花屋の看板娘

 宗教のモチーフを宿した、しなやかな白い両手。習得には時間がかかる複雑な形を、彼女はいとも容易く、器用にあっさりと組んでみせた。

 閉じられた瞳。伏せた長い睫毛が影を作り、神秘を醸し出す。

 神に祈りを捧げる彼女は、まさに天使。清らなイメージからかけ離れた、真っ黒な衣装に包まれた身に、ある種の倒錯を覚える。

 ――嗚呼、神様。どうか今だけは、わたくしの無礼をお赦しください。

 隣にいた律子は、自らの祈りも忘れ、その神々しく美しい姿にしばし見惚れてしまっていた。


「香澄さん、今日はこれから何かご予定があって?」

 休日にある定期集会を終え、周りの張りつめた空気が徐々に解れていくのを肌で感じながら、律子は最近集会によく来るようになった、黒いワンピースの女性に声を掛けた。

「そうですねぇ」

 女性――香澄は人懐こい笑みで答える。

「今日は休日で、学校へ行く必要もありませんので、特にこれと言った予定はないのですが」

 香澄は、律子の娘が通っている学校の教師で、夫の同僚でもある。娘のクラスの理科を担当しているらしい。……らしい、というのは、娘や夫が家であまり学校の話をしたがらないので、実際のところどんな教師なのか律子にはよく分かっていないからだ。

 けれども近所のママ友の話では、非常によくわかりやすい授業をしてくれるという。今度行われる保護者参観で、そのあたりのことはぜひともこの目で確認しておきたいところだ。

「じゃあ、ちょっとお茶していきません?」

「いいんですか?」

「えぇ。今日主人は出張で遅いし、帆波ちゃんも今の時間は塾に行ってるし、家に帰っても一人で暇なのよ。少し付き合ってちょうだい」

「えぇ、是非」

 明るくはきはきとした口調には、確かに好感を持てる。そこに先ほど見た儚げな天使のごとき印象はないけれど、きっと神の導きで、来るべくしてここに来た人なのだ……と律子はそっと心のうちで感謝をする。

「商店街の一角に、最近オープンしたカフェがあるのよ。一緒に行きましょう」

「はい、ありがとうございます」

 公会堂を出ると、商店街に向けて二人は連れ立って歩いた。隣を歩く香澄の姿勢の良さはまさに折り紙つきで、黒いハイヒールがコツコツと音を立てるのが小気味よく律子の耳に届く。

 そこそこ繁盛している昼下がりの商店街、甘い匂いを纏う花屋の前で、彼女はふと思いついたように立ち止まった。

「あら、香澄さん」

 水やりをしていた若い娘が、香澄へ親しげに声を掛ける。彼女はそれに答えるように、清らに微笑んでみせた。

「美織さん、今日も御苦労さま」

 長い黒髪を低い位置で一つに縛り、この花屋――フラワーショップ吉村のシンボルである淡い紫色のエプロンをしている娘。彼女は先代からこの店の経営を引き継いだばかりだという、吉村家の次女・美織だ。

 とは言っても、律子にとっては印象が薄く、美織などという名前であることすらちゃんと覚えていなかったのだが。

 ぼやぼやしたはっきりとしない顔立ちが、どうやらこちらに向かって笑みを作ったようだったので、律子も社交辞令として一応微笑みと会釈をしておくことにする。我が主である神は、この地味な娘に対しても相応の愛情を注いでいらっしゃるはずだ。仕えさせていただく身として、その御意思を大事にせねばならない。

「あとで寄らせていただくわね」

「分かりました」

「じゃあ、また」

「はい、ありがとうございます」

 圧倒的な存在感を醸し出したまま、印象の薄い娘との短い会話を終えたらしい香澄は、「行きましょうか」とこちらに微笑みかけてきた。こくりとうなずけば、そっと律子を促すようにして再び歩き出す。

 何気ない仕草さえ、惚れ惚れするほど美しい。やはりこの人は神に特別愛されているのだろう。

 あぁ、神様。このような素晴らしい女性に巡り合わせてくださったこと、心より感謝いたします。

 幾度目になるか分からない言葉を、律子は心の中で繰り返した。


    ◆◆◆


 ふんわりとはためく黒いワンピースの裾に、美しく可憐な黒百合の花を重ねあわせる。しゃんとした背筋はまるで健康的な茎そのものだ。その後ろに着いている女性は、さながらドクダミの花とでもいったところか。地味な草花でしかない自分が言うことでもないかもしれないが、あの人は正直言って引き立て役にもならない。

 二人の女性の後姿を見送った美織は、ふぅ、と小さく息を吐いた。

 香澄が初めてこの花屋を訪れてからというもの、彼女は頻繁に花を買いに来てくれるようになった。そのおかげで必然的に会話も増え、今のように顔を合わせれば必ずと言っていいほど親しげに声を掛けてくれる。ただの花屋と客という関係性にしては、随分と距離が縮まってきたのではないだろうか。

 普段日陰にいることに慣れきった人間が、急にスポットライトを浴びる機会を貰うのは、内心嬉しいけど少し怖い。目立つ人に構われる気分は、急に部隊の真ん中へ引き連れられる一般客のそれとほぼ同等だろう。体験したことはないけれど。

 ふと、美織は先ほど昼食を食べていた時に見たテレビを思い出した。この街屈指の規模を誇るTVワカツキが手掛ける、人気ローカル番組のMCを務めていたアナウンサー。

 吉村紗織――可憐な薔薇の花である、美しい女性。美織にとっては、実の姉に当たる人。

 彼女はいつも、こんな自分のことを気に掛けてくれる優しい人だ。血の繋がった妹だからという、ただそれだけの理由で。

 本来なら自分みたいな存在など気にも留めないだろうに。こちらがいくら憧れの眼差しで見つめたとしても、きっと届かないに違いないのに。

「美織、暇なんでしょう。包装の作業手伝ってちょうだい」

 奥から、母親の声が聞こえた。ハッと我に返った美織は、「はい」と普段より張りめの声で答え、急いで向かう。

 いつも行動がゆっくり気味の美織は、よく怒られる。

「あぁ、やっと来た。まったく、あんたって子は言われないと動かない。気が利かないのね」

 顔を合わせて早々、眉間の皺を深めた母親に小言をぶつけられる。

「役に立たないねぇ。あんたなんかに店を任せて、本当にいいのかしら」

「ごめんなさい」

「謝るだけなら猿でもできるの。ほら、ぐずぐずしないで手を動かしなさい。道具、そこにあるから」

「……はい」

 ――いいんだ。

 美織は無理に笑みを作った。そう、いいんだ。こんなのは毎日のこと。もう、慣れてる。

 ポケットに入れた携帯電話が、軽やかな音を鳴らす。忙しなく作業を進めながら、美織は小さく笑みを零した。

「お姉ちゃんからのメールだね」

 姉からの連絡には、専用の着信音を設定している。それを知っている母親が、自分まで嬉しそうな声色で呟いた。

「好きな仕事して、テレビで活躍するのはいいことだし、こっちも嬉しいんだけどね。たまには帰ってきてくれればいいのに」

 美織は知っている。母親が、紗織に帰ってきてほしいと思っていること。この店を、本当は紗織に継いでもらいたいと思っていることを。

「紗織がうちにいた頃は、今よりお客さんも来てくれてたね。ほとんどが若い男のお客さんだったけどさ」

 美織だって、そうするべきだと分かっている。自分なんかより、紗織の方が看板娘としてふさわしいのだと。

「それでも、口コミとか……あぁ、そうだ。一回特集かなんかでうちの店を取り上げてもらえればいいね。美織から頼んでみてよ」

 アナウンサーなんて辞めて、この花屋を継いでちょうだい。

 直接そう言ったわけではなかったけど、言外に込められた母親の意図が、嫌というほど伝わってくる。涙が出そうになるのを堪え、美織はそっと唇を噛んだ。

 ……あぁ、また手が止まりそうになっていた。ちゃんと仕事しなくちゃ、お母さんがまた気を悪くする。

 役立たずでも、愚鈍でも。姉の代わりになど、到底及ばなくても。それでも、やるしかないんだ。努力するしか、ないんだ。

 だって今この花屋には、自分しかいないのだから。

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