はじけた果実の色は

 擦り寄ってくる女の白い肌に触れながら、ディレクターの男は言った。

「そりゃあまぁ、恋愛ぐらいでとやかく言うような局じゃないよ。うちは」

 アナウンサーとは言えど、何もアイドルなんて扱いをしているわけじゃない。TVワカツキは意外と恋愛事情に関してガードが緩く、同じ局内にはいわゆる穴兄弟や竿姉妹も存在する。もちろん、それ相応のスキャンダルがあったっておかしくないだろう。

 それでも、社員を守るのが会社の務めなのだし、多少のことなら局が総出で守ってくれる。もはや看板となっている、顔の良い若手ならなおさら。

 だから、こういった生々しい内部事情が公に出ることは、これまでほとんどなかったと言ってもいい。

 ……あるとすれば、それは局側がその社員を意図的に切ろうとしている場合くらいのものだろう。

 男の口から滑り出る局の内部事情を聞いた女は、ふぅん、と小さく唸った。

「じゃあ……吉村紗織は?」

「吉村紗織?」

 その名が出るとは思っていなかったのだろう、男はさすがに怪訝な顔をした。しかし女がそのむき出しになった肩口に一つ口づけを落とすと、途端に態度はころりと変わる。男はくつくつと笑った。

「そりゃあTVワカツキの看板アナウンサー。華なんて言われてるんだから、何かあったって当然守ってもらえる」

 女の頭を抱き寄せて、その色素の薄い髪にキスをする。不満そうな顔つきになった女に気付いたのかそうでないのか、男はそこでニィッと笑った。

「……と、思うだろ?」

 張り付いた意地悪い笑みは、当人の前では決して出さない表情。憎々しげに、吐き捨てるように、それでも顔は笑ったまま、男は続ける。

「あいつももう三十近い。それよりも若く綺麗な女子アナなんて、いくらでもいる。これまで不動の地位を築いてきたTVワカツキの華は、今や枯れかかってきてるんだ」

 以前撮影したローカル番組で、紗織の代わりに手配された女子アナも、その後釜候補だ。あの番組はわざと紗織がオフの日を見計らい、別のアナウンサーを使って撮影している。九月になったら、しれっと紗織を降板させてしまおうという目論見だ。

 もちろんこのことを紗織本人が知るはずもない。彼女のプライドを傷つけないようにという、一応の配慮である。

 これからも少しずつ、他番組でもこの手を使い、紗織のレギュラー番組を着実に減らしていこうとしている。TVワカツキ内で、紗織の存在はだんだん邪魔になってきていた。

「今までの扱いで、紗織が調子に乗ってるのは明らかだからな。あからさまに俺らスタッフへの態度が悪いわけじゃないし、そういうのよりは確かにマシだが……この日はオフにしてくれとか、この仕事はしたくないとか、こっち向きでは絶対撮るなとか……意外と注文が多いんだよ。そのくせギャラは無駄に高いし、その割に対して視聴率は取れてないし。こっちとしても、あぁいうのはそろそろ切りたいんだよな」

 つい熱が入ってしまう、男の語りを聞き、女は紅の剥がれかけた真っ赤な唇を不気味に吊り上げた。

「じゃあ、教えてあげる」

 甘くねっとりした声に、ぴたりと男の口が止まる。

 何を、と尋ねる前に、女は自らその答えを口にした。

「吉村紗織を引き摺り下ろす、格好のネタがあるのよ」


    ◆◆◆


 平日の昼下がりに、客がいることはほとんどない。そのため、店番を任された美織がこの時間帯に暇を持て余すのはいつものことだ。

 美織は花屋のカウンターでぼんやりと、携帯電話の画面を眺めていた。

『油断大敵、よ』

 あの日放たれた香澄の言葉が、冷たい視線が、それ以来ずっと頭から離れない。その度にざわつく胸も、込み上げる言いようのない感情も、そうなってしまう理由も、まだ知りたくなかった。

 携帯電話の画面には、ローカル番組でよく顔を見る女の、うっとりと笑みを浮かべる姿が映っている。ひとしきり眺めた後、美織が少し操作すると、画面はメールの受信ボックスへと切り替わった。

「美織、何をしているの」

 奥から様子見に出てきた母親が、咎めるように声を掛ける。美織はそこでやっと、我に返った。

「外にお客さんいるでしょう。どうして気づかないの」

 早くしなさい、あんたって子はホントにグズなんだから……といつもの小言が続く前に、美織は携帯電話をポケットにしまい、店を出た。

 店の前には、ぼんやりと何やら思案している少女がいた。手提げ式の黒い鞄を横に置いて、店頭にしゃがみ込んで何かを見つめている。

 二つに縛られた黒髪、一点の乱れもなく手入れされたセーラー服、膝頭まで隠れる長さの黒いプリーツスカート。あの制服は確か、富広中学校のものだったはず。

 七月も中旬を過ぎ、そろそろ夏休みに入る学校も多いという。そのため、平日の昼下がりに中学生を見かけても、特に不思議ではない……ように、思うのだが。

 少女は鉢植えの花の前で、立てた両膝の上に肘を乗せ、頬杖を突いていた。リップも何も塗っていないのであろう、けれどつややかで柔らかそうなピンク色の唇を少し開いて、何やら呟いている。

 美織は経験上、こういった子供の来店にも慣れていた。おおかた、何かを買って帰ろうとしているのだろう。以前来た兄弟のように、母親の誕生日に花をプレゼントしたいとか、大方その辺りだろうか。

 声を掛けようと近づくと、ふと少女が顔を上げた。美織の姿を認め、その利口そうな瞳をスッと細める。幼い見た目からは想像もつかなかった、大人びた――もっと言えば、冷めた態度に、美織はにわかに緊張した。

「吉村美織さんですね」

 まるで美織が来るのを待っていたかのように立ち上がり、少女は言った。落ち着いた低めの、けれどはっきりと耳に通る声。

 どぎまぎしつつ、何故自分の名を知っているのかと半ば混乱しながら、美織は小さくうなずいてみせた。射るような視線から、逃れられないまま。

「あな、たは」

 渇いた喉奥から、ようやくそれだけを絞り出す。無表情を形作っていた可愛らしい童顔に、小さな笑みが浮かんだ……ような気がした。

「わたしは……佐川帆波、です」

 ――佐川。

 その苗字には、覚えがある。……というか、むしろ心当たりしかない。

 うろたえる美織をよそに、少女――帆波はおもむろに地面に置いていた鞄を抱え上げると、中から茶封筒を取り出した。

 渡されたそれを、条件反射でとっさに受け取る。

「取り引き、しませんか」

 この封筒と、わたしの欲しいものを、どうか交換して頂きたいのです。

 じっと見つめられる視線から、逃れる術を美織は持たなかった。彼女の言葉が意味することも、それが誰に影響を及ぼすことなのかも、全てわかっているのに。全てわかっているからこそ、この申し出は、断らなければならないはずなのに。

 唇を噛む美織の鼻腔に、ツンと刺激臭が伝わる。

 コツ、とハイヒールの音に振り返れば、そこには見慣れた黒いワンピースの女がいた。

「新藤先生」

 こんにちは、偶然ですね。

 少しの動揺も見せることなく、帆波はぺこりと一礼する。「こんにちは、佐川さん」とあいさつを返し微笑んだ香澄は、帆波の頭をくしゃりと撫でると、美織に視線を向けた。

「……姉が、妬ましい」

 低く、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、囁くように紡がれる。

「自分とは違って、容姿にも環境にも恵まれ、誰からも愛されて。表舞台で輝き、親からも将来を期待されている。どこにも、一つも、欠けたところなんて見当たらない」

 それは一体、誰の言葉だっただろう。誰の、物語だっただろう。

「でも」

 ……誰の、本心だっただろう。

「それらはすべて、わたしが欲しかったもの。わたしが、手に入れたかったはずのもの。それなのに全部、全部、あの女に奪われた」

 その時、美織の中に張りつめていた何かが、プツリと音を立てて切れた。

「……立場の強さをいいことに、いつだって面倒事ばかりこっちに押しつけて。わたしがどんな気持ちでいたかなんて、考えたこともないのね」

 気づけば、口が勝手に動いていた。紡がれていた物語を、自分自身で繋げているのだ。

 ――どうして。そんなの、認めているも当然じゃないか。

「お姉さん。……誰より美しく、気高く、そしてきたないお姉さん」

 制裁を加えられるのは、妹であるわたしだけ。たった一つの秘密を、共有し合うわたしだけ。

「ごめんなさい、お姉さん」

 うわ言のような呟きを聞いて、目の前に並んでいた二つの顔にゆるりと笑みが浮かぶ。美織はポケットの中に手を突っ込み、硬く冷たい感触をぐっと握りしめた。

 香澄と帆波、そして鼻腔を満たす咽返るほどの腐臭。

 周りの全てに後押しされ、美織はとうとう、最後の言葉を口にした。

「わたしは、あなたが嫌いです」

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