手折られた華の浮名

「おはようございま……」

「ちょっと吉村さん、これどういうこと!?」

 出社するや否や、いきなり先輩アナウンサーが声を荒げながら近づいてきて、紗織は訳が分からずきょとんとした。

「どうしたんですか?」

「どうしたんですか、じゃないわよ」

 これ見なさい、と目の前に突き付けられた雑誌。いやでも目に飛び込んでくる、大きな文字ででかでかと書かれた煽り文句に、紗織は叫びだす前にまず自分の目を疑った。

「え……?」

 書かれていたのは、自分が長らく勤めている会社の名前と――まぎれもない、自分のフルネームだった。横に並ぶ『不倫』の文字に、まるで振り子が頭を勢いよく殴ってきたかのように、ぐわんぐわんと視界が揺れる。

 その背景には、いつの間に撮られたのか、どこか遠いアングルからの白黒写真。二人の男女が寄り添うようにして、見慣れたネオン街のホテルに入っていく様子がばっちり映っていた。

 無論、それだけならば紗織だって『人違いです』などといくらでも言い逃れはできるのだが――……。

「これって」

 二枚目、三枚目に次々と掲載されている写真の数々に、紗織は見覚えがあった。ホテル内で、紗織と相手――モザイクが掛かってはいるものの、それはもちろん言うまでもなく佐川のことである――が裸で睦み合う様子や、ホテルの部屋が赤裸々に、詳細に映りこんでいる。

 先輩の手から雑誌を半ば奪い取るようにして、紗織はその本文を読んでいく。二人が待ち合わせてからホテルへ消えていくまでの行動や、関係者だという人間の証言までも書かれており、信憑性が非常に高い記事だった。

 事実である以上、もはや言い逃れなどできそうにない。普通なら、そう思うところだろう。

 が……。

「でたらめにも、程がありますよ。こんなの」

 ふん、と鼻を鳴らし、紗織は強がってみせる。あくまでも人違いだと、そうでなければ悪質ないたずらだと、しらを切るつもりだった。

「吉村」

 後ろから声を掛けられる。内心苛立ちつつ振り返れば、神妙な顔をしたデスクが「上層部からお呼び出しだ」と冷静に紗織から雑誌を取り上げた。


「――これは、事実なのかな。吉村くん」

 ばさり、雑誌の該当ページを少々乱暴に置いた編成部長。その横では紗織が懇意にしていたディレクターの男が、難しい顔で腕を組んでいた。

「確かに、私に恋人がいるのは認めます」

 恋愛は自由ではないのか、と言外に込め、紗織は淡々と答える。

「ですが、彼が既婚者だという証拠はどこにもないじゃないですか。でっちあげです。プライバシーに触れるどころか土足で踏み込んでくるようなこの記事、悪質ないたずらです。今すぐ訴えるべきですよ。いくらゴシップ記事とはいえ、一般の方と普通に恋愛をさせて頂いている以上、私が責められる所以はありませんもの」

「なるほどね」

 君の意見はそうなのか、とでも言いたげに編成部長がやれやれと首を横に振る。

「しかし、どのみちこのような報道が世に出てしまうとね……君ほど顔が売れた人間だとなおさら、これ以降扱いづらくなるわけだよ。わかるね?」

「ゴシップ記事を扱う出版社のことなんて、信用するんですか」

「いや、しかしねぇ……」

「お言葉ですが」

 小さく片手を上げ、編成部長の言葉を遮るディレクター。二人してそちらに注目すれば、彼はおずおずと――少なくとも紗織一人の前では、こんなキャラクターではなかったような気がするのだが――遠慮がちに言った。

「実は、編集部の方に何件か電話があったんです」

 何でも、この記事では全面的にモザイクが掛かった、相手の男に関することだという。紗織は『彼が既婚者であるという証拠はない』と言ったし、一般人である以上誰も知るはずがないのだが――……。

「富広中学校の教師に、背格好が似ていると。それも――既婚者の」

「……っ」

「既婚者だって?」

 もちろん、編成局長も眉をひそめる。

「やはり不倫なのか、どうなんだ? ん?」

「さすがにそれだと、イメージがよくないのではないでしょうか……」

 ぼそぼそと話しこみだす二人に、紗織はだんだん怖くなってくる。

 一件の電話だけなら、思い過ごしだと誤魔化せたが、数件ともなるとそうはいかない。そうだ、ここはあくまでもローカルな場所なんだ。いくら伏せていても、紗織ほど知られていないであろう一般人でも、思い当たる人間ならばいくらでもいるに違いない。

 どうしよう、と紗織は不安になる。

 この頃新人アナウンサーばかりが押され、自分に来る仕事の頻度が減りつつあることには気づいていた。TVワカツキの華と呼ばれた自分も、そろそろ飽きられてきているのであろう。

 これ以上仕事が減るのももちろんだが、何より一番心配なのは――……。

「――あぁ、外が騒がしくなってきたな」

 窓の外を見て、編成部長は溜息とともに呟く。

「あのマスコミの多さ……全国でもニュースになるのだろうか。困ったものだな」

「こんな形で、我が局が有名になるなんて。皮肉なものです」

「うむ……まぁ、あれだ。とりあえずだな、吉村くん」

 紗織は目を閉じた。荒れた心を落ち着けようと、深呼吸しながら、そろそろ最終に近いであろう上司からの通告を聞く。

「しばらく、謹慎でいいね?」

「……はい」

 それで事態が収束すればいいと、心のどこかで彼女はなおも甘いことを考えていた。


    ◆◆◆


 終業式が終わり、クラスメイト達は皆既に姿を消した。

 午後から遊ぶ予定を立てる者や、惰眠をむさぼろうと意気込む者……早く家に帰りたいという気持ちは皆同じらしく、中学生などやはりそんなものなのだろうと帆波は他人事のように思う。

 何となく家に帰る気にならず、一人ぼんやりと教室で本を読む帆波の席に、ふわりと影が落ちた。表情を変えることなく顔を上げれば、そっと顔を近づけてきた香澄の真っ赤な唇が、するりと言葉を紡ぎだす。

「佐川さん、この間はご協力ありがとう」

 何のことを言っているのかは、すぐに分かった。

 忍海とかいう雑誌記者の男から情報を得、吉村紗織の妹である女に会いに行ったのは、ほんの一週間ほど前のこと。その日はちょうど期末テストの最中で、午前で学校は終わっていたのだ。

 忍海と交わした取り引きのため、彼女をどうにか説得しようとした――その時にこの、漆黒の女教師が現れた。

 もちろん、偶然だ。少なくとも帆波にとっては。

「おかげで、あと一歩のところまで漕ぎつけられたのよ」

 まぁ、わたしの戦いは他にもまだあるのだけどね。

 離れた後、ゆるりと歪められた、表情。

 それを綺麗だと思うと同時に、帆波の鼻には微かな腐臭が伝わってきた。いつか感じたことのある、あの香りだ。

「……先生にとって」

 小さく、口を開く。

 ん? と可愛らしく首を傾げる彼女から視線を逸らし、帆波は聞こえるか聞こえないかくらいの声で続きを紡いだ。

「人間失格って、何ですか」

「それはね」

 どうやら聞こえていたようで、香澄は以前花屋でそうしたように帆波の頭を撫でながら、朗らかに答えた。

「人の大事なものを傷つけ奪った、愚かな奴らのことよ」


    ◆◆◆


『TVワカツキの華とも呼ばれる人気アナウンサー・吉村紗織さんに、不倫疑惑です。地元の出版社が報じたところによると――……』

 事務所のテレビが、先ほどからずっと同じ話題を取り上げている。

 亮太はふと、以前飲みに行った時の、大きな仕事が片付きそうだと意気込んでいた忍海を思い出した。

 結局、以前取材していた副島の件がどうなったのかについては聞かなかったが……まぁ、なんだかんだで機嫌良さそうだったしいいか、とも思う。なんとなく、嫌な予感だけは付きまとっているが。

「あーあ。吉村紗織も終わりかね」

 いつの間に隣に来ていたのか、のんびりと保阪が言う。

「どうも最近は、物騒なニュースが多いねぇ。結局、あの副島商事も倒産間近らしいし」

「でも……副島商事の件はともかくとして、こういうのってあんまり俺たちには関係ないことじゃないですか?」

「まぁな」

 でも、わりと近いところで起きてるからな。ちょっと怖いね。

 そう言って肩をすくめる保阪は、相変わらずだった。


 彼らの知らないところで、日々は過ぎていく。

 波乱の足音が、すぐそこまで近づいていることにも気づかずに。

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