公認であるはずがなかったのに。
いや。
反応しないで、どうか……。
『新藤先生を、か。そんな頻繁にうちに呼んで、いいものかね』
『良いじゃない。ねぇ? お仕事でいつもご一緒なのだし、不自然じゃないでしょう。あなただって、彼女のこと気に入ってらっしゃるくせに』
食卓の場にあの方がいらっしゃると、あなたいつもより機嫌がよさそうだもの。
「……っ!」
めらりと燃え立つ、嫉妬の炎。
機嫌が、よさそうだって? しかもそれを、奥さんに言わせるの?
『まぁ、そうだが……』
否定もせず、曖昧に彼は答える。
どうして、どうして。
「新藤、香澄」
彼の家庭の場に、サラリと現れた第三者の名前。
かつて自分の人生をめちゃくちゃにした、憎い女の名前。
自分はずっと、彼にとって隠されるべき存在であったのに。どうして、あなたはいつの間に、ごく当たり前のようにして、あの人の世界の中に溶け込んでいるの。
「許さない……」
先に出逢い、愛され、あの人の隣に当然のように居座る奥さんも。
あの人と憎い女の間に生まれた結晶である、娘も。
そして……あの人の家庭の中に、そしてあの人の心の中に、するっとすり抜けるようにして自然に入り込んできたあの女も。
「絶対に、許さない」
あの人を苦しめる女たちは。
あの人の心を、不用意に掻き乱す女たちは。
みんな纏めて、地獄送りにしてやる。
――自室の窓から入ってくる、日中特有の光を受け、薄暗い部屋にぼんやりと浮かぶ女の後姿。ぶつぶつと、何やら漏れ聞こえる呪怨の声。
嫉妬に狂った、般若のごとき表情。
それがかつて『華』と呼ばれた女の、なれの果てだった。
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