全てを喪い、彼女は
「わたしのこと、覚えていてくれたのね。紗織さん」
雰囲気は最後に会った時よりずっと大人っぽくなっていたけど、そうやって笑うと、幼いころの面影がくっきりと残っている。
「どうして、あなたがここに」
「わたし、美織さんの友人なんですよ。お姉さんだったんですって? 奇遇ですわね」
クスクス、と彼女は静かに笑う。思い出したくもなかったはずの過去のことが思い起こされて、紗織は身震いが止まらなくなった。
「お知り合い?」
いつものおどおどとした態度ではない、妹の尊大な声が問いかける。おそらく自分たちの関係を本当に知らないのだろうが、ねめつけるような目つきをされると、まるで何もかもを見透かされている気になってしまう。
板挟みに答えられずにいると、香澄が代わりに口を開いた。
「美織さん、この人に以前別の恋人がいたことは御存知よね? その件で、ちょっと」
てっきり、濁すような言い方をすると思っていた。実際ぼやかしてはいるものの、しかしその言い方は確実に紗織の心を抉りにかかってきている。
紗織は五年ほど前に、当時付き合っていた恋人と別れた。
当時の恋人とは、今からは考えられないほど清い交際で、口づけひとつ交わすのにももどかしいほど時間がかかった。そんな真面目で実直な彼のことを非常に好ましく思っていたものの、恋愛に刺激を求める紗織にはほんの少し不満だったことも事実で。
佐川と出逢い、関係を持ったのはその後すぐ――いや、実際はそのもう少し前のこと。
短い期間のうちに佐川との禁断の恋に溺れきってしまっていた紗織には、後ろめたさとか罪悪感とか、そういった感情はほとんどなく。彼のことはたまに、比較材料としてちらりと頭の片隅で思い出す程度だった。
別れを告げたのは――彼の存在を邪険に思った紗織の方だったか。それとも、紗織の心の変化を機敏に感じ取った彼の方だったか。
今となってはもう思い起こすこともできないほど、過去のことになってしまったけど。
「最低ね、お姉さん」
紗織の反応と、香澄の恨みがましい目つきに、何かを感じ取ったのだろうか。美織が軽蔑しきった目でこちらを見ている。じわじわと湧き上がる嫌悪に、紗織は耐えきれず顔を背けた。
「そうよ」
香澄は嘲笑うように答える。
――どうして?
紗織は続きを聞きたくなくて耳を塞いだが、細い両指の隙間から、彼女の声は絡むように忍び込んでくる。
「多くの人間を踏み台にしてのし上がり、犠牲をものともせず自分だけ幸せになろうとしたの。今も昔も、変わらない」
――誰にだって、幸せになる権利はある。それを求めることの、何がいけないというの?
思いついた言葉が、一つも現実になることはなかった。
代わりにガチガチと、夏場なのに寒気で歯がやかましく鳴る。香澄の笑い声は少しずつ大きくなり、やがて紗織の脳をむしばむように響き渡り始めた。
真っ赤な唇が、死刑宣告を口にする。
「こんな女――……」
最後の言葉が、紗織の耳に届くことはなかった。
――気が付くと、とある部屋にいた。
紗織がかつて使っていた寝室。彼女が家を出てからも、母親がちょくちょく掃除していたようで、汚れや劣化らしき気配はほとんど見当たらない。
寝かされたベッドには新調されたと思しき布団が敷かれていて、ふかふかと柔らかく紗織の全身を包んでいる。もう何年も嗅いでいない懐かしい香りに、心が和らぐのを感じた。
サイドテーブルには赤黒い林檎と真っ白な皿、そして銀色の果物ナイフが置いてある。誰が用意したのかを考えると多少恐ろしいが、そういえば喉が渇いた。
横に置かれていた自分の携帯電話を手に取ると、着信がいくつか入っている。画面をスライドさせ、メール画面を開いた。
愛しい人の名前に、頬が緩む。もはや彼のもとだけが、唯一縋ることのできる場所だ。
TVワカツキには、もうきっと戻れない。
現在受けている謹慎は、期限が設定されていないのだ。何年も放っておかれ、知らないうちに契約は解除されることになるのだろう。
仮に戻ってきたとしても、居場所など残っていないに違いない。まだこれで、良かったのだと思うことにする。
あとは、佐川が奥さんと離婚して、自分と再婚してくれれば……女としての幸せは確約される。
それでいい。それだけで、いい。
希望を胸に、佐川からのメールを開く。内容に目を通した紗織は……寝ころんだまま大きく目を見開き、固まった。
ぼろりと、手から携帯電話が落ちる。額に勢いよく当たったが、そんな痛みはどうでもいい。
「どう、して」
紗織は呆然と起き上がった。化粧の剥がれた唇からは、少数しかプログラムされていない機械のように「どうして」という言葉だけが無機質に繰り返される。
落とした画面に記されていたのは、簡潔な、そして明確な別れの言葉。
ようやく落ち着いたと思っていた震えが再発し、紗織は乱れた頭髪を両手で掴んだ。
ぶちり、染めた髪がまとめて抜ける音が、脳へとダイレクトに届く。頭皮が何箇所か抉れる感触と、流れる血の生温さ。
「あ、あ」
近所迷惑がどうとか、普段の紗織ならば極度に気にするはずの周りへの体裁さえ、頭からは吹っ飛んでいた。
次の瞬間、喉が割けるほどの叫びが部屋中に轟く。
サイドテーブルの銀色が、鋭利に光った。
◆◆◆
――お姉さんは、あなたにとってどんな存在でしたか。
「姉は……本当に、気高く美しく、聡明で、素敵な女性でした。それはまるで、一輪の薔薇のように。わたしはそんな姉を幼い頃から見ていたし、ずっと慕い続けていました」
――お姉さんが不倫をされていることについて、何かご存知でしたか。
「お付き合いしている方がいるというのは聞いていました。でも、まさか不倫だったなんて……」
――本当に、御存知ない?
「はい、不倫だということは本当に知りませんでした。あんなことになるのなら、どうして一言言ってくれなかったのか……不倫だと分かっていたら、姉のために何か力になれたかもしれないのに……」
――吉村さんの携帯電話の履歴に、あなたの連絡先が頻繁に入っていたそうですね。
「そりゃあ、姉妹ですから。連絡くらい取りますよ。当たり前のことでしょう? それが何か……」
――そこに、週刊誌に流れた写真が添付してあったと、一部では報じられています。そのことについては。
「わたし、わたしが……リークしたと?」
――そう見ている方も、いらっしゃると思います。
「そんなっ……わたしが、そんなことするはずないじゃないですか! そんな、姉を裏切るような真似……」
――あぁ、そんなに取り乱さないでください。言い方が悪かったです。
「わたし、わたしは……心から姉を、姉を……姉をっ!!」
「美織さん、どうしたんですか?」
――あ、あなたは?
「美織さんの友人です。……あなた方は、マスコミの方?」
――えぇ、そうです。
「こういうの、やめてもらえますか。美織さん、今とても大変なんです」
――そう言われましても……私どもも、これが仕事なので。
「そちらにどのような都合があるかは存じませんが、こちらにも相応の都合ってものがあるんですよ。美織さんはね、お姉さんの一件で相当心を弱らせていらっしゃる中、ショックで寝込んでしまわれたお母さんの看病までされているの。いろんなことを背負わされて、なおもマスコミの方に追いつめられるようなことになって……本当に、可哀想。あなた方のせいですよ」
――それは、気の毒とは思いますが。
「あまりに酷いようなら、あなた方を訴える準備もできていますから。そちらとしても、不必要に事を荒立てたくはないでしょう。……お帰り下さい」
――でも、
「お帰り下さいと言っているでしょう?」
――……わかりました。今日はこれで失礼いたします。
◆◆◆
「吉村紗織、自殺だって」
「そりゃあ、死にたくもなるでしょうね」
携帯電話でニュースサイトを見ていたらしい保阪から画面を見せられ、亮太は小さく苦笑した。
本当に彼は、こういうエンタメ系の話題が好きだ。
「テレビ、付けますか。放送してるかも」
「頼むよ」
事務所内についているテレビをつけると、ちょうど保阪がいつも好んで見るワイドショーが始まった時間だった。亮太はそろそろ顧問先に行く時間が迫っているのだが、一応気になるので手を動かしながらも何となく眺めることにする。
『最初の話題は、こちら。TVワカツキの女性アナウンサー、吉村紗織さんが突然の自殺……不倫疑惑が報道されてから数日、彼女にいったい何があったのでしょうか』
不倫報道以来、TVワカツキから無期限の謹慎処分――事実上の解雇宣告をされていたという吉村紗織。
愛する人さえ傍にいれば……なんてことを恋愛ドラマなどではよく言っているけど、案外女は現実的だ。立ち込めた暗雲で徐々に見えなくなった未来に、絶望したのかもしれない。まぁそれも憶測でしかないが、遺書は残っていなかったというし、おそらく衝動的な自殺だったのだろう。
そんなことを考えていると、画面は突如見覚えのある風景を映し出した。吉村紗織の実家である、フラワーショップ吉村の前だ。
店頭には明らかに憔悴しきった女性――紗織の妹である美織が、力なくインタビューに答えていた。
その様子は何故かダイジェスト方式になっており、どんな会話がなされているのかは分からない。が、インタビュアの何らかの質問が癇に障ったのか、突如彼女は激昂しだす。
そんな彼女を、店の奥からふいと現れた女性がなだめるように肩を抱き……そこで、亮太は小さく目を見開いた。
美織の身を守るように、カメラに向かって何やら言っている、黒いワンピースの女性。
「新藤さん……?」
……いや、彼女と美織は以前から懇意にしていたようだし、別に一緒にいたところで不思議ではないのだが。
何故だろう、その光景が妙に引っ掛かった。
「ご友人を守る、気の強い女性……悪くないね、こういうのも」
清い女の友情を見たよ、と保阪は一人満足そうにうなずいている。
「しかし妹も大変だな。お姉さんの件もそうだけど、ほとんど店に出てこない親の世話だってしてるだろうし、相変わらず花屋の切り盛りもしなきゃいけないんだろ? ほら、あんなに疲れた様子でさ」
保阪の言葉は的を射ている。実際、悲劇のヒロインのように映された映像を見ながら、番組のコメンテーターたちも次々と彼女に同情するような言葉を掛けていた。
「……ホントに、彼女もこれから大変でしょうね」
引き続き報道されるニュースを眺め、しみじみとうなずきながらも、亮太の脳裏には未だに黒いワンピースの女が焼き付いて離れずにいた。
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