仲良きことは美しきかな

 やることをやったあとの余韻が残る、役目を果たしたホテルの一室。

 煙草の煙が微かに揺らめく中、紗織はシーツにくるまった状態で、携帯電話を耳に当てていた。

『幸せそうね、お姉さん』

 電話の向こうからは、聞き慣れた妹の声。店を閉め、数ある母親の手伝いを終えたからなのか――本人はそのようなこと、一言も言わないが――少し疲れたような声色だ。

「そりゃあもう」

 対する紗織はその声も、そして表情も、あからさまに上機嫌だった。まさに今が幸せの絶頂とでも言わんばかりに、とろけきっている。

 その隣では、煙草を一本吸った後の佐川が、気怠そうに頬を緩めていた。紗織の頭を腕枕し、その手で彼女の髪を梳いている。口に残っていたらしい紫煙を吐き出すその仕草さえも愛おしく、見惚れるほどに格好いい。

 離れて暮らすがゆえに心配してくれているのだろう、こちらを気遣った妹の言葉を聴きながら、紗織はそっと下腹部に手を当てた。先ほどまでこの中に受け入れていた、彼の圧倒的な熱と容量と形が、名残となっても未だに紗織を恍惚とさせる。

 紗織にも経験は多少なりともあるため、佐川以外の他の男のことだって知っている。それでも、彼以上にしっくりとくる相手は他にいないと思った。

 過去に最愛だと思っていた人でさえも、佐川には敵わない。

 きっと、これからも一生、彼以上の存在が現れることはないのだろう。

『聞いてる? お姉さん』

 妹のくぐもった声に、紗織は悪びれもせず答える。

「ごめんねぇ、美織。お姉ちゃん、幸せすぎて聞いてなかったわ」

『まったく……まぁ、お姉さんが幸せだって言うならそれでいいけど』

 これ以上邪魔するのは悪いし、そろそろ切るね。二人の時間、存分に楽しんできて。

 美織は気遣いのできるいい子だ。少々のんびりした性格のため、昔から母親にはいびられてばかりいたけど、本当はとても優しい子。目立つことはないけれども、陰で人知れず努力を重ねる、真面目な子。

 昔からずっと、姉である自分を慕ってくれる。いつだって、自信をつけさせてくれる。紗織が表舞台で活躍したいという夢をこうして叶えることができたのも、美織が後押ししてくれたおかげだ。

 通話の切れた携帯電話を置き、隣で寝そべる佐川の広い胸板に、甘えるように頭を擦り付ける。

 こんなにも出来のいい妹と、こんなにも素敵な恋人を持つ自分。

 自分以上に満ち足りた、幸福な人間が、他にいるのだろうか。

 佐川の胸が僅かに揺れる。おそらく、笑ったのだろう。

「今夜は一段と甘えん坊だね、紗織」

 頭上から降ってくる声は、耳に心地よく響いて。

 頭を撫でてくれる手と、心地よい振動を奏でる胸板にその身を預けながら、すっかり現状に酔いしれた紗織はうっとりと、頬をだらしなく緩めたまま目を閉じた。


    ◆◆◆


 最寄りの商店街の方面から、見覚えのある黒いワンピースの女性が歩いてくるのが見えた。副島の葬式で見かけて以来、久しぶりに会うその姿に、亮太は思わず声を掛ける。

「新藤さん」

「あら、宮代さんじゃないですか。お久しぶりです」

 白い肌に薄手の黒い布を纏い、真っ赤な口紅を塗った、そんな妖艶な見た目とは裏腹に、その笑顔はどこまでも無邪気だ。

 あれ以来、少しは立ち直れたのだろうか。最愛の恋人を亡くして、悲観に暮れる背中を思い出しながら、少々おせっかいなことを考える。

 聞いてもいいものかどうか、迷っていると、香澄はへにゃりと眉を下げた。

「卓也さんのお葬式、来ていらしたんですね」

「……えぇ、まぁ」

 一応、事務所うちの得意先の方でしたから。

 内心動揺しつつそんなあたりさわりもないことを答えれば、「そうですよね」と少し寂しそうな顔。やはりそんな短期間で傷が癒えるはずなどなかったのだろう。話を振ってきたのは向こうからだが、僅かながらにもそういった態度を出すべきではなかったと、亮太は自分の軽はずみな行動を後悔した。

「……あの」

 沈黙を作ると耐えきれなくなりそうで、思わず口を開く。うつむき気味に亮太の隣を歩いていた彼女は、緩慢に顔を上げた。心なしか、瞳が潤んでいるような気がする。

「少しは、気に掛けてくださっているんですか。わたしのこと」

「えっ」

「……」

 戸惑う亮太に、香澄は言葉もなくゆるりと笑んでみせる。何か話さなければと思い、そういえば、と亮太はやけにはっきりと言葉を紡いだ。パッと思いついた話題を、思いつくままに口にする。

「うちの事務所があるビルって、二階があって……そこに、八神さんって方が弁護士事務所を開いてるんです」

「えぇ」

「この間、久しぶりに用事があって八神さんの事務所を訪ねたんですが、窓辺に真っ赤な花の鉢植えが置いてありましてね。あれ、なんて花なのか……俺は花とか詳しくないんでよくわかんないですけど、まるで炎が燃えてるみたいに、すごく綺麗で」

 途中から何を言っているのか、そもそもどうしてそんなくだらない話を持ちかけたのか、いろいろなものを見失いそうになりながらも、沈黙を埋めるように必死に言葉を紡いでいく。終着点なんて、もちろんない。

 しかし、わたわたと焦る亮太の姿がよほど滑稽だったのか、香澄は吹き出すようにクスッ、と笑った。

「宮代さんって、面白い方ですよね」

「え、いや、その」

 途中から気まずくて香澄の顔を見れずにいた亮太は、予想だにしなかった反応に顔を上げて彼女を見る。香澄はくしゃりと表情を歪め、堪えられないというように笑っていた。

 困ったように眉を下げる笑い方は、単純に見ればどこか無理をしているようだが、本当に楽しそうなときにそういう顔をする人間は意外といるものだ。だからこそ、亮太には香澄の真意が見えない。

「あ、あの。新藤さん?」

「はい」

 反応に困った亮太は、別の話題を出してみることにした。薄暗くなってきた空の下、その光景は奇妙に浮かび上がる。

「これから、どちらへ」

「美織さんのところに……花屋に、寄ろうかと」

 一度聞いた名前に一瞬亮太はピンとこなかったが、それと察した香澄が言い直してくれたおかげで理解する。この商店街にある花屋――フラワーショップ吉村を、彼女は近頃よく訪ねているようだ。

「本当は昨日休みだったので行こうと思ってたんですが、お姉さんがいらしてたみたいで……だから今日、行くんです」

「お姉さんって、確か」

「TVワカツキのアナウンサー……」

 言うまでもない。吉村紗織のことだ。

 しかし香澄は、その個人名を口から出そうとしない。この情報だけで分かるでしょ? とでも言いたげに、ちらりと亮太を見る。もちろん亮太にはわかったし、それはごく自然なようにも見えたが、この景色に溶けていきそうな暗い光を宿した瞳が、どうにも気にかかった。

「旅行に行っていたんですって。そのお土産を、昨日持って来てくれたんだそうですわ」

「……そう、なんですか」

「えぇ」

 やけに淡々とした話しぶり。先ほどとは打って変わった雰囲気に、気圧されそうになる。不意にツン、と覚えのある匂いが漂ってきた。

 ふ、と香澄が小さく笑う。真っ赤な唇がそっと綻んでいく様子は、無邪気で、幻想的で、蠱惑的で、理由もなくぞっとした。

「では、そろそろこれで」

「……はい」

「久しぶりにお会いできて、楽しかったわ」

 いい具合に話を切ってしまうと、ぺこりと一礼し、遠ざかっていく黒いワンピース。最後の笑みとともに残された意味深な言葉に、亮太は思わず足を止めていた。

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