外野からの視線

 父親は昨日から、出張だと言って出かけている。

 家には戻っていないし、もちろん学校にだって来ていないので、彼が担当する授業はみんな、自習扱いになっていた。

「六組、次の授業自習だって」

「えっ、嘘。何で?」

「佐川先生、昨日から出張らしい」

「マジかよぉ、羨ましい……」

 うらやむようなクラスメイトの言葉を聞きながら、帆波は鼻で笑いたくなる衝動を抑える。そんなことをしたら、不審な目で見られるのは目に見えているし、帆波自身目立つことはあまり望んでいないのだ。

 中学生なんて生き物は、基本的にちょろい。反抗期だとか、大人は信じられないとかうそぶいておきながら、無意識に大人の決めたことを守り、大人の言うことを信じているのだ。

 まったく、と帆波は周りにばれないように一つ、息を吐く。

 ――出張なんて、真っ赤な嘘のくせに。

 馬鹿で短絡的思考を持つ母親は、彼の『出張』という言葉を頭から信じて疑っていないようだが、帆波は知っている。あの次期教頭候補とまで呼ばれる『佐川先生』が、今頃どこで何をしているのかを。

 彼が出張だと嘘をついてまで行った、その場所まではさすがに掴んでいないが……そうしてまで家を空けた目的も、会いに行った相手も、全部分かっている。もっとも、佐川自身は帆波がそのような情報を掴んでいることなど、知らないに決まっているのだろうけれど。

 あとは、証拠をこの手に残すだけ。本気になれば、自分の父親である男の教師人生を、断たせるなど容易いことだ。

 まぁ、まだ当分は実行に移す気はないし、今実際にそうしたところで事がうまく運ぶとも思っていない。汚い大人には、こういう時の逃げ道なんていくらでも用意できるものなのだ。それに癪な話だが、そういった狡賢い大人に太刀打ちできるほどの脳を、今の帆波は持っていない。

 だから折を見て、少しずつ外堀を埋めていくつもりでいる。

「次なんだっけ?」

「えーと、理科だね」

 たまたま聞こえてきたクラスメイトの会話に、ふと教卓の方を見る。ほぼ同時にガラリと教室の戸が開き、間もなく黒いワンピースをはためかせたあの教師が入ってきた。

 相変わらず美しい、と帆波は思う。

 夏が近いからか、身に纏うその黒は少々生地が薄く、うっすらと白い腕が透き通って見える。厚手の黒に映える白も鮮烈でよかったけど、黒の中からぼんやりと浮かび上がる白もまた、格別だ。

 あまりじろじろ見るのも不自然に思われるので、帆波は持っていた文庫本に目を落とす。その時ふわりと、鼻をつくような腐臭がした。

「佐川さん、何を読んでいるのかしら?」

 ふと顔を上げれば、いつの間にか席の近くまで来ていた新藤香澄が真っ赤な唇を緩め、帆波を見下ろしていた。

 帆波は表情を変えることなく、ブックカバーを外して表紙を見せる。

「人間失格……太宰ね」

 こくり、と一つうなずく。

 香澄は笑みを深めて、ワントーン低い声で囁いた。

「佐川さんは、『誰』のことだと思う?」

「……さぁ」

 イメージなど、人それぞれでしょう。

 内心の動揺を悟られぬよう、感情の一つも込めず淡々と呟けば、香澄はふふっ、と小さく笑った。二人の会話をかき消すように、チャイムが授業の始まりを告げる。

 その瞬間、香澄はパッと表情を作り替えると、よく通る澄んだ声で「さ、みんな。授業を始めるわよ」と言いながら、教卓の方へ歩いて行った。

「せんせー。六組って自習らしいっすよ。うちのクラスも自習にしようぜ」

「だーめ。六組とこのクラスは関係ないでしょう。いつも通り、授業やるわよ」

「ケチー」

「文句ばっかり言ってると、難しいとこ当てちゃうわよ?」

 うわぁ、鬼だ! などと騒ぐお調子者の生徒に、香澄は明るく軽口を叩く。先ほど垣間見えた怪しげな表情など、もはやどこにもない。

 帆波はしばらく彼女の動向を見ていたが、やがて飽きたように睫毛を伏せると、開いていた文庫本を大人しく閉じ、教科書を出す。

 騒がしい教室の空気をつんざくような、「起立」の号令が響いた。


    ◆◆◆


「準備できたか?」

「はい、後は出演者を待つだけです」

 ディレクターの声に、それぞれの持ち場に着いたスタッフたちが口々に合図をする。腕を組んだディレクターは、満足そうにうなずいた。

 TVワカツキが毎日放映している、地方番組の外ロケ。若槻駅周辺を散策し、さほど目立った様子のない店を適当に探して『隠れた名店』として取材させてもらうのだ。

 結構な確率でこのコーナーのレポーターを務めている、TVワカツキの花形女子アナ・吉村紗織は本日オフのため、別のアナウンサーが取材へ赴くことになっている。今は指定した時間の二十分前。そろそろ、姿を現す頃だろう。

 打ち合わせの準備をスタッフに指示していると、向こうからかつり、かつりとハイヒールの音がした。駅前のため人通りが多いのは当然のことだが、雑踏の中でその音だけが何故かやけに耳につく。

 ふとそちらの方を見ると、薄手の黒いワンピースを着た女が視界の隅からさっそうと現れた。黒光りするハイヒールをかつり、かつりと地面にぶつけて、やけに姿勢よく歩いている。

 綺麗な女だ、とディレクターは思う。

 あんな女、この街にいたんだっけ。その全身は見栄えしない黒で統一されているが、見た目は華やかな方で、どちらかというともっと都会の高級住宅街などに住んでいそうなイメージだが……よくこれまでスカウトに遭わずにいたものだ。

 少なくとも彼には、見覚えがなかった。

 CMのイメージキャラクターとしても使えそうな、愛嬌のある顔立ちだ。今日はスカウト目的で来ているわけじゃないし、そもそも地方局の一ディレクターにそんな権限はないのだけれど、非常に惜しい人材である。

 そんなことを考えながら、ぼんやりとその動向を見ていると、駅に用事があるらしい女は撮影現場へ少しずつ近づいてくる。

 そのまま撮影現場を素通りするのかと思っていたら、近くまで来た途端に突然女の身体がふらりと傾いた。そのまま、右足首を押さえてその場にうずくまる。

 どうしたのかと不審に思う前に、ディレクターの身体は自然と動いていた。座り込んだ彼女に近づき、傍にしゃがみ込む。

「どうしましたか」

「あ、すみません……」

 視線を上向けた彼女は、細い眉を申し訳なさそうにハの字に下げた。色素の薄い瞳が潤んで、何とも色っぽい。

「ちょっと、足を挫いてしまったみたいで」

 ほっそりとした掌が、足首を押さえている。なるほど確かに、そこはほんのりと赤くなっているようだった。

「おい、救急箱持ってこい。……今、スタッフに手当させますから」

「そんな、申し訳ないです」

「お気になさらず。こちらもまだ撮影まで時間がありますし。立てますか」

「肩を貸してくださると、助かります……」

 言われた通り女に肩を貸し、立ち上がらせる。そのまま用意させたパイプ椅子に座らせると、後は救護用スタッフに任せることにした。

「すみません……ありがとうございます」

 パイプ椅子に座った女がこちらを上目づかいで見つめ、ふにゃり、と笑みを浮かべる。先ほど垣間見た艶やかさとは違い、親しみやすく無邪気な表情だった。

「いえいえ。どうか、お大事になさってください」

 その後、手当てを終えた女をタクシー乗り場まで送らせたところで、今日のコーナー担当であるアナウンサーが到着した。打ち合わせで顔を合わせるや否や、不思議そうに尋ねられる。

「何か、いいことでもあったんですか」

「いや? 何も」

 美人と多少関わった、それだけのことで気分が上昇するとは、男なんていくつになっても単純な生き物なんだな。自分でそんなことを思い、内心苦笑する。

 しかしその時の彼は、まだ気づいていなかった。

 女に肩を貸した時、さりげなくポケットに忍ばされていたメモ紙の存在に。

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