夾竹桃の疑惑

「「ありがとう」」

「どう致しまして。喜んでくれるといいね」

 二人仲良く手を繋ぎ、笑顔でお礼を言う子供たちの頭を、美織は順番に撫でた。にこにことうなずき合う二人に「気をつけてね」と声を掛ければ、もう一度お礼の言葉が飛ぶ。

 母親の誕生日に花を贈りたいとやって来た幼い兄弟たちは、プレゼント用に包んだオリエンタルリリーの花を買って帰った。この花には『子の愛』という花言葉があり、それを教えると「ぴったりだね!」と嬉々として、すぐに購入を決めたのだった。

 二人の母親の顔を知ることはないが、子供たちからのプレゼントということで、きっと花開くように笑うのだろう。目に涙を浮かべながら、幼い兄弟を抱きしめる女性の姿が目に浮かぶようだ。

 美織自身には経験のない、幸福な光景を想像して知らず瞳を細めていると、コツコツとハイヒールの音が近づいてきた。どうやら、足元の主はこちらに向かっているらしい。

 ふわりと甘い香りが漂う店内に、黒百合の花がパッと映える。

「こんにちは、美織さん」

 間もなく現れた、もはやすっかり常連となった彼女――香澄の姿に、美織の化粧気のない顔がパァッと華やいだ。

「香澄さん、こんにちは。いつもありがとう」

 最初の頃には隠しきれずずっと付きまとっていた、緊張感も今はほとんどない。姉といる時のような劣等感などは多少なりともあるけれど(こればかりは生まれ持った性質なので仕方ない)、気さくで明るい香澄の存在に、美織は救われていた。

「今日は、夾竹桃が入ったんですよ」

「夏だものね。綺麗だわ」

 美織がバケツごと持って来た夾竹桃の、可愛らしいピンク色の花弁を、香澄の白い指がつぅっとなぞる。ワンピースの黒と肌の白、そして花のピンク。三色のコントラストは、息を呑むほど美しい。

「ねぇ、美織さん」

 見惚れる美織を、細められた香澄の双眼が捉える。真っ赤な唇が、三日月形に緩んだ。

「夾竹桃の花言葉、御存知?」

「さぁ、そこまでは……」

 いくら花屋の娘で、花の種類や生態に詳しいとは言っても、決して花言葉など迷信めいたことに明るいわけではない。美織はどちらかというとリアリストで、生き方にしても堅実でありたいと常日頃思っている。

 困ったように首を傾げる美織に、香澄はしょうがないわねとでも言いたげに微笑んだ。学を知らない子供に、ものを教える時のような雰囲気。確か職業は教師だと言っていたから、あながち間違いではないのだろう。

「『美しき善良』とか『恵まれた人』とか。素敵でしょう?」

「まぁ」

 美織はとっさに、姉を思う。

 彼女はまさに美しく、善良な人。まさに、恵まれた人。

「姉にぴったりの花だわ」

 今度贈ってあげようかしら、と続こうとした言葉は、香澄の酷く冷たい目線に遮られ、飲み込まれる。

「他にもあるのよ」

 ひっそりと、続く言葉。内緒話をする時のように、香澄と美織は自然と寄り添う形になった。

 真っ赤な唇が、歪に言葉を紡ぐ。

「……『危険な愛』」

「危険な、愛」

 一段と低い声で発されたフレーズに、どきりとする。

 「他に、『親友を大切に』だとか『心の平和』だとか、そういうのもあるわね」と元の声に戻って続ける香澄の声を聴きながら、美織は今頃カメラに完璧な笑みを向けているのであろう姉のことを強く思った。

 姉は、恋に落ちた。それも、家庭がある男と。

 それを危険と言わずして、他にどう表現すべきであろう。

 ……夾竹桃はまさに、姉そのものだ。

「美織さん」

 香澄の自分を呼ぶ声で、美織は我に返る。ゆるりとうつむかせていた顔を上げれば、香澄は何故か見たこともないほど冷たい目をして、美織を――……いや、美織ではない何かを、じっと凝視していた。

「油断大敵、よ」

 呟いた彼女の、視線の先をとっさに追う。

 奥のカウンターには、新聞紙が敷かれている。その上には切った茎と落ちてしまった葉、広がったままの花切り挾が置きっ放しになっていた。先ほど美織が、作業の途中で放ったままの状態だ。何ら、変わりはない。

 ただ、普段と変わっている部分といえば……新聞紙の敷かれていないスペース、ちょうどカウンターの右端の方に、先日姉が持って来た手土産の菓子折が開けたままで置いてあることくらいだろう。


    ◆◆◆


 ゴトリッ、

「やっべ」

 固くずっしりとした音に、愛用のカメラを落としたことに気付いた忍海は慌てて屈んだ。カメラに手を伸ばそうとして、一瞬手を止める。

 いつの間にか目の前にしゃがんでいた、少女の存在に気付いたからだ。

「君、は」

 夏場は陽が長いとはいえ、もうそろそろあたりも暗くなってきた頃だ。こんな時間に幼い子供が――しかもこのようなホテル街をうろちょろしているなんて、いくら子供に縁がない忍海にも危険で奇妙なことくらいわかる。

「こんなところで何してる? 早く家に帰りな」

 カメラのことはひとまず置いておき、少女を立ち上がらせようと手を伸ばす忍海の姿を、少女は身じろぎもせずじっと見つめている。薄暗くて判別しにくいが、おそらく富広中学校の制服を着ているのであろう少女は、その幼さに似つかわしくない、聡明な表情をしていた。

「家、どこ? おじさんが送っていくから……」

「ねぇ、おじさん」

 言葉を掛ける忍海を邪魔するように、少女は声を上げた。淡々とした、女児としては低めの声に、忍海は一瞬怯んでしまう。

 その隙を見逃すまいとばかりに、少女は言葉を続けた。

「おじさん、記者の人?」

「なんでわかるの」

「なんとなく」

 聞き返す忍海の質問を、少女は手短に、かつ曖昧に返した。うさんくさそうに眉をひそめる忍海のことも、構うことはない。大体、大の男相手にこのように堂々としている……というか、ふてぶてしい態度を取る子供は、しかも少女は、なかなかいないだろう。

 その事実だけでも十分驚いているのだが、次に紡がれた少女――その視線は、地面のカメラに注がれている――の言葉に、忍海はさらに驚いて言葉を失った。

「……もしかして、吉村紗織のスクープを撮るの? それで、わざわざこの辺りで待ち伏せてた?」

 図星だった。

 実は最近、忍海の勤める雑誌編集部に、いくつかの目撃情報が入ってきていた。アナウンサーの吉村紗織らしき女性が、男とホテルに入っていくところを見た、という。

 華やかな見た目ではあるが、プライベートはどちらかというと清廉潔白なイメージのある――もちろん、そう売り込んでいるのだろう――吉村紗織がまさかそんな、などと編集部はざわめいたが、とにかくその真偽を確かめて来いと、忍海が駆り出されたのだ。

 ……だが、そんな内部の情報を少女に教えるわけにもいかず、忍海は「君には関係のないことだよ」と年長者らしく諭して濁そうとする。

 しかし当然相手は、そんなごまかしが効くような世間知らずの愚鈍な少女ではない。

「信じるか、信じないかはあなた次第だけど」

 どこかで聞いたようなフレーズを出して背伸びをしようとしているあたり、まだ子供っぽさを残しているようだ。忍海は小さく笑うが、少女はその反応を想定済みなのか、それとも忍海の反応など特にどうでもいいと思っているのか、表情を一切変えなかった。

「吉村紗織は、不倫しているのよ」

「不倫……?」

 何でそんなことがわかるんだ、と疑い半分に聞けば、少女は答えを用意していたとばかりにあっさりと言う。

「だって相手は、わたしの父だから」

 そういうの、不倫っていうんでしょ?

 計算なのだろうか。あえてそこで、あまり物を知らない子供のように、こてんと首を傾げてみせる。

「……よく、知ってるね」

 忍海は緩慢に、落ちたカメラを拾い上げた。衝撃で傷がいっていないか、壊れてはいないかをあれこれ確かめ始める彼を、少女はなおも無感情に見上げていた。

「お嬢ちゃん」

「佐川帆波」

「……帆波ちゃん」

 間髪入れずに名乗られた、その名を呼ぶ。顔を上げた少女に、忍海は黙って自身の名刺を差し出した。

「今日は、もう家に帰りなさい」

「そうだね。そろそろ帰らないと、母が心配する」

 差し出された名刺を受け取ると、存外素直に、少女――帆波は立ち上がった。大きなカバンにカメラを仕舞い込んだ忍海は、彼女を連れてその場を離れる。今日でなくともまた、目撃情報が確かなら、また後日にでも現れるだろう。今日ここに来るという確証があるわけでもないし、急ぐ必要はない。

 何より、やる気がすっかり削がれた。

「詳しく聞かせてもらおうか」

 おおよそ子供を相手に話しているとは思えない忍海の口調に、帆波は相変わらず、少しの動揺も見せることなくうなずいた。


    ◆◆◆


 徐々に増えていく雑踏に紛れ、音の正体はわからなかった。瑠璃は内心ホッとして、ようやく足を動かす。

 帰ろうと踵を返した瞬間、瑠璃は再び立ち止まった。これでもかというほどに大きく目を見開き、傍から見ればオーバーリアクションとも取れる反応で固まる。

 瑠璃の目の前を、以前とは別の男と腕を組み歩く、黒いワンピースの女が横切った。

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