アナウンサーの恋人
紗織と『その人』が出会ったのは、ある番組のロケでのこと。取材のために訪ねた施設で、当時新人であまり経験のない紗織へ宛てられた案内役が、彼だった。
テレビ慣れしていたのかどうかは知らないが、緊張の様子も見せず――もともと紗織より
それから紗織は、積極的に彼に近づいた。職業柄、彼の職場を取材で訪ねることはそれからも何度かあったし、それ以外ででも偶然を装って道端で待ち伏せてみたり、顔を合わせるべく先回りしたりすることは容易い。彼の行動パターンを掴めば、簡単だ。
大胆に色仕掛けをしたわけではない(あくまで本人はそのつもりだった)のだが、自分が得意としている上目遣いや、いつもより高めの声色、そして自慢の豊満な肉体を駆使して落としにかかれば、彼もやはり男だったらしく、さほど時間を要することなく男女の関係にまで持ち込むことができた。
……が、それから少し問題が起きた。当時紗織には、別に付き合っていた恋人がいたのだ。
そして彼にもまた、紗織以外に守るべき存在があった。左手の薬指に光る金属が、出会った当初から雄弁に物語っていたのである。
それでも紗織には、関係なかった。
愛する人以外に相手がいるなら、自分から手を切ればいい。そして――愛する人に相手がいるのなら、
恋愛なんて、そういうものだ。弱肉強食、気持ちという名のデータは常に更新されていく。いくら相手に家庭があったって、自分に恋人がいたって、関係ない。好きになったものは、しょうがないのだ。
当時の恋人には少し悪いことをしてしまったが、単純に自分を繋ぎ止めておくだけの魅力が足りなかったのだと心で言い訳をする。優しい人だったんだけど、ね。
あとは、彼が自分のために、今の家族を捨ててくれるだけだ。
――そう、紗織は思っていたのだが。
紗織の誘惑に順調に乗ってくれていた彼が、思い通りに動いてくれなくなったのは、ここからだった。
奥さんと別れるようさりげなく進言しても、もはや別れてほしいと直接言っても、その度にのらりくらりとかわされる。一向に、相手方と手を切る気配がないのだ。
関係を続けていくうちに、紗織は本気になっていた。これほどまでに男に執着したのは、初めてのことだ。
こちらは、結婚だって考えているのに。
そのことを正直不満に思っているのだが、彼から連絡をもらうたびに、そして実際に彼と会い、身体を重ねるたびに、そんな感情なんてすぐに消えてしまう。些細なことだと思ってしまう。
はぐらかされているのだろうことは、薄々気づいている。あの人に遊ばれているんじゃないかと、妹にも心配された。
それでも好きなんだから、しょうがないじゃないか。
当初は奥さんへちょっとした嫌がらせを仕掛けたり、子供にも接近してみたりしようとしたけど、最近は家族を想う彼の気持ちを尊重して、そういったことはやめている。自分も一応有名人だし、あまりやると波風が立つだろう可能性も否定できない。
誰にも言えない甘やかな、秘密の関係。そういうのも、いいかもしれない。
だんだん、寛容な気持ちになってきた。
たくさん嫉妬もしたし、一度は諦めようとも思ったけど、それでもあの人を愛している。そんな風に、誰かを追いかける恋愛は生まれて初めてで、だからこそ大切にしたいと思った。
いけないことだと、知っていても。
◆◆◆
『いつもの場所』こと、若槻駅の高架下に着いたのは、七時の少し前。
薄暗い中、既に目的の車はそこにあって、紗織は満面の笑みを浮かべながらそちらへ小走りで駆けて行った。
運転席の窓が開き、スーツを着込んだ『彼』が困ったように微笑む。
「そんなに急いだら、危ないだろう」
ヒールの高い靴を履いていた紗織の足を心配する言葉に、紗織は嬉しくなりながら「だってぇ」とカメラの前や同僚たちの前では決して出さない、甘えた声を出す。
「あなたに早く会いたかったの」
『彼』は小さく笑って、「乗って」と声を掛けた。言い終わるか終らないかのうちに、紗織はぱたぱたと助手席のドアへと回り込む。乗り込んだのを確認した『彼』は、シートベルトをするよう紗織に忠告した後、すぐにアクセルをゆっくり踏み込み、車を発進させた。
ホテル街の近くに月極駐車場があるので、いつものようにそこへ向かう。その駐車場代も、食事代も、これから行くホテル代も、全て負担してくれる『彼』は本当に紳士だ。
運転する横顔も、惚れ惚れするほどかっこいい。贔屓目と言われてしまえばそれまでだし、恋は盲目なんてよく言ったものだとも思うけど、実際そうなのだから仕方ない。
「ディナーはまだだろう? 先に済ませていくか」
「うん。ありがとう」
駐車場に車を停めると、近くの食事処へ足を運ぶ。ネオンサインの光るホテル街と違って、居酒屋などが並ぶ道は少し薄暗く、辺りには仕事帰りのサラリーマンやOLがちらほら紛れている。そのような一帯でスーツを着た二人が歩いていたところで、いくら紗織が顔の知れた人間といえどもさほど目立つことはないのだ。
それに彼いわく、彼の家族が普段こんなところまで来ることはないというし、紗織の家族も商店街周辺から遠出することは少ないから、どちらかの家族と鉢合わせる心配もない。
万が一仕事仲間に会ってしまったら、素早く顔を隠してその場から遠ざかればいいだけの話だ。そんなことには、もうとっくに慣れている。
すっかり安心しきった紗織がふと隣を見上げると、彼が少し眉をひそめて向こう側を見ていた。ホテル街の方だ。まばらな人影の中に、ひょっとして知り合いでも見つけたのだろうか。
わざと彼の腕を取り、そこに顔を押し付けるようにして、尋ねてみた。
「どうしたの、浩介さん?」
「……いや、」
勘違いだろう、と小さく呟いた隣の彼――佐川浩介は、繕った笑みを見せた後、紗織のつむじに一つ、誤魔化すような口づけを落とした。
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