従順な妹の刃

 外はだんだん暗くなってきた。世間は夏休みに入ろうというのに、もう既に日は短くなりつつある。

 奥の部屋で母親と世間話をしている香澄を横目に、携帯電話でニュースサイトを開いていた美織はふと時間を確認し、もうそろそろ店を閉めようかと考えていた。

 ちょうどその時、滑りこむようにして店内に入ってきた人影。

「すみません、もうお店は閉め……」

 声を掛けようとして、美織は小さく目を見開く。

 つかつかとハイヒールを鳴らし、美織に近づいてきたのは……紛れもなく、血の繋がった姉だった。

「……美織!」

 化粧はバッチリだが、何故か仕事着のようなカラフルなスーツではなく、私服のような装い。相変わらず派手ではあるものの、その様子は華やかとも朗らかとも程遠く、確かに怒りだけが充満していた。

「お姉さん?」

 美織は不思議そうに首を傾げる。

「今日はオフだったの?」

「誰のせいだと思ってんのよ」

 返ってきたのは、至極冷たい声。

 美織はおろおろと、困惑したような様子を見せた。

「どういうこと? 何かあったの、お姉さん……」

「とぼけないで。テレビなり雑誌なり、見てるはずでしょ。あんただって」

 カウンターに置いてある雑誌にちらりと視線をやり、美織は内心苦笑した。もちろん、知らないはずはない。

 特にワイドショーをよく見ている、母親ならなおさら。

「……お母さん、心配してたよ。何かの間違いじゃないかって」

「不倫のことは、母さんにも言ってないもの。知ってるのは、あんただけ。……ここに取材陣が来るのも時間の問題だわ。いったいどうしてくれるのよ」

「どうして? わたし、何かした?」

「何をしたって? ……あくまで、しらを切るつもりなのね」

 美織の態度に、ふん、と紗織は軽蔑しきった顔で鼻を鳴らす。こちらの会話が聞こえているのかどうかは定かでないが、奥からの話し声はいつの間にか止んでいた。

 しかし切羽詰まった様子の紗織には、そんなことを気にする余裕まで持ち合わせていないらしい。

「ふざけるのも大概にしなさいよ、美織!」

 半ば怒鳴るような金切り声で、彼女は叫んだ。

「問題になったあの雑誌に載ってた写真、あんたがリークしたんでしょ。全部、分かってんのよ。だってあの写真は……」

 悔しげに唇を噛んだ紗織。まるで、あんたのことなんて信じなければよかったとでも言いたげに。

 今更遅いのに、と美織は頭の片隅で思う。

「あの写真は他の誰にも送っていないし、誰も知りえないはず。関係者だって奴のインタビュー……あれも、あんたね。あんな詳細な情報、あたしとあの人の他には、あんたしか持ちえないんだから」

 つまりあんたは、あたしを裏切った。あんなに……いとも簡単に。

「美織。誰にも言えないあの人との関係を、安心して共有できるのは……幼い頃からあたしに忠実であり続けた、妹のあんただけだって思ってた。あたしが馬鹿だったわ」

「……今更気づいたの? お姉さん」

 ガラリと妹の声色が変わったことに、紗織はすぐに気付いたらしい。怯えるような、意外そうな反応に、さすが長年の付き合いであるだけのことはある、と美織は感心した。

 ふふ、と意識もしていないのに自然と笑みがこぼれる。今はただ、この状況が楽しくて仕方ない。


『美織、あんたは役立たずで落ちこぼれなんだから。お姉ちゃんをしっかり見習いなさいよ』

 いつか聞いた、母親の声。

 従ってはいたけど、心のどこかでは悔しくてしょうがなかった。母親にも、今は亡き父親にも、当然のように構われ続けていた姉が、羨ましくてたまらなかった。

 だから敢えて、その感情を隠しながら生きてきた。

 自分は姉を誰よりも尊敬しているのだと、姉は誰より美しく素敵な人なのだと、思いこまなきゃやってられなかった。


『美織、ジュース買ってきて』

 小さい頃から、そんな命令は当たり前。逆らうという選択肢は、当時の美織には初めから存在しないものだった。

『あたし、出掛けてくる。宿題のワーク、答え渡しとくからあとはよろしくね』

 あぁ。思えば、そんなことも日常だった。

『明日からテストなの。カンペ作っといてね』

 そんなことを言われたこともあったっけ。

 姉は、本当にずるい人。そんなことで、成績優秀だとか品行方正だとか、当然のように言われ続けてきたんだから。

 本当は――……本当は、わたしの方が、『いい子』だったのに。


 ねぇ。

 どうしてみんな、わたしを見てくれないの?


 ……あぁ、そっか。あなたがいるからなのね。お姉さん。

 あなたさえいなくなれば、わたしは……。


「お姉さんが不倫してるって知った時、わたしはそれをネタにあなたを揺すれると思ったのかもしれない」

 普段のわたしはあなたに忠実だから、考えたとしても自分が意識しないような、ほんの頭の片隅だったんじゃないかと思うんだけどね。

「だけど、わたしは昔からそうだったように……あなたが思っていたように、どこまでもあなたに忠実であり続けた。裏切るなんてこと、具体的に考えたことはなかった。実行に移してやろうとも、思ってなかった。あの人に会うまでは、確かにそうだったのよ」

「あの人……?」

「そう、あの人」

 夢見心地に美織は答える。紗織のことなど、まるで眼中にないかのように。うっとりと、空を見つめる。

「本当に美しい人。うつくしい、黒百合の花。すずらんの花を添えて、わたしに本当の気持ちを芽生えさせてくれたのよ」

 紗織には、何を言っているのか皆目理解できない。黒百合とか、すずらんとか……。

 しかしそれが美織の比喩表現らしいことは、何となくわかった。彼女はいつも紗織を褒める時、可憐な一輪の薔薇だと言うのだから。

 ただそれが、いったい誰を指しているのか……。

「美織さん」

 奥の方から、女性の声がした。美織はパッと表情を華やげ、嬉しそうに「香澄さん」とその人の名を呼ぶ。

「あなたのお母さん、疲れたのかしら。眠ってしまったわ」

「すみません、付き合ってもらっちゃって」

「いいのよ」

 やがて姿を現した、その女を見て、紗織はやっと理解した。『黒百合』が、誰を指した言葉なのかを。

 そして……。

「紗織さん、久しぶりね」

「香澄、ちゃん……?」

 その『黒百合』が、自身のよく知る人物であったことを。


    ◆◆◆


 テーブルに突っ伏して、眠る壮年の女性。皺が深く刻まれた目尻には、うっすらと涙の痕が滲んでいる。

 付けられたままのテレビで放送されているワイドショーは、女性アナウンサーの不倫ニュースというドロドロした話題から離れ、美味しいスイーツの店を特集している。

『信じられない、あの子がっ……どうして!』

 先ほどまでこの女性はずっと、髪を振り乱して騒いでいた。我が子の身に降りかかったスキャンダルの事実を、どうしても認めたくなかったらしい。

『何かの間違いだわ。きっと、誰かに陥れられたのよ』

 あぁ、なんて本当にかわいそうな子……。

 母親である自分が守らなければ。そううわ言のように繰り返し、やがて彼女は疲れ切って眠ってしまった。

 香澄はテーブル越しに様子を見て、冷たく鼻を鳴らした。

 彼女が眠るまでは、ずっと優しい言葉をかけ続けていた。母親の言葉を、肯定するような答えを繰り返していた。

 心の中では微塵も、そんなことを思ってはいないのに。

 部屋に掛かった時計を見て、香澄は立ち上がる。そろそろ、決着をつけに行かなければいけない。

「美織さん」

 店にいる二人の会話が途切れたのを見計らい、よく通る声を上げる。すぐに嬉しそうな吐息と、弾むように香澄の名を呼ぶ美織の声が聞こえた。

 零れる笑みは、敢えて隠さない。さて、どのような反応をするだろう……。

 高鳴る胸の鼓動を押さえて、香澄は久方ぶりの再会となる『その人』の前に姿を現した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る